第8話 わたしの居場所
ちょっぴり長い昔話は終わり、いつの間にやら本降りになった雨は、わたしたちを容赦なく濡らしていた。
目の前の彼の髪の毛も、白いポロシャツも、青いジーンズもずぶ濡れだった。
おそらく、わたしも似たようなものだろう。
カッターシャツもブレザースカートも、肌にピトピトと張り付いて気持ちが悪い。
額に張り付いた前髪からは、水滴が滴り落ちていった。
誰にも話したことのない12歳の夏の出来事。
当然だ。
わたしは、話すべき相手さえいない灰色の世界に佇んでいるのだから。
そんな灰色の世界に5年間。
心の殻に閉じこもって、ただひたすら他人を拒絶する。
そんな悲しい孤独が、わたしの心に灰色のフィルターをかけてしまった。
美加の・・・あの悲しそうな顔は、忘れられない記憶。
「くるみのバカァ〜!」という叫び声は、まるで鼓膜にこびりついているようだ。
もし、こんな病気にさえならなければ・・・。
そう考えたこともあったけど、そんな仮定は無意味だ。
そんなことは、5年前に気づいていた。
わたしは、彼の顔を直視して言った。
「例え、わたしの未来が『40%の未来』でも、関係ないと思いたかった。」
「・・・。」
「わたしは・・・ただ普通に生きていたかった。」
「・・・。」
「でも、出来なかった。」
12歳の夏のことを思い出すと、いつでも涙がこみ上げてくる。
でも今は、雨粒がわたしの顔を濡らしてくれていたから、きっと泣いているかどうかなんてわからないはずだ。
だけど、声が涙で震えていることまでは隠せなかった。
「それでも・・・やっぱり生きていたいよ。」
ずっと心の奥にしまいこんでいた本音。
自分すら、その存在を忘れかけていた。
「普通に・・・みんなと同じように・・・。」
一度、口に出した想いは、止まらなかった。
その想いは、12歳の夏に、一度飲み込んだ想い。
―――笑っていたかった。
―――孤独になんてなりたくなかった。
5年前に、届かない場所にしまいこまれた想いは、ずっとくすぶり続けていたんだと、今はっきり気づいた。
彼のメガネが水滴に濡れて、瞳は見えなかった。
でも、いつものように涼しげな瞳で笑みを浮かべているに違いない・・・何故かそう思えた。
「生きてて・・・いいんだよ。」
それは、とても優しい声だった。
そして、静かに・・・自信に満ちていた。
どうして・・・そんなに自信ありげなんだろう?
でも、確かに『その言葉を信じていいんだ』と、そんな気にさせられる。
それなのに、一抹の不安が消えない。
―――生きてていい。
そんな魔法のような言葉に、本当にすがっていいんだろうか?
すがった瞬間に、それは砂上の楼閣のように消え去ったりしないだろうか?
否。
きっと・・・大丈夫。
今なら、その言葉を信じることが出来るよ。
だって、彼は『わたしを助けに来た』って言ってくれたじゃないか。
わたしの目から、涙が溢れた。
それが、雨の雫と交じり合って、頬を濡らしていく。
わたしは、『みんなと同じようには、生きられないから』という想いに、ずっと縛られ続けてきた。
その想いは、『みんなと同じように生きていたい』という想いをも飲み込んで、わたしを苦しめてきた。
みんなと同じように生きてはいけないのだと・・・それはいけないことだと思っていた。
でも・・・違ったんだ。
こんな簡単なことに、気づきもしなかった。
それは・・・わたしの心にかけられた呪縛にしか過ぎなかったんだと。
心に、少しだけ晴れ間が差したような気がして、上を向いた。
だけど、相変わらず降り続く雨が、わたしの顔を叩く。
今の上気した顔には心地いい。
そう思った瞬間、心臓が止まりそうになった。
彼は、わたしを包み込むように抱き締めていた。
生まれて初めての経験に、心臓がこれ以上ないほど大きく早く脈打つ。
「辛かったね。」
今度は、労わるような声。
自分で選んだ『孤独』という選択肢。
美加のためだと、美加の優しさを踏みにじるように無視しなければならなかった辛さ。
美加の悲しそうな顔を見せ付けられた時の辛さ。
「くるみのバカァ〜!」という叫び声が聞こえた時の辛さ。
そして、『わたしは、みんなと違うから。』という心の殻に閉じ込められた、5年間の孤独の辛さ。
孤独であるが故に、その辛さなど誰にも気づいてもらえなかった。
だからこそ、彼がそれを理解してくれたことが、今は何よりも嬉しい。
同時に、溜め込んだ5年間分の辛さが、涙に形を変えて次々と溢れてくる。
もう、我慢することなんて出来ない。
わたしは、彼に抱きつきながら、思い切り泣きじゃくった。
・・・まるで、子どものように。
雨は、止むことなく降り続けていたけど、もう気にはならなかった。
ようやく止まった涙。
気づくと、彼はわたしを抱き締め、わたしは両腕を彼の背中に回して抱き締めていた。
彼の身体に密着したわたしの胸。
激しい心臓のドキドキが、彼に聞こえてしまっているんじゃないだろうかと思うと、気恥ずかしさを感じる。
そんなわたしの気持ちを察してかどうかはわからないけど、彼は小さく囁いた。
「もう少し・・・こうしていてくれないか。」
そう言いながら、彼の右手はわたしの頭を抱きかかえる。
心の底から嬉しかった。
だから、わたしは、さらに両腕に力を込めて、彼を強く抱き締めた。
ここが、わたしの居場所。
そう確信した。
でも、わたしは、もう一度・・・確かめるように小さな声で囁く。
「わたし、もう一人じゃ・・・ないよね?」
こうして抱き締めてくれていることが、もう一人じゃないという何よりの証拠なのに、嬉しい答えが返ってくるのを期待して、あえて確かめてみる。
「・・・そうだね。」
期待通りの返事。
心を撫でてくれるような優しい声。
思わず顔が綻んでしまうほど嬉しい。
彼の背中に手を回してみて、初めて気づいた。
あんなに細身に見えた身体なのに、やたらと背中が広く感じる。
やっぱり男の人って、身体が大きいんだな。
そして、そんな彼に包み込んでもらっている安心感が、わたしを蕩けさせる。
心の底から感じる安らぎ。
わたしは『いつまでもこうしていたい。』と願った。
―――でも、それは叶わなかった。
「げほっ!」
突然訪れた体の変調。
「げほっげほっ!!」
今まで経験したことのないような咳が、わたしの呼吸を困難にさせる。
胸の奥底から出てきたような咳が止まらない。
わたしの急な変調に驚いたせいか、わたしを抱きしめていた彼の腕の力が弱まり、支えを失ったわたしの体は地面に突っ伏した。
それでもなお、咳は止まらなかった。
彼が、何か話しかけているような気がするが、雨音と自分の咳で、何を言っているのかわからない。
激しく咳き込みながら、わたしはある事態を想像していた。
(発症!?)
病名は先天性循環器機能不全症候群。
発症すれば致死率は100%。
呼吸の出来ない苦しさに、意識が朦朧としてくる。
イヤだ!
生きてていいって言ってくれた。
もう一人じゃないって言ってくれた。
だから、わたしは生きるんだ・・・生きたいんだ。
それなのに、苦しくなるばかりの呼吸。
咳の合間に呼吸を試みる。
喉がヒューヒューいうばかりで、十分な空気を取り入れることができない。
視界が暗くなっていくような気がして、怖さのあまり、わたしは咳き込みながら叫んだ。
「助けて!」
彼は、背中をさすってくれているようだった。
苦しさの中で、彼がそばにいてくれていることだけが救い。
わたしは、必死で彼の腕にしがみつく。
でも、だんだんと薄れていく感覚。
わたしの体を叩いているはずの雨も、わたしの背中をさすってくれているはずの彼の手も、もう感じられなくなってしまった。
視界が、限りなく暗闇に近づいていく。
こんなのってないよ。
ようやく、灰色の世界から抜け出せると思ったのに。
―――イヤだよ。
―――死にたくないよ。
そこまで考えて・・・わたしの意識は闇に消えた。