三十一 天草の南蛮画
(前回あらすじ)
トムと一緒に湯を使った「私」は夕食の席で「精の付く」料理をふるまわれる。食事を終えて席を立つ私にキルケは一瞬の隙をついて口移しでリンゴ酒を飲ませた。
(登場人物紹介)
【私(二瓶十兵衛)】桃山時代にキルケの島へ漂着した織物商。既婚子あり。妻は子守歌が上手。
島で唯一の人間。島から脱出するための潜水艦に乗船するためキルケの誘惑を交わしながら奮闘中。
【きるけえ(キルケ)】男を獣に変える人さらいとして恐れられる妖女。島で獣に囲まれて一人暮らしの喪女(ただし美人)。見た男すべてに一目ぼれする呪いをイシュタルから掛けられている。
【いしゅたる(イシュタル)】自らを明星の大神と宣言する自信に満ち溢れた美しい女神。バビロニア時代からの恨みつらみがあるようで見た男すべてに一目ぼれ片思いをする呪いをキルケに掛けて海に投げ込んだ犯神。
【とむ(トミー・ビス)】リバプール出身の元潜水艦乗り現オオヤマネコ。人間時代は長身痩躯短髪。短気で気まぐれ飽きっぽい。イシュタルが嫌い。
【海豚の顔をした男】元高僧。キルケの呪いを解こうとしたが撃沈し海豚の顔を持つ獣面人身になる。虚空蔵にアクセスして脱出用の船を設計製造していた所「私」が島にやってくる。モノによっては空から物質化もできる。
【ふらんそわ(フランソワ・ド・ブロア)】シャンパーニュ出身。元十字軍志願者現黄金色の毛並みの犬。エルサレムに向かう途中で難破。キルケにとても懐いており、なぜかしばらく獣にならずに済んでいた。謹厳実直。
【綿菓子のようなふわふわした何か(水神エア)】イシュタルの古い知り合い。飲み比べに負けてイシュタルに水神としての権能以外を奪われる。「私」に呪い除けの水を持たせ、イシュタルとキルケの因縁と、キルケの怒りを防ぐ方法を教える。
口づけの先をせがむきるけえを制してくれた事で、とむへの借りがさらに増えた。
私は、とむに寝台を好きに使わせ、その端に小さくなって一晩を過ごした。
細い窓から朝日が差し込む頃には、とむは大きな伸びをして私の腹にのしかかった。
「起きろよ。腹減った」
オオヤマネコだと言うのに、昼行性だか夜行性だか判然としない。
四六時中寝ているのか起きているのか分からないが、寝ているように見えて水神の話を聞いていたようだから、傍目からは判断できないだけなのだろう。
「起きてる」
私は緩慢に起き上がり、身支度を整えた。
リンゴ酒の香りのする口づけをした後だけに、きるけえと顔を合わせるのが気まずくはある。
だが館の客人である以上、こっそりと館を抜け出すのもぶしつけだ。
私は大きく息を吸ってふらんそわに教わった通り目を上下に回し、水筒の水を飲んだ。
「ひでえ面だなオイ」
毛むくじゃらの顔を歪めて笑うとむに言われる筋合いはない。
私は憮然としながら、きるけえの衣服の色を予測して伝えた。
「昼飯の具は」
「きるけえの故郷の軽食」
「大穴狙いかよ、当たっても一シリングにもなりゃしねえ」
「しりんぐとは、とむの故郷の金の単位か」
「ああ、安酒を引っかけるにちょうどいい金額だな」
とむは、じんとにっくが飲みてえなと言いながら部屋を出て行った。
「あんたの予想が当たってやがる。やっぱり坊さんのチップはすげえや」
とむが大広間に入るなり、低い声を出した。
晴れ渡った天草の海のような水色の上下を着たきるけえは、食堂の大きな窓の前で横たわるふらんそわの毛並みを梳いている所だった。
開け放たれた窓から朝特有の清々しい空気が入っていた。
ふらんそわの黄金色の毛並みが朝日に照らされて、部屋中に金色の粒子のように反射していた。
私はこの完全なる調和に満たされた空間を汚すのが忍びなく、そっと音を立てぬように館を後にした。
「人と人としては互いを愛で満たせなかったのに、人と獣になってから互いを愛する事になるとは酷な話だな」
庭から二人の姿を見やりつつ、私は天草のせみなりよで見た南蛮画に思いを馳せた。
陽だまりの中できるけえの腿に身を預けて目を閉じているふらんそわと、静謐な表情でその黄金色の毛並みを梳くきるけえの姿は、あの南蛮画そのものであった。
「あれと同じ構図の絵をな、せみなりよで見たことがある」
「セミナリヨ?」
とむはがっしりとした四肢の歩みを止めて、私を見上げた。
「今ではすっかり御法度になってしまったが、私がまだ父の見習いをしていた時分にせみなりよが天草にあったのだ。そこには幼子を膝に抱く聖母様の絵が掛かっていた。宣教師の話は全く理解出来なかったがあの南蛮画は良く覚えている」
人の姿をしたとむとも少し違う姿形の宣教師達の説法は私の心を動かさなかったものの、あの幼子を膝に抱く聖母の絵は信仰の差を超えた尊き存在の象徴だと年若き私は深い感銘を受けたものだった。
よもやその南蛮画を見たのと同じ感銘を、きるけえの姿から受けることになるとは――。
私は再び深く心を揺さぶられていた。
「そりゃ俺とふらんそわの神様の一人子と聖母様の絵だ。ニヘイさんの所ではせみなりよと呼ばれているのか」
「信者の事をきりしたんと呼び、その学校をせみなりよと呼んでいたのだ。天草の他にも伏見や有馬にもせみなりよはあったのだが、父は交易のために天草に行っていた」
「今じゃ御法度になっているって事は、きりしたんはニヘイさんの住む土地から居なくなっちまったって事か」
私は黙って頷いた。
霧のように消えたわけではない。意思を持って抹消されたのだ。
きりしたんだけではない。
伊勢長島の一向一揆衆も比叡山の僧兵も消されたのだ。
あの絵のように、陽だまりに包まれるふらんそわときるけえのように、穏やかに満ち足りて暮らしたいと祈りを抱いて人は生きる。
そのつつましい祈りを捧げる人々が集合体として束ねられ、破壊と絶望の呼び水となる。
伊勢長島、比叡山。そして遠からず天草も同じ道をたどるであろう――。
都の貴族の館や大寺院に出入りしていた私は、きりしたんが御法度になるに至った事情を断片的ながらに聞いていた。
その真偽はともかく、土佐から入ったと言う一報は宣教師の活動を不快に思っていた一派にとって絶好の機会となるだろうとは思ったものだった。
同時に例え土佐からの報告内容が事実だとしても、あの絵の本質は何ら揺らがないと今でも確信している。
あれは愛そのものだ。
きるけえは最初から愛と共にある。愛はきるけえの中にある。
それを、呪いによって忘れているだけなのだ。
「ここから脱出して、もしニヘイさんが元の世界に戻れなかったとしてもよ」
「縁起でもないことを言うなよ」
不服そうな私に構わず、とむは続けた。
「ニヘイさんが見た絵を、嫁さん子供に仲間皆でワインやエール片手に見物できるような世界にたどり着いてくれや」
「ぐろっぐやじんではなく」
とむが飲んでいたと言う酒の名を挙げると、とむはふわっと吐き捨てるように大きなあくびを一つした。
「ありゃ貧乏人用の安酒だ。俺だって出来ることならお偉いさんみたいにワインやエールが飲みたかったさ」
酒に弱い私はそんな物なのかと思いつつ、松林の先に見える海岸線に目を向けた。
「さて、今日は潜水艦に案内するぜ。ニヘイさんが見たことのない船なのは分かっているが訓練と同期さえ出来れば思った通りに動くから却って気楽なもんさ」
「その訓練と同期が問題なんじゃないか」
「そのためにチタン製のチップを全身に入れたんだろ。安心しろっての」
土を思い切りよく一蹴りすると、トムは松林を全速力で駆け去った。
「全身?頭だけじゃなく?」
私は自分がどのように改造されたのかを良く分かっていない事に、改めてぞっとした。
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