三十六 因果律が働かない世界で
(前回あらすじ)
ハイブリッド型パイケーエス式潜水艦初号機での訓練半ば、昼食の時間がやってきた。トムにとっての「毒入り」昼食を食べた私は思わず潜水艦の操舵方法についての愚痴をトムに漏らすがトムは『パイケーエス式』だからに決まっているだろうとあきれ顔。食い下がる私に『オデッユセウスとパイケーエス人の船』について説明をするのだが――。
(登場人物紹介)
【私(二瓶十兵衛)】桃山時代にキルケの島へ漂着した織物商。既婚子あり。妻は子守歌が上手。
島で唯一の人間。島から脱出するための潜水艦に乗船するためキルケの誘惑を交わしながら奮闘中。
【きるけえ(キルケ)】男を獣に変える人さらいとして恐れられる妖女。島で獣に囲まれて一人暮らしの喪女(ただし美人)。見た男すべてに一目ぼれする呪いをイシュタルから掛けられている。
【いしゅたる(イシュタル)】自らを明星の大神と宣言する自信に満ち溢れた美しい女神。バビロニア時代からの恨みつらみがあるようで見た男すべてに一目ぼれ片思いをする呪いをキルケに掛けて海に投げ込んだ犯神。
【とむ(トミー・ビス)】リバプール出身の元潜水艦乗り現オオヤマネコ。人間時代は長身痩躯短髪。短気で気まぐれ飽きっぽい。イシュタルが嫌い。
【海豚の顔をした男】元高僧。キルケの呪いを解こうとしたが撃沈し海豚の顔を持つ獣面人身になる。虚空蔵にアクセスして脱出用の船を設計製造していた所「私」が島にやってくる。モノによっては空から物質化もできる。
【ふらんそわ(フランソワ・ド・ブロア)】シャンパーニュ出身。元十字軍志願者現黄金色の毛並みの犬。エルサレムに向かう途中で難破。キルケにとても懐いており、なぜかしばらく獣にならずに済んでいた。謹厳実直。
【綿菓子のようなふわふわした何か(水神エア)】イシュタルの古い知り合い。飲み比べに負けてイシュタルに水神としての権能以外を奪われる。「私」に呪い除けの水を持たせ、イシュタルとキルケの因縁と、キルケの怒りを防ぐ方法を教える。
ふらんそわに連れられて館の自室に戻ると、とむは寝台の真ん中に伸びたまま私をちらりと見た。
「もう、駄目かも」
ぼすっと音を立ててとむの横に座った私は、頭を抱えて深いため息をついた。
「どうしたんだよ急に。嫁さんと子供に会うんだろ」
「それが、どうしても妻の顔がきるけえの顔にすり替わるんだ」
「大方術でも掛けられてるんだろ。水はちゃんと飲んでるのか。解呪の呪文は唱えているのか」
「教えられた通りにやっているつもりなんだが、どうにも……」
私は頭を抱えたまま、再度妻の顔を思い起こそうとした。
だが輪郭があやふやににじんだかと思うと、きるけえのはにかんだような顔と私の肩口に寄せる髪の匂いばかりがくっきりと浮かび上がった。
「駄目だ、やっぱり妻の顔がきるけえの顔に書き換わる」
とむがぐわっと牙をむき出しにあくびをした。
「子供の顔は分かるんだろ」
「赤ん坊だったから今ではどの位育ったやら」
「そうよな。ここでの一日が元の世界のどのぐらいの日数かが判らねえと話にならんが、時間の流れがいびつだってんだからどうにもならねえや」
「その件なんだが、法主様は何か言っていなかったか」
「法主様って堅苦しい呼び名はやめてくれ。あんなのは海豚の坊さんで十分だ」
しかめつらをしながら前足で顔を洗うと、とむは全身を弓なりにそらせた。
「坊さんから俺が聞いたのは、この間説明したのが全てだ。俺に言わせれば、時間の流れがいびつなら、結果には原因ありきって常識が通用しないだろ。だから何を考えても無駄だと思うことにした」
私は、因果律が働かない世界に放り出されたと言う訳か。
どうりて、神の普遍性と因果律の対極にあるわがまま放題のいしゅたるが我が物顔で神を名乗れるはずだ。
私はとむの言葉に妙な説得力を覚えた。
「いしゅたるはここは死の世界と思えばそうなり生の続きだと思えばそうなる世界だと言っていた。ならば、自分にとって都合の良い時間の流れだと思えばそうなる可能性があると思わないか」
名案だと自分では思ったが、とむの反応は冷ややかだった。
「人間暇だとロクな事を考えねえや。眠くなるまで墓場歩きでもしてきたらどうだ」
「そんな事をしたらきるけえに構われる」
「いっそ構われたらどうだよ」
面倒くさそうにとむが吐き捨てた。
「きるけえに体を許すなって、水神様も法主様もとむも言っただろ」
「そうだけどよ。正直、同じオスとして忠告するが吐き出すものを貯めこみすぎてりゃ余計におかしくなるばかりだろ。一度で獣にならなかったフランソワって手本もあるわけだし」
「獣になる危険を冒してまで欲に呑まれている訳じゃない。いざとなれば一人で何とかするしかないが、今はそれ所ではないしな」
「それじゃ海でエイと仲良くなっておく事だな。彼女らは七つの海を渡る船乗りの恋人だからな」
「冗談じゃないぞ。私は人間だ」
私は憮然としながらため息をついた。
「くそったれ女とエイしかニヘイさんの相手はいねえからな。猫やウサギの侍女達は手の出しようがないしつれないぜ」
「出したのか」
私はぎょっとしてとむを二度見した。
「俺じゃねえよ。今じゃもぐらになっちまった漁師のおっさんが、給仕の猫の侍女に手を出しかけてな。ありゃひどいもんだった。顔面をずたぼろに引っかかれた上にその場でもぐらにされて中庭に放り投げられた。もぐらは明るい所にいられないから地面にもぐっちまってそれきり姿を見てねえけどな」
とむはぶるっと毛を逆立てた。
「うさぎの女工さんもひどいもんだった。春先になると海岸でわかめやのりの刈り入れを皆でするんだ」
工場で機織りをしている彼女たちの姿を私は思い起こした。
「ちょうど刈り入れをしたわかめをせっせと干している時に、全裸の男が波間から現れた。何を思ったか奇声を上げながらわかめを干している女工さんたちの方に突進してよう」
「それでその男はどうなったんだ」
私は思わず身を乗り出した。
「うさぎは足は速いし脚力が凄いだろ。若い女工さんを逃がして、おかみさん達が輪になって全裸の男を蹴り倒してな」
足をすっぽりと隠す長い履物で目立たないが、確かに元がうさぎなら脚は相当強いだろう。
「俺が知る限り、あの男はくそったれ女の心を奪わなかったたった一人の男だった」
「そりゃ全裸でいきなり女の群れに突入するなぞ正気の沙汰じゃなし」
「いやいやそうでなく。くそったれ女の目につく前に蹴られ続けて、な」
とむは、『我らの罪を許したまへ』と言って私を見た。
「ああ、そう言う事か。そりゃ災難だったと言うべきか、この島でずっと過ごし続けずに済んである種救われたと言うべきか」
「まあどちらが本人にとっての救いだったかは分からねえけどよ。ニヘイさんは脱出するために墓場歩きも人体改造もやってるんだ。そんなに諦めたような事を言うな」
とむが珍しく優し気な声で告げた。
「その通りだが、私はこう見えて短気なんだ」
「知ってた」
とむは一言返答すると丸くなって寝始めた。
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