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孤島のキルケ  作者: モモチカケル
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二十九 サロメとイシュタル(R12/流血表現)

「おうおう、邪魔しておるぞ六十人目」

 寝室の扉を開くと、むわっとした薔薇の芳香にくちなしと青りんごの香りが混じったような空気が私を取り巻いた。

「離せババア、びっち、ふぁっく」

 寝台の上でとむを羽交い絞めにしながら、いしゅたるがからからと笑っていた。

「我と交合ファックしたいのか、トミー・ビスよ」

「しっと、ふぁっきんすらっと、びやっち」

 私にはまったく分からない言葉で、羽交い絞めにされたとむが吐き捨てていた。

「毛皮を新調したくなっての。そう言えばあのオオヤマネコの毛皮は上物じゃと思ってな」

 とむは見た目よりもずっと怪力だが、戦いの神とも崇められているいしゅたるの前では生まれたての子猫のようだった。


「あなたの世界に連れていくおつもりですか」

 私はとむを羽交い絞めにしているいしゅたるに詰め寄った。

「このような所で飼い殺しにされる男ではないだろう。毛皮も欲しいし口もがらも悪い男だがしつけのし甲斐はあるでな。オオヤマネコに変化するだけあって人間としても見目は良いから、しばらく良い気晴らしになりそうだ」

 ぐったりしてきたとむを絞める腕を緩めたかと思うと、いしゅたるはその腹に顔をうずめた。

「腹毛がもふもふじゃ。もふもふっ。初めから我に気を許せば良いものを、男とは下らぬ矜持で身を滅ぼすからな」

 とむはもはや息をするのが精いっぱいのようだった。

 もはや『ばびろんの大淫婦』いしゅたるを罵る言葉も出てこないらしいとむは、生気のない目で私を見た。


「お待ちください。オオヤマネコの換毛で毛皮を作る訳には参りませぬか」

「愚かよのう。これから冬になると言うに換毛など出るわけがなかろう」

「私は織物商でございます。毛皮がお望みとあらばこの島の山羊や兎から良き物を見立てましょう」

「それだけか。そなたの盟友を助ける代金にしては安いのう」

 にやにやして聞いてくるいしゅたるからは、強いくちなしの芳香が漂ってきた。

「では、この島の……」

 何も思いつかなかった。

 妻子に再会する希望を失っていない私は、とむの代わりにいしゅたるの世界に行くとは言えなかった。

 財も美しき織物の類もタコつぼ湾に奪われた私は、とむの命にふさわしい対価を持っていなかった。


 ぜえぜえと息を吐くとむの首を横一文字に掻き切るような手つきを私に見せつけながら、いしゅたるは嫣然えんぜんと微笑んだ。

「私が欲しいのはこの首ですわ、お父様」

 いしゅたるは寝台から飛び降り、腰をくねらせ私の前で舞い踊りはじめた。

「首が欲しいのです、この者の首をねてくださいませお父様。褒美に何でもくれてやると仰ったではないですか」

 異国のうただろうか、緋色の履物の裾をはためかせながら踊る足元から薔薇の花弁が散らばっていく。

「首が欲しい、首が欲しい、首が欲しい」

 寝台に乗り上げると、いしゅたるはとむの頸動脈にかぶりつこうとした。

「とむっ」

 無駄だと分かりつつ寝台に乗り上げていしゅたるを制しようとした私の懐から、何かが勢い良く滑り出た。

 ごつんと鈍い音を立て、水筒が寝台から転がり落ちた。

「ふん、エアの分際で。一つ貸しぞ」

 頭を水神エアが湛える水筒の水まみれにされたいしゅたるはすっかり興が削がれたようで、とむの腹を針のような靴底で踏みつけるとそのまま虚空に消えていった。


「とむっ」

 ぐったりと生気を無くしたとむの口の周りに、あふれ出る水筒の水を浸す。

 針のような靴底に踏まれた腹にも傷をつけぬように慎重に水を浸していくうちに、とむの呼吸が戻ってきた。

「びやっち」

 憎々しそうにつぶやくと、ゆっくりと起き上がったとむは踏みつけられた腹を丁寧に舐め始めた。

「あれは何だ。首が欲しい、お父様って気持ちの悪い」

 私も水筒の水を飲むと、腹を舐めていたとむが顔を上げた。

「ヘロデ王の娘にしてヘロデ王の妻ヘロディアの娘、通称をサロメと言う少女」

 また私の知らない世界の話か――。

 耳慣れぬ単語の羅列に、私はいつしか慣れ始めていた。


「俺とフランソワが信じる神様の世界の話だ。その昔洗礼者ヨハネって名前のそりゃ大層偉い徳のとても高い存在がいてな。そのヨハネの首を踊りを上手に踊ったヘロデ王って凄い王様の娘が褒美に欲しがったって話だ」

「薄気味悪い娘だな。よはねとやらに恨みでもあるのか」

「知らねえよ。とにかくヘロデ王は皆の前で踊りを踊らせて、欲しいものは何でもやると言った手前引っ込みがつかなくなっちまってな」

ねたのか」

「王侯貴族ったらそんなもんだろ。一旦口から出した言葉は貫き通す。そうでなけりゃ部下に舐められて、明日には断頭台の露の下さ」

 そう言えばきるけえが呪いを掛けられた理由も、いしゅたるが発したろくでもない神託を取り消す為の方便でしかなかった。


 神殿巫女としていしゅたるの言葉を正しく伝えたきるけえが、いしゅたるの顔を立てるために偽神託を出したとして濡れ衣を着せられたのと同じ構図だ。

 古今東西神の世界も人の世界も、権力者の見る景色は市井しせいの庶民が見るそれとは大いに違うらしい。

「サロメにゃ大方あのど腐れ外道の総元締のババアが憑りついていたんだろう」

 ふうと息を吐くと、とむは風呂に行こうぜと言い出した。

「あのババアに毛皮を台無しにされちまった。丸洗いしなけりゃケガレも落ちねえ」

 どうやら以前もとむが言っていたように、とむとふらんそわが信じる神といしゅたるは不倶戴天ふぐたいてんの敵のような存在のようだった。


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