三十 リンゴ酒はいかが
(前回あらすじ)
寝室に入るとイシュタルがトムを羽交い絞めにし、毛皮が欲しいと言い出した。絶体絶命のトムを前に「首が欲しい」と歌い踊るイシュタル。踊りが最高潮に達した所でトムの頸動脈にかぶりつこうとしたイシュタルを止めに入った私の懐から水神エアからもらった水筒が零れ落ちる。
水浸しになったイシュタルは興が冷めていなくなり、トムは不倶戴天の敵であるバビロンの大淫婦につけられたケガレを取りたいから風呂に入ると言い出す。
(登場人物紹介)
【私(二瓶十兵衛)】桃山時代にキルケの島へ漂着した織物商。既婚子あり。妻は子守歌が上手。
島で唯一の人間。島から脱出するための潜水艦に乗船するためキルケの誘惑を交わしながら奮闘中。
【きるけえ(キルケ)】男を獣に変える人さらいとして恐れられる妖女。島で獣に囲まれて一人暮らしの喪女(ただし美人)。見た男すべてに一目ぼれする呪いをイシュタルから掛けられている。
【いしゅたる(イシュタル)】自らを明星の大神と宣言する自信に満ち溢れた美しい女神。バビロニア時代からの恨みつらみがあるようで見た男すべてに一目ぼれ片思いをする呪いをキルケに掛けて海に投げ込んだ犯神。
【とむ(トミー・ビス)】リバプール出身の元潜水艦乗り現オオヤマネコ。人間時代は長身痩躯短髪。短気で気まぐれ飽きっぽい。イシュタルが嫌い。
【海豚の顔をした男】元高僧。キルケの呪いを解こうとしたが撃沈し海豚の顔を持つ獣面人身になる。虚空蔵にアクセスして脱出用の船を設計製造していた所「私」が島にやってくる。モノによっては空から物質化もできる。
【ふらんそわ(フランソワ・ド・ブロア)】シャンパーニュ出身。元十字軍志願者現黄金色の毛並みの犬。エルサレムに向かう途中で難破。キルケにとても懐いており、なぜかしばらく獣にならずに済んでいた。謹厳実直。
【綿菓子のようなふわふわした何か(水神エア)】イシュタルの古い知り合い。飲み比べに負けてイシュタルに水神としての権能以外を奪われる。「私」に呪い除けの水を持たせ、イシュタルとキルケの因縁と、キルケの怒りを防ぐ方法を教える。
いしゅたるに散々にもてあそばれたとむは、一目散にヒノキの湯船に飛び込んだ。
「猫は水が苦手ではないのか」
「俺は人間だ」
湯船から頭だけを出すと、とむは不服そうに私をねめつけた。
「元は人間だったにせよ、今じゃいつも丸くなって寝てばかりじゃないか」
「そりゃ体がオオヤマネコなんだから仕方ないだろ」
「だから、オオヤマネコの体だと水に拒否感はないのか」
私の問いに、とむはううむと空を見上げた。
「確かにオオヤマネコの体になってからは湯を使う機会は激減したが、あんな腐れババアに毛皮を汚されたままにしておくのはもっての外だな」
「それにしても随分といしゅたるを嫌っているのだな。ふらんそわもいしゅたるを嫌っているのだろう」
とむは前足を湯船の淵に掛けたまま、ふいっと顔を背けた。
「俺たちがこんな目にあっているのも、あの腐れババアがくそったれ女に妙な呪いを掛けたのが始まりだろ。あれが神だなんて俺は絶対に認ねねえ」
「水神様の話からすれば、いしゅたるがきるけえを恨んでも不思議ではないが。そもそも神が男を奪われて嫉妬に狂うと言うのも、あまりに人間臭すぎて信じがたいが」
とむがどける気配が一切ないので、私は仕方なく身をすくませながら湯船に入った。
「狙った男に手ひどく振られた挙句に、下僕だと思っていた女に寝取られたんじゃ収まりがつかねえのは確かだ。男を取られて悔しいのと、格下の女に負けた悔しさとどっちが大きいのかは知らんが」
とむの言葉に私は大きくうなずいた。
「神が人に負けるなどありえないと、いしゅたるならば思うだろうな」
「俺はあれを神だと認める気は一切ないがな。あんなふぁっくんびやっちが神だと言うなら、この世界は無限に終わらないさばとそのものだ」
「さばとって何だ」
湯船から音を立てて出たとむに私は問いかけた。
「いかれトンチキババア共の気持ち悪い集会だよ。そうだな、百鬼夜行って言うのか、いやちょっと違うか。赤子を食らいながらしなびた乳をぶら下げて裸で踊りまわるおぞましいアレだ」
「そりゃご免被る」
うんざりとした顔の私に、とむは勢いよく水気をぶるぶると飛ばした。
「長湯してるとくそったれ女が来るぜ。それで良いなら邪魔する気はないがな」
「良くないに決まってるだろ。獣になるなんぞまっぴらだ」
私はとむの後を追って湯屋を出た。
「夕食に致しましょう」
乳鉢からカメムシを煎ったような匂いを漂わせながら、きるけえが私に向かってにっこりと微笑んだ。
さすがのふらんそわもこの匂いは苦手らしく、珍しくきるけえから離れた部屋の隅でじっと伏せていた。
きるけえは薬棚からマムシが漬け込まれた小瓶を取り出すと、乳鉢に数滴たらして良く捏ねていた。
頼むからその乳鉢の中身を私の味噌汁に忍び込ませないでくれと願いつつ、私は広々とした食卓に着いた。
「本日は少し趣向を変えてみました。慣れぬ暮らしでお疲れでしょうから」
「とろろ飯とは珍しい」
「しろばち山のふもとに自然薯が生えているのです。気が向かれましたら案内致しますわ」
「大変でしたでしょう」
「いえ、家の者に任せておりますからご心配なく」
きるけえは自分のとろろ飯に乳鉢の中身をぶちまけると、私にも勧めてきた。
「いえ、私はこのままで」
「そうですか。精が付きますのに」
いやそれは困ると思いながら、私は無心でとろろ飯を掻き込んだ。
味噌汁の具も変わり種だ。
「牡蠣にニラですか。初めて食べましたが合いますな」
「ちょうど岩場の牡蠣が食べ頃でしたから、ぜひ旦那さまに初物をと思いまして」
「それは有難い」
味噌汁と言うよりは牡蠣の味噌煮に近いそれを平らげると、自然と私の心がほぐれてきた。
「お茶をどうぞ」
にっこりと告げるきるけえに、私は妻の面影を見た。
「痛っ」
足元で鶏肉とたわむれていたとむが、私の足の甲を叩いた。
妻ときるけえは全く似ていない筈なのに――。
きるけえに操心されかかっていた私を引き戻してくれたとむに、心の中で礼をした。
『貸し三つ目な』
とむの声が脳内に響いてきた。
「ごちそうさまでした。とても美味しかった」
「それは何よりですわ」
食卓を立つ私に、きるけえが寄り添った。
「旦那さまはお酒はたしなまれないのですね」
気が緩んでしまうのを警戒しているだけでなく、元々あまり酒を飲むたちではない。
たまに飲みたくなったとしても、銚子一杯がせいぜいと言うところだった。
「余り得意とは言えませんので」
「あら残念。暖かいりんご酒でもいかがかと思いましたのに」
いつの間に用意させたのか、きるけえは芳香を放つ琥珀色の酒を手にしていた。
「お気持ちだけで」
私が言い終わらぬうちに、リンゴ酒の香りが口一杯に広がった。
「良い口当たりでしょう」
口移しでリンゴ酒を私に飲ませたきるけえは、血色を増した唇を半開きにしていた。
再度の口づけを強請られているのは明白だった。
「美味でしたが、私には刺激が強すぎるようです。ではお休みなさいませ」
私はにっこりときるけえに微笑みかけて、食堂を後にした。
とむが物欲しげなきるけえを押さえつけるようにじゃれついていた。
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