第7話 12歳の夏
始まりは12歳の夏。
この年の夏は、とびきり暑い夏だった。
待ちに待った、城南小学校のプール開きの日。
今年の夏用に新調した、紺色のスクール水着を着たわたしは、プールに飛び込みたくてウズウズしていた。
その右隣には、わたしと同じように目を輝かせて、いたずらっぽく笑っている女の子。
遠藤美加。
彼女は、小さな頃からずっと一緒だった。
家は川を挟んで向かい合い、お互いの部屋の窓を開ければ、会話すら出来た。
もっとも、そんなことをすれば、必ずどちらかの親から「ちゃんと家まで行って話をして来い。」と叱られたものだが。
幼稚園も一緒。
小学校も1学年1クラスしかなかったからずっと一緒。
たまにけんかすることもあったけど、すぐに仲直りできた。
―――親友。
まさに、わたしたちは、そんな言葉がピッタリだった。
いつも笑うことが好きだった。
ふざけては笑い、おどけては笑い、昨日見たテレビの話題で笑った。
二人で笑いあってる時間が・・・本当に楽しかった。
そんな親友である彼女と、一緒にプールに入る瞬間を待ちわびている。
先生が「急に冷たい水に飛び込んだら心臓麻痺を起こすぞ。」とか「薬液槽にはちゃんと胸までつかれ。」とか、いろいろと注意事項をしゃべっているけど、正直誰も聞いていなかった。
そして、ついに入っても良いという先生の合図。
男子は、次々にプールに飛び込んだ。
「こるぁぁぁ! 言ってるそばから飛び込むなぁぁ!」
とたんに先生の怒鳴り声があがるが、それは、みんなのテンションの高さに打ち消されてしまった。
そんな空気を読みつつ、わたしたちも一緒にプールに飛び込む。
ザッパーンという音とともに、わたしたちは約一年ぶりのプールの水に浸った。
やがて美加は「潜りながらにらめっこしよう。」といたずらな笑顔で言い出す。
望むところだ。
「それじゃ、せーのっ!」
わたしたちは、ゴボッと水中に潜って、お互い顔を見合わせ、精一杯の面白い顔をした。
二人とも、すぐにガマンできずに、水上に顔を出して・・・ひたすら笑った。
飛び散る水しぶきに、太陽の光が反射してキラキラ光る。
そんな色鮮やかな景色に、わたしは心を躍らせた。
本当に楽しかった日々。
中学生になっても、高校生になっても・・・こんな楽しい日々が続くと思っていた。
ある日、突然告知された病名は先天性循環器機能不全症候群。
発症すれば、心臓や肺の細胞が硬質化し、ほぼ100%死に至る奇病。
そして・・・20歳まで生きる可能性は40%。
突然、突きつけられた40%の未来。
一緒に告知を受けた両親が、一番取り乱していたように思う。
母親は泣き続け、父親はただオロオロするだけだった。
わたしは、自分なりに逡巡し、あるシンプルな結論にたどり着いた。
40%なら、別に絶望するような数字じゃない。
今、生きているこの瞬間こそが一番大事なんだと思った。
わたしのこの病気のことは担任に伝えられ、この時から週1回の通院生活が始まった。
毎週水曜日に早退するようになったわたしを、みんなが訝しがるのは当然のことだと思うし、実際に美加も「なんで?」と聞いてくる。
でも、何故かわたしは、正直に答えることを躊躇った。
「ちょっとね。」と答えて、お茶を濁す。
何故、わたしは、正直に病気のことを告げることが出来なかったのだろう。
告げてしまったら何かが壊れる・・・そんな予感を敏感に感じ取ってしまったのかもしれない。
例えそうだとしても、結局は美加を誤魔化してしまったことに小さな罪悪感が残った。
でも、わたしには、今までと同じように楽しく笑っていられる時間の方が大切だった。
7月。
もうすぐ夏休みということで、わたしは浮かれていた。
そんなある晴れた日。
いつもの6年生の教室。
わたしは、美加が別の女友達とおしゃべりしている姿を見つけた。
いつもどおり仲間に入ろう・・・そう思って、わたしは美加たちに近づく。
美加は、そんなわたしに気づくと表情を凍らせた。
「あ・・・ごめん・・・わたしだけ・・・楽しくしちゃって・・・。」
わたしには、『ごめん』の意味がわからなかった。
でも、この日を境に、美加の笑顔は消えた。
先週、二人で笑いながら立てた夏休みの計画。
学校のプール開放日には、二人で行こう。
地区の夏祭りには、ありったけのお小遣いを持って、夜店に行こう。
花火大会には、お気に入りの浴衣を着ていこう。
そんな最高の計画だったのに。
美加が笑わない。
だから、わたしも笑えない。
そして、美加の瞳には、同情の色が混じっていることを感じた。
そうか・・・知ってしまったんだね。
こうなるかもしれない。
そう思ったから、わたしは、美加に病気のことを話さなかったのに。
でも、美加は、わたしを見捨てることはしなかった。
「プールに行こう。」と迎えに来てくれる。
「花火大会に行こう。」と約束どおり浴衣で来てくれる。
そんな美加が、嬉しかったけど・・・辛かった。
こんな辛い夏休みは、生まれて初めてだった。
2学期が始まった。
でも、不思議なことに、まるで灯火が消えたように活気のない教室。
いつも笑い声のあった教室から、笑い声が消えたようだ。
みんなが、美加と同じように笑わない。
わたしは愕然とした。
―――これは・・・わたしのせい?
決してイジメなんかじゃない。
だって、誰もがわたしに優しい。
「大丈夫?」
「どこか痛くない?」
「給食当番、代わってあげるよ」
そう・・・誰もが優しい。
いつ訪れるかわからない病魔に怯えていなくてはならないわたしの前で、そんな病魔の心配のいらない自分たちが無神経に楽しんでいてはいけない。
そういうことらしかった。
誰の発案かはわからない。
担任の先生が言ったのかもしれないし、自発的に誰かが始めたのかもしれない。
でも、そんな『優しさ』は、わたしの心を容赦なく削り取っていく。
同情の瞳とともに声をかけてくる美加。
わたしの辛さを共有するように、辛そうな表情で。
そして、決して笑わない。
やめてよ、美加。
そんなに気を使わないでよ。
わたしは、今までどおりふざけあったり、大笑いしていたいよ。
そんなわたしの気持ちは、もう美加には届かない。
だって、それは一番最初に伝えるべきことだったから。
病気のことを、わたしの口から、ちゃんと美加に伝えるべきだったのにしなかった。
誤魔化してしまった。
生まれた小さな罪悪感は、わたしの口を噤ませてしまう。
動いてしまった歯車には、もう抗えなかった。
いつも、わたしに気を使う美加。
わたしと一緒にいても、ちっとも楽しそうじゃない美加。
今までと同じように笑って欲しいのに・・・いたたまれない気持ちが胸に響く。
わたしは、笑わなくなった美加の顔を見るのが、苦痛に思うようになった。
そして、美加が笑えなくなったのは、わたしのせいだと思うと、本当に気分が沈んだ。
そうだ。
わたしのせいだ。
わたしが、こんな病気になっちゃったから。
だから、わたしは、みんなに・・・美加に迷惑をかけたくないんだ。
そのために、わたしが出来ることはなんだろうか。
わたしには、たった一つしか思い浮かばなかった。
みんな、わたしを気にしなければいい。
そうして、わたしは『孤独』という選択肢を選んだ。
選ばざるを得なかった。
それは、とても悲しい結論だったけど、唯一の結論だった。
話しかけられても答えない。目を合わせない。
まるで、わたしは異世界の人間であるかのように。
自分の存在を、常に虚ろにするよう心がける。
もちろん、美加に対しても同じように。
わたしが、親友じゃなくなるまで。
そして、友だちですらなくなるまで。
でも、わたしの心は『それ』に耐えられるだろうか。
そう思ったから、わたしは心に壁を作った。
―――わたしは、みんなと違うから。
―――みんなと同じようには、生きられないから。
だから、わたしはみんなに無視されても、平気なんだ。
だって、それは仕方のないことなんだから。
『仕方がない』と思うことで、全てをあきらめることが出来るから。
突然のわたしの変貌に、最初はみんな戸惑っていた。
でも、それが続くと、やがて感情は変わる。
「何、あの態度? せっかく心配してあげてるのに!」
そんな声を何度か聞いた。
別に心配なんてしてくれなくていいのに・・・そう思った。
そうして、クラスメイトたちは、わたしに話しかけることすらなくなった。
でも、美加は違った。
怒り出すことはなく、いつも悲しい顔をするだけ。
もはや、わたしに話しかけてくるのは美加しかいなくなっていた。
9月も中旬に差し掛かり、みんなの夏休み気分が抜けた頃。
夏の終わり・・・そんな小雨ぱらつくある日。
赤いランドセルを背負って、一人下校するわたしを、美加が後ろから追いかけてくる。
そして、同じく赤いランドセルを背負った美加は、わたしに追いつくと、「濡れちゃうよ。」と言いながら、わたしの頭が濡れないように、赤い傘を差してくれた。
それは、美加の優しさだと思った。
でも、そんなのわたしの知ってる美加じゃない。
きっと、以前の美加なら、「入れてあげよっか〜? じゃあ、耳をピクピクって動かしてみるのだ!」とか言って、一生懸命耳を動かそうとするわたしを見ながら大笑いしていたはずだよ。
だから、わたしは、傘には入らずに速歩きで逃げた。
「ねぇ、くるみ! どうしてしゃべってくれないの!?」
怒ったような美加の声に、わたしは思わず立ち止まる。
美加は、再び追いついて、わたしと向き合った。
そして、沈黙。
小雨が、わたしと傘を持ったままの美加を、遠慮がちに濡らしていく。
・・・辛いからだよ。
わたしに気を使う美加を見るのも、わたしのせいで笑わない美加を見るのも・・・辛いんだよ。
だから、もうわたしに構わないでほしい。
苦しいのも・・・辛いのも・・・
「もう・・・イヤだから。」
そんな一言に、凍りついたように、一際悲しそうな顔をする美加。
わたしは、その表情から逃げるように、その場を走り去る。
遠ざかる美加の姿。
逃げるわたしに、追い討ちのような美加の一声が浴びせられる。
「くるみのバカァ〜〜!!」
泣きながら絶叫したような声。
美加のそんな声、初めて聞いたよ。
降り続く雨の中、わたしは、今何かが終わったことを悟った。
その翌日から、美加は話しかけてこなくなった。
やがて、美加にもみんなにも笑顔が戻った。
笑顔と笑い声の溢れる教室。
一学期の終わりまでのこの教室は、確かにこんな雰囲気だった。
良かった・・・これで元に戻ったわけだから。
・・・わたし以外は。
もう、その輪の中にわたしはいない。
もう、誰の目にも、わたしの姿は映っていない。
仕方がないんだ。
だって・・・
―――わたしは、みんなと違うから。
―――みんなと同じようには、生きられないから。
『わたしは、ただ今までと同じように笑っていたかった。』
そんな思いは、胸の奥底の届かないところにしまいこまれ、とうとうわたしの心はからっぽになった。
毎日は、空虚で消費するだけの日々に変わり、とある朝に、トボトボ歩く通学路で、何気なく空を見上げて気づいた。
なんで、空が灰色に見えるのかなぁ。
ああ、そうか。
いくら空が青くても・・・いくら雲が白くても・・・もうわたしには関係ないことだもんね。
今は、みんなとは違う別の世界にいるようなものだから。
一日として同じ日なんてないはずなのに、わたしにとって毎日が全て同じように感じる。
ただ、ひたすら無感動に、毎日は過ぎ去っていくだけだった。
この、目に映るもの全てが灰色の世界で。