二十五 二つの世界
(前回あらすじ)
地震の翌日、キルケは地震があった事を知らないと言い出した。それどころか前日は湯屋自体に行っておらず、地震があった時間帯は黄りんどうの花を中庭で陰干ししていたと言う。
かみ合わぬ互いの記憶に、「私」は目の前にいるきるけえが地震が起こる前に一緒にいたきるけえと同じなのかを疑い始める。
(登場人物紹介)
【私(二瓶十兵衛)】キルケの島へ漂着した織物商。既婚子あり。妻は子守歌が上手。
島で唯一の人間。島から脱出するための潜水艦に乗船するためキルケの誘惑を交わしながら奮闘中。
【きるけえ(キルケ)】男を獣に変える人さらいとして恐れられる妖女。島で獣に囲まれて一人暮らしの喪女(ただし美人)。見た男すべてに一目ぼれする呪いをイシュタルから掛けられている。
【いしゅたる(イシュタル)】自らを明星の大神と宣言する自信に満ち溢れた美しい女神。バビロニア時代からの恨みつらみがあるようで見た男すべてに一目ぼれ片思いをする呪いをキルケに掛けて海に投げ込んだ犯神。
【とむ(トミー・ビス)】リバプール出身の元潜水艦乗り現オオヤマネコ。人間時代は長身痩躯短髪。短気で気まぐれ飽きっぽい。イシュタルが嫌い。
【海豚の顔をした男】元高僧。キルケの呪いを解こうとしたが撃沈し海豚の顔を持つ獣面人身になる。虚空蔵にアクセスして脱出用の船を設計製造していた所「私」が島にやってくる。モノによっては空から物質化もできる。
【黄金の毛並みの犬/ふらんそわ(フランソワ)】黄金色の毛並みの犬。キルケにとても懐いており、なぜかしばらく獣にならずに済んでいた。謹厳実直。
【綿菓子のようなふわふわした何か(水神エア)】イシュタルの古い知り合い。飲み比べに負けてイシュタルに水神としての権能以外を奪われる。「私」に呪い除けの水を持たせ、イシュタルとキルケの因縁と、キルケの怒りを防ぐ方法を教える。
海の中で目を開けるのは、風呂や洗顔時に目を開けるよりも数段難しい。
潮と砂で痛む目をごろごろさせながらとむを見やると、浜昼顔の上で大あくびをしているだけだった。
一見しただけでは遠浅の穏やかに見える海岸だが、水深は岸近くでも存外深い事を昨日痛感したので恐る恐る顔をつける。
寄せては返す波が断続的に顔を殴るので、余計に目が開けられず水を飲みそうになって私はむせた。
耳に入った水を掻き出すように首を左右に振っていると、きんとした耳鳴り音と共に側頭部に酷いしびれが起こった。
「きえええええっ」
私は海豚の顔をした男のような声を上げると、ふらふらと浜昼顔の群生へと海岸を登って行った。
とむは面倒そうに私を見上げると、のそりと起き上がって私の後に足跡を付けた。
浜昼顔の群生を通り過ぎて低湿地の方角へ幽鬼のように歩いていくと、海豚の顔をした男が竹とんぼのようなあんてなを手に近づいてくるのが見えた。
無表情のまま早口で呪文を唱えると、海豚の顔をした男は私の額にあんてなを突き刺した。
「きええっ?」
来るべき激痛に身構えた私は、昨日と打って変わって軽く額を小突かれた程度の衝撃に肩透かしを食らった。
顔を近づけられて目と目が至近距離で合うと、私の意識は急速に海豚の顔をした男と一体化していった。
『昨日の荒療治が効いたようですな。これなら念動力回路の開発も進められそうで安心しました』
『まだまだ海中で目も開けられないヒヨッコだぞ。良いのか』
『急がなければならない理由が出来まして』
とむと海豚の顔をした男が私の脳内で会話をしはじめた。
『昨日の地震です。大きな次元のひずみが生じて一時的にこの島のキルケが元々居た世界に戻ったのです』
『では地震の事を知らなかったきるけえは、元々居た世界のきるけえなのか』
私の問いに海豚の顔をした男は否と告げた。
『一時的に元々居た世界に戻った時にキルケは意識を失い、この世界にあるのはキルケだと他者から認識されている物質存在のみでした』
元が高僧だか何だか知らないが、ややこしい物言いをする男だと私は辟易した。
『キルケの意識体がこちらの世界から元々いた世界に戻る際に大きな次元のひずみが生じたので、キルケの意識体は地震が起こった経験を認知出来ていないのです』
『それと急がなけりゃならない理由に関係があるのか』
『大いにあります。次元のひずみが生じる時にその出入り口であるタコつぼ渦を通って男達が海岸に打ち上げられます。ですがキルケ自身がここから別の空間次元に出る事は無かった。それが私が知る限り初めて起こってしまった。これが意味するものは』
私はごくりと唾を飲んだ。
『この島とキルケが元々居た島が次元のひずみによって繋がってしまえば、我々がハイブリッド型パイケーエス式潜水艦で二瓶様をここから脱出させたとしても、元々いた世界のキルケの元に飛ばされるだけの結末が生じる可能性がありまして』
『ふぁっくんしっと』
とむが故郷の言葉を吐き捨てるようにつぶやいた。
『下手をすれば、こちらの島のきるけえともう一つの世界のきるけえの間を永遠に行ったり来たりする事になりましょう』
『一度次元のひずみが開いてしまえば、二つの世界は繋がりやすくなる一方なのか』
『恐らくは』
海豚の顔をした男が、平板な声色のまま残酷な予測を告げた。
『では私は何をすれば良い』
額にあんてなを刺した私は、すがるように海豚の顔をした男に尋ねた。
『肉体に負担が掛かるのは承知の上ですが、まずはアンテナの増設を。それから実際にハイブリッド型パイケーエス式潜水艦に乗船して頂く必要があります』
『まだ進水はさせないんだろ』
とむが念押しのように確認した。
『自動操縦システムと念動力回路系統の同期が出来ないことには』
海豚の顔をした男の回答に、とむは苛立ったように足元の砂を引っ掻いた。
『人体はつくづく退化した機能が多すぎていけねえや。人間の中に紛れても目立たない獣面の人身にでもなったらどうだ』
「無理だ。まっぴらごめんだ。それならあんてなとやらを何本刺されても耐えるから」
思わず叫ぶように声を荒げた私に、海豚の顔をした男は我が意を得たりと言わんがばかりにうなずいた。
『その覚悟がおありなら話は早い。こちらへ』
海豚の顔をした男はずんずんと歩を進め、私たちは海岸から少し工場側に入った岩場の影へと連れていかれた。
岩場の奥には大きな鉄の扉があり、三角の印を海豚の顔をした男が押すと扉が開いた。
私たちをすっぽり包んでなお余りある巨大な箱が下に動き始め、一呼吸する間に再び扉が開いた。
『どうぞこちらに』
私の側頭部が再び激しく揺れ、操られるように固そうな寝台に横たえられた。
海豚の顔をした男は、天井から私を照らしつける太陽のようにまぶしく光る物体を背にして、液体が入った透明な筒状の物体を手にしている。
『すぐ終わります』
『何をする気だ』
『今つけておられるアンテナよりも高性能で負担の少ないチタン製のチップを、体内数か所に注入します』
ちたんやらちっぷやら訳のわからない言葉ばかりだ。
私は不安になって、海豚の顔をした男を幼子のように見た。
『あなたの意志次第です。獣になるか、脱出するか』
私は観念して海豚の顔をした男に全てを委ねた。
側頭部にあんてなを刺したような痛みが一瞬走り、私は気を失った。
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