旅の始まり 1
目が覚めて、最初に目にしたのは見たことのない天井だった。
ベッドから体を起こす。少し頭が痛い。よく見ると、頭と手、体の一部に包帯が巻かれていた。
ここはどこだろう。机があるだけの簡素な部屋だが、狭いわけではない。大きな窓もある。今は夜らしく、月が眩しいほど光輝いている。
私は、どうしてこんなところに…。っ!!!
フラッシュバック。あの家で起きた惨劇の様子が思い起こされる。頭に激痛が走る。
ベッドのそばに水があることに気が付き、一気に飲み干す。
ドアをノックする音がした。ドアの方を向くと、一人の女性が立っていた。背は高く、髪は長い。水色のラインがはいった、薄手のコートのような服をまとっている。
「ここは私の家だ。名前はメルクリウス」
たまたま私の家の近くを通りかかり、大きな音がしたので気になって来てみると、私が倒れていた。ここに連れてきて、私は2日間眠りっぱなしだったという。
私は黙って聞いていた。
「その…、アンタのお母さんのことだけどね。私が行ったときにはもう…」
「やめて!!!」
言葉を遮るように叫んだ。
彼女は特にびっくりした様子も見せず、私の顔を見ている。
「…ごめんなさい。助けてくれて、ありがとうございます。今日は疲れたので、もう一回、寝てもいいですか」
震える声でそう言った。
「そうか。じゃあゆっくり休め。食事は下にあるから、腹が減ったらいつでも降りてこい」
そう言って彼女は部屋を出て行った。
部屋に訪れる静寂。母の事をなるべく考えないようにするつもりだったが、それは無理だった。毎日、特に何があったというわけではない。一緒にご飯を作ったこと。一緒に本を読んだこと。当たり前だと思っていたそれらの小さな思い出が、次々によみがえってくる。何気ない日常に幸せを感じていた。
それらはすべて二度と体験できないものになってしまった。母の声はもう聴くことが出来ないのだ。
そのことを自覚した瞬間、涙が溢れてきた。私は声を上げて泣いた。母を失ったことに対する悲しみの涙と、こんなにも突然、あんな形で別れなければならなかったことに対する憤りの涙だ。
私は一晩中、声と涙が枯れるまで泣いていた。
気が付くと夕方だった。いつの間にか眠っていたらしい。ベッドから起き上がろうとした時、ドアをノックする音が聞こえた。そしてメルクリウスさんが入ってきた。
「さすがに何か食わないと、死んじまうぞ」
そう言って前に置かれたのは、野菜のたっぷり入ったホワイトシチューだった。
なんだこの偶然は。これはお母さんの得意料理だ。嫌でも、台所で一緒に作った光景が思い出される。
食欲はないのだが、メルクリウスさんが食え食えと私を急かす。いりませんとも言えず、私はそれをゆっくりと口に運んだ。なんか水っぽい。野菜の大きさも不揃いで、お世辞にもおいしいとは言えない。
「味の文句なら受け付けないよ。私は普段肉料理しかしないんだ。でも空っぽの胃にいきなり肉はキツイと思ってね、こうして気を使ってやったってわけだ。野菜切ったのなんていつぶり…」
私はまた泣いていた。涙はもう枯れたと思っていたのに。静かに大粒の涙が、後から後から溢れてくる。涙で味も分からなくなってしまった。
「いつまで泣いてんだ!!」
しんと静まり返る部屋。驚いて顔を上げると、メルクリウスさんはその鋭い目で私を睨んでいた。
「まったく、これだからガキは嫌いなんだよ。いつまでもピーピーと。昨日で終わったと思ったら、まだ泣き続けるつもりかい」
怒ったような、でも少し悲しそうな表情で、彼女は話し続けた。
「アンタの母親は死んだ。私が行った時にはもう死んでたよ。どうしようもなかった。私も本当に悲しい。でもこの話はこれで終わりなんだよ」
彼女は私に近づき、頭を鷲掴みにした。そして、まっすぐに私の目を見つめた。
「この世界は理不尽なことで溢れている。お前が経験したのはその中の一つだ。親が突然いなくなって悲しい気持ちはよくわかる。今お前の目の前は真っ暗で、何も見えないだろう。でもそのままじゃダメなんだだよ。過去は変えられない。どんなに喚いても、失ったものは戻ってこない」
「お前には未来がある。この世界でこれからも生きていくんだ。過去を振り返るのは一旦しまいだ。お前にできること、やりたいことはたくさんあるはずだろう。まずはそれを考えろ」
一言一言が、私の心に突き刺さった。厳しい言葉だが、冷たくなっていた私の心を温めてくれるような、気持ちのこもった言葉にも聞こえた。この一日、私は母の事ばかりを考え、思い出に浸り、現実から逃げようとしていた。彼女の言葉は、現実逃避していた私を引き戻すのに十分だった。
「いつまでも下をむいてんな。アンタはそんなタマじゃない。そろそろ立ち上がって、進む時間だぜ」
目の前の暗闇が一気に明るくなっていくような感覚。
「…やっと目に生気が戻ったね」
彼女は少し笑って、私の頭を撫でてくれた。その時私がどんな目をしていたのかは知らないが、私も照れくさくなって少し笑った。
しばらくして、メルクリウスさんは温かい紅茶を淹れてくれた。
こわばっていた体の力が抜けていくのを感じる。体が芯から温まっていく。あんまり美味しくないのは黙っとこう。
「聞くのが遅くなってしまったが、名前を聞いてもいいか?」
「シエル…レッドソード」
「シエル。これからどうしたい」
突然そんなことを言われても、パッと思い浮かばない。先ほどまではそれどころではなかったが、冷静になってみると、先のことは不安だらけだ。
「とりあえず、母を埋葬して…」
「ああ、それなら今日の朝私がしておいた。明日にでも手を合わせにいくといい。そんな直近のことじゃなくて、これからの人生どうするのかみたいな意味だ」
何も思い浮かばない。不安が一気に押し寄せてきた。頭の中がぐちゃぐちゃだ。
そんな私を見て、メルクリウスさんが口を開いた。
「私から一つ提案がある。シエル、魔女になる気はないか」
…。
魔女。魔法を操る人の総称。数少ない才能を持つ者だけに許された、住む世界の違う人間。魔女というだけで、人々からは畏敬の念を抱かれるような存在。そんな魔女に、この私が?
私の頭は、さらに混乱した。
「魔女って、なろうと思ってなれるものなんですか?」
「心配するな。優秀な先生がここにいるぞ」
そういって彼女は自分の胸を叩きながら、得意げな顔をして見せた。質問の答えになってない気がするけど。
この人魔女だったんだ…。なんとなく只者ではないオーラを感じていたが、まさか魔女だとは。
私は質問を続ける。
「生まれもった才能というか…。選ばれた一部の人しかなれないんじゃないんですか?」
「魔力の事を言ってるのか?安心しな。シエルからは魔力を感じる。魔女の資質はバッチリだ」
え、ホントに?私そんな資質を持ってたの?そんなの聞いたことも感じたこともなかったけど。
「魔女になれば、まず食いっぱぐれることはない。仕事は山のようにあるし、なんだったら私の助手になってくれてもいいぞ。もちろん別の仕事でもいい。より取り見取りだ」
予想外の展開に驚きの連続だったが、ふと、あることが頭に浮かんで、それが離れなかった。途中からメルクリウスさんの言葉は耳に入ってこなくなっていた。
「おい。どうした?戻ってこーい」
メルクリウスさんは私の顔の前で手を振る。
私はゆっくり口を開き、その思いを伝えた。
「魔女になれば、お母さんを殺した犯人に近づけるかしら」
私たちは、母は、どうしてあんなことになったのか。人から恨まれるような人物ではなかった。私の知る限り、母は皆から慕われていた。
メルクリウスさんは一瞬驚いた顔をした。そして神妙な面持ちでこう言った。
「復讐、するつもりなのか?」
復讐ーそんな具体的なことは考えていなかった。だけど、例えば、お母さんを殺した犯人が目の前に現れたら…。
「わからない。お母さんが…死んだことはもう受け入れた。でもこの事件をこのまま終わらせるのは嫌。どうして私たちがあんな目にあったのか。せめてそれだけは知りたい」
私は興奮気味に話す。
「それと私、メルクリウスさんの格好を見て思い出したことがあるの。あの日、私たちの家に人が来たのよ。顔は思い出せないけど、メルクリウスさんが今着てるコートみたいなのを着てた。白いコートよ。間違いない!その人たちも魔女だと思う?」
メルクリウスさんは、とても難しい顔をしていた。
「そう…だな。この服は、自分が魔女であることの証明みたいなものだ。この形の服を着ていたなら、魔女…だろうな」
「それなら、私魔女になりたい。今まで魔女のことなんてほとんど知らなかったし、なりたいと思ったこともなかった。でも、私に魔女の資質があるなら話は別。魔女を探すなら、魔女の世界に入った方が絶対見つけやすいはずよね」
部屋に沈黙が訪れる。
「こんな動機じゃ、ダメ…かしら」
いつの間にかメルクリウスさんは立ち上がって、窓の外をじっと眺めていた。
「魔女にならないかと提案したのは私だ。どんな理由でも、やる気があるっていうのなら結構だ。魔女になってからは、アンタの好きなようにすればいい」
でも、と言って彼女は私の方に向き直る。
「一つだけ言わせてほしい。シエルの人生はシエルだけのものだ。どう生きようとお前の勝手だ。だがな、復讐や憎しみにとらわれる人生だけはやめておけ。その道は地獄だ。私はこれからアンタを魔女にするが、そのせいでシエルの人生が壊れるようなことにだけはなってほしくないよ」
彼女はまた私の顔をまっすぐ見つめていた。
私もまっすぐ彼女を見つめ返す。
「そんな生き方が虚しいことぐらい、私にもわかるわ。それに、魔女になりたい理由はもう一つあるの。私、強くなりたい。自分とその周りの人を守れるくらいに。あんな悲しい思いを、二度としなくて済むように」
私は今の本心を、ありのまま話した。今のままの私では何もできない。力をつけよう。もう泣くことがないように。私自身の力で前に進めるように。
「…そうか。その気持ち、忘れるなよ」
よし!と言って、メルクリウスさんは立ち上がった。
「怪我は大したことないみたいだし、修行は明日から始める!今日はぐっすり眠っておけよ。」
「はい!」
「いい返事だ。今から晩御飯作るから、それまでゆっくりしてな」
「え…。ちょっと待ってください!夜は私が作りますよ!」
心から笑うのはなんだか久しぶりな気がする。
私はやっと、前を向くことができたようだ。
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夜、シエルが眠りについたころ、メルクリウスは一人酒を飲んでいた。彼女の目が、少し腫れぼったく見えるのは、部屋に一本だけ灯されたロウソクの火のせいだろうか。
「本当に驚いた。こんな展開は想像してなかったよ。顔に出てなかっただろうね…」
そう言って、ロウソクの火をふっと吹き消した。
「あいつが自分で選んだ道だ。どうなっても恨むなよ、ソレイユ」