第2話 オレンジ
男は「秋月幸太」と名乗った。
そして、彼は、当然のようにわたしの名前を聞いてきたが、あまり答えたくはなかった。
でも、左手首に巻かれたハンカチを見ると、やっぱり心苦しい。
それは、わたしのために出来たキズだった。
「・・・塚原くるみ。」
彼に対する負い目が、わたしの口を開かせていた。
成り行きで、仕方なく名乗ったものの、今さら他人と関わって何になるだろう。
ずっと、他人と関わらずに生きてきたというのに。
「つかはらくるみさん・・・か。教えてくれてありがとう。」
彼は、笑顔で言った。
教えてくれてありがとう、というのも珍しい言い回しだと思った。
普通は「いい名前だね。」とか言う所じゃないだろうか。
ただ、今の状況にはピッタリかもしれないけど。
そして、彼は言葉を止めて、例の涼しげな瞳でわたしを見る。
吸い込まれそうな瞳だと思った。
意志の強さを感じる瞳。
だけど、同時に儚さも感じる瞳。
見つめ合ったままの沈黙に耐えられず、視線をそらそうとした時、彼は言った。
「とりあえず、日陰に移動しようか。」
そういえば、9月とはいえ残暑の日差しが強い。
自分の額に、じっとり汗が滲んでいるのに気づいた。
よく見ると彼も汗だくだ。
この屋上の出入り口近くに貯水槽がある。
その貯水槽が作る日陰に、彼が体育座りのような感じで腰掛け、わたしは1メートルほど離れたところに同じように座った。
彼は、少し苦笑いを浮かべている。
わたしは、他人に対して常に壁を作ってきた。
仕方ないじゃないか。
他人とつながりを持てば、また辛い思いをするのだから。
5年前のあの時のように。
わたしは、体育座りをする自分の膝の間に頭をうずめるようにして、まっすぐ前方の遠い景色を見つめた。
となりに座る彼と、視線を合わせないように気を付ける。
彼は、そんなわたしを見ながら言葉をかけてきた。
「まだ・・・死にたいと思ってる?」
思っている。
でも、今日はもうやる気を失くしてしまった。
場所を変えてもう1回・・・なんて出来そうもない。
一応、そんな気持ちは表に出さないように、わたしはあえて返事をしなかった。
返事がないのは肯定だと思ったのだろう。
彼は、目を合わせようともしないわたしを見るのをやめ、視線を正面に見える街並みに移した。
風が、汗の滲んだわたしの額を吹き抜けていくのが心地いい。
彼がしゃべるのをやめたので、聞こえてくるのはセミの鳴き声と車のクラクションの音だけになった。
その現実感のなさが、この最上階だけが別世界であるかのように感じさせる。
それから、会話のない状態がどれだけ続いただろうか。
その間、彼もわたしも、1メートルほど離れて、同じ方角を向いて座っているけど、お互い視線は正面を向いたままだった。
どうして、わたしはこんなところでこうしているんだろう?
そんなことを考えて、ふと、彼の左手首にあったリストカットの痕のことを思い出した。
すぐ横に座っている彼の顔をチラリと見る。
彼は、まっすぐ遠くを見つめたままだ。
その瞳からは、前向きな意思を感じる。
少なくとも、自殺を考えるような人の目には思えなかった。
視線を左手首に移すと、赤い血の滲んだ白いハンカチが目に入る。
何故この人は、こんな怪我をしてまで、わたしを止めたんだろう?
正直言って、わたしはその気持ちが理解できなかった。
わたしの視線に気づいた彼は、突然わたしの方を向いた。
・・・また目が合ってしまった。
そして、彼は、わたしが左手首を見ていたことに気づくと、その左手首をさすりながら照れくさそうに言った。
「僕もね・・・以前自殺をしようとしたことがあるんだ。」
彼は、一度合った視線を、前方の街並みに移してから答えた。
「いろいろと辛いことがあって、それらから逃げるためにね。」
ドキッとした。
わたしもまた同じような動機だったから。
「キミは・・・何故死のうと思った?」
彼は、再び視線をわたしに戻して聞いた。
メガネの向こう側にある瞳は、優しそうで涼しげだ。
わたしは、わざと視線を外しながら、つぶやくように答える。
「先天性循環器機能不全症候群・・・って聞いたことありますか?」
彼は、視線を落とし、右手の親指と人差し指で、鼻の頭をこするようにして考え始めた。
・・・どうやら考える時の彼のクセらしい。
「・・・ごめん。聞いたことがない。」
そうだろう。
国内でもめったにない奇病なのだから、知らないのもムリはない。
医者が言うにはこんな病気だ。
この病気は先天的なものであり、その発生確率は百万人に一人と言われていること。
発症しなければ、基本的に健康体であること。(とはいえ、中学を卒業する頃から、わたしは極端に気管支が弱くなった。それが、この病気のせいかどうかは医者も判断できないとのこと。)
発症1週間前くらいに、徴候が出ることがあること。
発症すると、主に心臓及び肺の一部の細胞が硬質化し、臓器の機能不全を起こすこと。
そして、発症すれば致死率はほぼ100%であること。
毎週の検査で、徴候があるかどうか調べてもらうものの、徴候がないまま亡くなった症例もあるらしい。
どちらにしろ、発症したら・・・そこで死ぬ。
最後に、わたしは最も大事なことを付け加える。
「そして、20歳まで発症せずに生き延びる確率が40%・・・。」
わたしは、彼と視線を合わせることなく、淡々と説明する。
彼もまた、口を挟むことなく、ただずっとわたしを見ていた。
なおも、わたしは続ける。
わたしは、みんなと違うから。
みんなと同じようには、生きられないから。
だから・・・いつも孤独、全ては灰色。
そんな灰色の世界に生きることが、どれだけの意味を持つというのだろう?
もう、いいじゃないか・・・と思う。
きっと、生きることに疲れてしまったんだ。
「疲れちゃった・・・んだよ。」
わたしは、最後にもう一度本音を繰り返して、また前方の遠くの景色に視線を戻す。
その後、どちらもしゃべることなく、どれくらいの時間がすぎただろう。
すでに、太陽は傾きかけていた。
そこで、ようやく言葉を発したのは彼の方だった。
「ひとつ、聞いていいかい?」
「?」
「あの時、何故キミは『やめてっ!』って叫んだの?」
「え・・・。」
「何故キミは、このハンカチを巻いてくれたの?」
彼は、赤い血の滲んだハンカチが巻かれた左手首を掲げながら、わたしの目を直視して言った。
言われてみれば・・・何故だろう。
別に気にしないで、飛び降りても良かったはずなのに。
どうして、あの時『やめてっ!』って叫んだんだろう?
どうして、あの時、ハンカチを巻いてあげたんだろう?
考えても、なぜか答えが見つからなかった。
そんなわたしの様子を横目に、彼はおもむろに立ち上がり、わたしの目の前に立った。
どういうわけか満面の笑顔で。
『その答えを僕は知っている』と言わんばかりに。
混乱しかけたわたしの思考。
次の瞬間、目の前に立つ彼が、そっと右手をわたしに差し出した。
「・・・?」
この差し出された右手の意味が、とっさにはわからずに、ポカンとしてしまう。
ただ、そんなわたしのマヌケな姿さえ、彼の笑顔が包み込んでくれているような気もした。
「キミに、見せたいものがあるんだ。」
見せたいもの?
わたしは、自分の心臓の鼓動が早くなったのを感じながら、差し出された右手と笑顔の両方を、交互に見比べた。
彼の意図が全く読めない。
にもかかわらず、わたしは魔法にかけられたように、差し出された右手を両手でつかんでしまった。
途端に、ギュッと強い力で引っ張り上げられ、わたしは彼に立たせてもらった格好になった。
彼は、そのままわたしの手を引いて、屋上の真ん中辺に連れ出す。
彼は、大体175センチくらいの身長で、細身に見えるが、その見かけから受ける印象以上に、彼の手は大きく感じた。
その大きな手が、華奢なわたしの手を、優しく握ってくれているのがわかる。
あまりに予想外の展開に、わたしの胸は、普段ではありえないほどドキドキしていた。
そして、陽が傾いて長くなった日陰を出た瞬間、眩しい太陽光がわたしの目に突き刺さった。
反射的に空いている右手を、目の上にかざす。
「―――っ!」
なんということだろう。
声にならない感嘆の声。
それは鮮やかな夕景・・・美しいオレンジ色。
大小のビルが入り混じったジオラマのような街並みは、鮮やかなオレンジ一色に染め上げられていた。
ちょうど正面に浮かぶ大きな夕陽は、全てのオレンジ色の源泉。
その大パノラマは、圧巻の一言だった。
生まれ育ったこの街に、こんな雄大な景色があったなんて。
彼の右手とわたしの左手は繋がれたまま。
でも、わたしは、その手を振りほどくことも、言葉を発することも出来なかった。
この強烈なオレンジ色に、ただ見入った。
「ここから見る夕陽は、僕のお気に入りの眺めなんだ。」
となりで一緒に夕景を眺める彼が言う。
「心に・・・響いただろう?」
わたしは、目の前のオレンジ色に圧倒されて返事が出来なかった。
でも、今のわたしの顔を見れば、その答えは明らかだろう。
「それが『生きている』ってことさ。」
まるで、それが結論であるかのように、彼は言い放った。
もちろん、わたしは反論できなかった。
次第に落ちていく夕陽。
あれだけ鮮やかだったオレンジ色が、少しずつ黒い影を濃くしていく。
流れていく時間を感じながら、わたしの胸は、未だにドキドキしていた。
どうして、こんなにドキドキするんだろう?
目の前のステキな夕景のせい?
それとも・・・左手に感じる彼の手のぬくもりのせい?
そんなことを考えながら、今は、目の前にあるオレンジ色の洪水を、ただ見入ることしか出来なかった。