十一 リバプールから来た男
新月の夜と交代した太陽の光が白み始めた頃、工場に向かう私にきるけえは暖かな弁当を持たせてくれた。
きるけえはそっと身を寄せるように私に弁当を差し出す。
だがきるけえの姿にに心動かされる事はない。
きるけえと共に玄関先まで着いてきたオオヤマネコが、意味深な目線を送ってきた。
何かを伝えたいようだが猫の言葉も猫の表情も分からない。
正直なところ私は猫があまり得意なたちではなかった。
通りで猫を見ても何の興味も惹かぬどころか、店先で粗相をされては叶わんと店の小僧にしょっちゅう水を撒かせていたぐらいだ。
あの猫たちとオオヤマネコの性質がどのぐらい似通っているのかは分らぬ。
だが人と猫の間よりは相通じるものは多かろうと、ぼんやりと思った。
工場の入り口は相変わらず様々な獣の顔をした男たちが忙しなく出入りしている。
もうもうと蒸気の上がる煙突の下では、猫やうさぎの耳としっぽを持つ女たちが茹でた海藻や雑草を材料に機織りをしている頃だ。
確かにきるけえはここから連れ出せたとしても、人間に戻れぬ者たちが人里で暮らすのは不可能だろう。
だからと言ってきるけえをずっとここに置いておくのも忍びないのだ。
この島を船で出た暁には、薬を織物と一緒に売り歩きながらきるけえが描いた花を探してみると伝えてみようか。
彼らを人間に戻すすべが見つかれば、きるけえの表情も少しは明るくなるだろうと私は思った。
海豚の顔をした男は片手を上げて私を出迎えると、ぎょっとした顔で私の後ろに目をやった。
ひゅっと黒い影が眼前を横切ったかと思うと、オオヤマネコが海豚の顔をした男に飛びかかっていった。
「いつからいたのだ」
気配を完全に消して私の後をついてきたようだ。
オオヤマネコは海豚の顔をした男の顔に柔らかい腹を埋めて、その後頭部に前足を掛けていた。
海豚の顔をした男は呻きながらも、オオヤマネコの背をむんずとつかみ床に叩き落した。
「いい加減にしてくれ」
体勢を低くしたオオヤマネコと腹毛を払い落とす海豚の顔をした男の間に、私は割って入った。
海豚の顔をした男に連れられた私の後を、当然のようにオオヤマネコも着いて来た。
確かにあの棺桶のような船に試乗していたのはオオヤマネコだったなと思いながら、私は地下へと降りた。
以前連れていかれた部屋に入ると、海豚の顔をした男はまた耳慣れぬ異国の言葉を早口でまくし立てる。
きえええっと甲高い声が部屋中に鳴り響き閃光が走る。
眩しさにくらんだ目をゆっくりと見開くと、黒とも茶色ともつかぬ髪を短く切った長身の若者が立っていた。
部屋は先ほどまでの殺風景なそれではなく、私の寝室に少し似た作りに変わっていた。
オオヤマネコの毛皮柄の裏地を張った高価そうな外套に黒い上下が実に様になる若者だった。
「あの海豚のおっさんは元はずいぶん偉い坊さんでな。その力で新月明けの日の四半刻(三十分)だけあんたと話せる。俺はトミー・ビス。リバプール出身だ。トムって呼んでくれたらうれしいぜ」
オオヤマネコになる前の彼の姿らしい。
私はこくりとうなずいた。
「分かったとむ。早速だがあの船は安全なのか。後、きるけえは男たちを偶然獣にしてしまったと言っているが本当か」
とむは忙しなくうなずきながら話した。
「船は折り紙付きだ安心しろ。坊さんはコクゾウって所から記録を引っ張り出して設計図を起こした。俺は実際にあの手の船に乗っていたから、作りはよく知ってるぜ」
猫の目のようにとむの表情はころころと変わった。
「あいつは潜水艦だ。俺が乗船していた頃はディーゼルエンジンでバカでかい音がして最悪の腐れ棺桶だったんだぜ」
とむはおそらく元々早口で少し口の悪いたちなのだろう。
「坊さんがコクゾウから引っ張り出した設計図は俺の知っている潜水艦の百年ぐらい後のものらしい。バイオ燃料がどうたらとか自動操縦システムとか全方位測位うんちゃらとか良く分からねえ事を言ってたが大丈夫だろ。俺も試乗したから安心しろ」
聞きなれぬ単語を早口でまくし立てるものだから、話に付いていくのがやっとだった。
私が見たことも聞いたことも無い潜水艦と言う珍妙な船を操っていたと言うからには、とむが私より後世の人間である事は確実だろう。
ではなぜ後世の人間であるとむが、私より先にこの島に流されたのだろうと不可解に思った。
「どうやらあなたは私よりずっと後世の人間らしい。だが私がここに来た時にはあなたは既にきるけえの館の住人だった。これはどういう事だろう」
「本当に全部あのくそったれ女のせいだ、ふぁっくんびやっち!」
トムは耳慣れない単語を何度も繰り返しながら、床を踏み鳴らした。
「簡単に言えば、あの女のせいでこの島の時間は俺たちの常識とは違う流れ方をしているらしい」
とむはふうっと大きくため息をついた。
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