第15話 天使
例え、大切な人がいなくなっても、時は止まることはなく、季節もまた変わり続ける。
当たり前のことなのに、それを初めて実感した10月。
高くなった空は、秋の訪れを告げていた。
そんな、とある水曜日。
あの非日常から日常へ戻ったわたしは、いつもどおり、通院のために病院にいた。
6F。
わたしは、何度か訪れたことのある病室のドアをノックする。
「ど・お・ぞ〜。」
少しおどけた子どもの声が聞こえた。
わたしは、苦笑しながら、「お邪魔します。」と言って入室する。
「こんにちは、くるみお姉ちゃん!」
ベッドの上で、上半身だけを起こして、元気一杯の美佳。
わたしまで元気になってしまいそう。
「美佳ちゃん。元気にしてた?」
「もちろん!」
あまりに元気すぎる美佳に、わたしは苦笑してしまった。
緑色のヘアバンドで束ねている髪の毛がつやつやだ。
昨日は、洗髪の日だったんだろうか。
「体は大丈夫?」
元気そうに見えるけど、患部は心臓。
一応確認する。
「うん。もう大分良くなってきたって、先生が言ってた。」
「そう。じゃあ、もうすぐ退院?」
「うん、早ければ来週だって。」
「良かったね。」
まるで、自分のことのように嬉しい。
でも、何故か美佳の表情が少し曇った。
「・・・どうしたの?」
美佳は、少し口を尖らせて言う。
「だって・・・退院したら、くるみお姉ちゃんと会えなくなっちゃう。」
わたしは、思わずクスクス笑ってしまった。
案の定、美佳はほっぺを膨らませる。
「なんで、おかしいの?」
「大丈夫だよ。わたしは毎週水曜日の午後、ここにいるから。」
「あ、そっか。」
「また、会えるよ。」
美佳が、わたしに会いたいと言うように、わたしも美佳に会いたい。
いつだって、美佳はわたしに元気をくれるから。
でも、それを言うのは、ちょっと照れくさいから言わないでおこう。
「じゃあ、アタシも毎週水曜日に通院するようにしようかなぁ。」
「それ、いいかも。」
わたしと美佳は、目を見合わせて笑った。
そして、美佳は、左手の小指を差し出す。
「じゃあ、約束!」
「何を約束しようか?」
「毎週水曜日は、この病院で遊ぼう!」
・・・むむ。
病院で遊ぶのもどうかと思うけど、まぁいいか。
「しょうがないなぁ。じゃあ、美佳ちゃん。毎週水曜日、ちゃんと通院してね?」
そう言って、わたしは右手の小指を差し出して、指切りゲンマンをする。
わたしが退院した後、毎週水曜日は、こんな感じで美佳とお話をしていた。
いつも、アッという間に時間が過ぎる。
あまり長くいるのもアレなので、ほどほどのところでお暇する。
「また来るね。」
「また来週・・・約束だよ。」
病室のドアの閉め際に、美佳は言う。
わたしは、バイバイをしながらドアを閉めた。
いつも美佳は元気だ。
本当に元気すぎるほどに。
もともとの性格も快活なんだろうけど・・・でも、少しムリをしているようにも感じる。
それは、おそらく不安の裏返しなんだと思う。
胸に出来た手術の傷跡。
いつ現れるかわからない合併症や後遺症。
そんな限りない不安から逃れるために。
そして・・・それはわたしも同じ。
いつ訪れるかわからない発症の瞬間。
以前のわたしなら、生きることに執着していなかったから別に気にならなかったけど、今は違う。
わたしは生きたい。
だからこそ、余計に死ぬのが怖かった。
毎週の検査が怖い。
検査の結果を聞くのが怖い。
いつ「異常アリ」と言われるだろうか。
発症の徴候が出ていたら、どうする?
それは、わたしが死ぬまで毎週毎週続いていく。
・・・気が遠くなりそうだった。
わたしは、エレベーターに乗り込んで、1Fのボタンを押す。
すでに検査も終わっていたので、家に帰るだけだった。
1Fに着いたエレベーターから降りて、エントランスに向かう。
その途中、ふと待合スペースの一角が目に入った。
そこは、秋月さんに『絵のモデルになってほしい。』と言われた場所。
今は、見知らぬお婆さんたちが座って、おしゃべりをしていた。
胸が、チクチク痛む。
これが、『遺された者の辛さ』なのだろうか。
初めて会った時、『キミは・・・遺される者の辛さを知るべきだ。』って言っていたのを思い出す。
彼は、それを教えてくれた・・・こんな形で。
それなら、もう一つだけ教えてほしい。
―――この怖いと思う気持ちを、どうやって乗り越えればいい?
不意に立ち止まって、待合スペースを見渡す。
無意識に秋月さんの姿を探してしまってから気づく。
こんなところに、いるはずはないのに。
「・・・もう・・・いないんだよ。」
わたしは、天井を見上げながら、独り言のように呟く。
もちろん、吹き抜けのホールの高い天井は、何も答えてはくれなかった。
その時、2Fフロアから、わたしのいる1Fに向けて、見下ろしながら手を振る看護婦さんが視界に入る。
「誰?」と思って、目を細めてよく見ると、その人は斉藤さんだった。
斉藤さんは、わたしの入院していた一般病棟の看護婦さんなので、退院してからは会う機会が全くなかった。
だから、会うのは久しぶりなんだけど、そんなことを感じさせないような笑顔で、1Fまで降りてきてくれた。
「くるみちゃん。久しぶりねぇ。その後体調はどう?」
相変わらず人懐っこい口調だった。
わたしは、笑顔で会釈を返す。
「いつも、美佳ちゃんのところに寄ってくれてありがとうね。」
改めてお礼を言われると恥ずかしい。
それに、わたしが寄りたくて寄っているのだから、お礼を言われるようなことでもないし。
「いえ・・・わたしの方こそ。」
少し、顔を赤らめて答える。
「間に合って良かったわ。帰る前に声をかけなきゃと思っていたから。」
「・・・わたしに?」
「そう。今日、くるみちゃんが来るのを待っていた人がいるのよ。」
「わたしを待ってた人?」
「新庄今日子っていう人なの。今から会ってもらえる?」
は、はぁ・・・。
しんじょうきょうこ・・・どこかで聞いたことがあるような。
「大丈夫よ。ヘンな人じゃないから。ついて来て。」
そう言って、エントランスとは別の方向に歩き出す斉藤さん。
わたしは、慌てて後をついていく。
まあ、斉藤さんがそう言うなら・・・むげにも断れないし。
辿りついたのは、『カンファレンスルーム』という部屋だった。
斉藤さんは、ドアを開けて、「お待たせ。」と言いながら中に入り、わたしも続いて中に入る。
カンファレンスルームという部屋には初めて入ったけど、なんか会議室みたい(ていうか実際にはミーティングルームとして使用されているらしい。)だ。
飾り気のない長机が4つ、ロの字型に並び、折りたたみ式のスチール椅子が長机に一つずつ備え付けられている。
そして、ホワイトボードや大画面テレビなどの業務用と思われる機材が、隅っこに並べられていた。
4つあるスチール椅子にの一つに、『新庄今日子』と思われる女性が座っていた。
その女性は、斉藤さんに「ありがと。」とにこやかに手を振ると、立ち上がって、わたしに向けて会釈をする。
わたしも釣られて会釈をした。
「こちらが新庄今日子さん。あの秋月さんの・・・も、元奥さん、ね。」
斉藤さんは、少しどもりながら紹介してくれた。
その説明で思い出した。
そうだ。確か、秋月さんが23歳で結婚した時の相手の人・・・だったはず。
「ゴメン。それじゃわたし巡回が残ってるから行くわね。ゆっくりしてって。」
そう言って、斉藤さんは、またパタパタと部屋を出て行く。
いつも忙しい人だなぁ。
部屋に残されたのは、わたしと新庄さんの二人だけになった。
「ごめんなさい。突然でびっくりしたでしょ?」
新庄さんは、申し訳なさそうに話しかけてきた。
よく見ると、年の頃は30歳前後だろうか。
化粧は薄めだが、上品なピンク色のルージュが目を引いた。
少しウェーブの入ったショートカット。
シックな薄いブラウンのブラウスに、濃いブラウンのセミロングのタイトスカート。
同色系統の服をうまく着こなしている様は、才媛さを感じさせる。
一言で言えば『美人』だった。
とりあえず、いつまでも見とれているわけにはいかないので、「いえ・・・」とだけ答えておく。
明らかにドギマギしているはずのわたしを気にするでもなく、彼女は言葉を続けた。
「とりあえず座りましょうか。」
新庄さんは、スチール椅子に座りながら、わたしにも座るよう促す。
わたしは、彼女の真意が掴めぬまま、スチール椅子に座った。
そして、新庄さんは、斉藤さんが出て行ったドアを見ながら口を開いた。
「斉藤さんとはね、昔同僚だったのよ。」
「ど、同僚・・・?」
わたしは、とっさに意味がつかめなかった。
慌てた様子のわたしを見て、彼女は優しく微笑む。
「若い頃、私もこの病院に看護婦として勤務していたの。」
「そうだったんですか。」
「今は、やめてしまったけどね。」
彼女は、言い終わってからペロッと舌を出す。
愛嬌を感じる魅力的な仕草だった。
でも、それなら斉藤さんと仲が良さそうに見えたのも納得だ。
そんな他愛のない会話は、遠くから聞こえた救急車のサイレンの音に中断させられる。
どうやら急患のようだ。
音が聞こえなくなるのを待って、改めて彼女が口を開いた。
「ちょっと・・・幸太クンの話をしていいかしら?」
「こ、こうたクン?」
わたしは思わず素っ頓狂な声を出してしまい、慌てて両手で口を押さえる。
彼女は笑っていた。
「うふふ。秋月幸太のことよ。」
「そ、そうですね・・・。」
わたしは、自分のことを「馬鹿だなぁ」と思いながら、その恥ずかしさに下を向いてしまった。
あれから、もうすぐ1ヶ月。
まさか、元奥さんとお話をすることになるとは思ってもみなかった。
「実はね、幸太クンから、9月の初め頃に電話があったの。」
9月初旬?
わたしが秋月さんと初めて出会った頃、だろうか。
「その時、なんて言ってたと思う?」
想像もつかないので、わたしは首を傾げる。
「『天使に出会えた』って。」
「・・・天使!?」
そういえば、以前、秋月さんが言っていた。
『キミが・・・天使に見えたからだよ。』
その後、秋月さんは意味ありげに笑っていたことを思い出す。
一体、どうして『天使』だったんだろう?
「春香の話は・・・聞いたかしら?」
「・・・交通事故だったんですよね?」
「そう。守ってあげられなかった自分を・・・ずっと責め続けてね・・・。」
「・・・。」
「あれは・・・見てて不憫になるくらいだったわ。」
新庄さんは、視線を宙に浮かせて、遠い目をしながら言った。
まるで、辛い過去を思い出すかのように。
確かに、秋月さん自身も『自分を許せなかった』って言っていた。
でも、それが、どう天使につながるんだろう?
「だから、ね。今度こそ・・・守りたかったんじゃないかしら。」
新庄さんは、まっすぐわたしの顔を見つめながら言った。
「?・・・あの・・・守りたかったって?」
意味がわからないわたしは、当惑気味に聞き返す。
すると、新庄さんは、ニコッとしながら答えてくれた。
「もちろん、あなたのことを、よ。」
・・・え、わたし?
驚くわたしを見て、何故か新庄さんは嬉しそうな笑顔だった。
「多分ね、この命に代えても・・・くらい思っていたかもしれないわね。」
あ・・・。
初めて出会った日・・・左手首に巻かれた、血染めの白いハンカチ。
何故、こんな怪我をしてまで、わたしの自殺を止めたのかって、ずっと疑問に思っていた。
でも、今、ようやくあの時の秋月さんの気持ちが少しわかったような気がした。
そんな納得顔のわたしに、新庄さんは、笑みを消した神妙な顔つきで言う。
「一つ、聞いてもいい?」
少し雰囲気の変わった新庄さんに戸惑いながら、「・・・は、はぃ。」と、心持ち背筋を伸ばして答える。
「あなたは・・・幸太クンに救われた?」
新庄さんの瞳が、じっとわたしを見つめているのがわかる。
・・・そうだ。
秋月さんがいなければ、わたしはもう生きてはいなかった。
あの雨の中で、『生きてていい』と言ってくれた。『辛かったね』とも言ってくれた。
そして、死の間際まで、わたしに大切なことを教えてくれた。
それは言葉では言い表せないくらい・・・わたしは救われたんだ。
だから、わたしは、真剣な雰囲気を漂わせる新庄さんに負けないように、強くはっきりと頷いた。
そんなわたしを見て、新庄さんは、さっきまでの固い表情が嘘のように、とても嬉しそうな表情で言った。
「なら、きっと・・・幸太クンも同じくらい救われたはずよ。」
ハッとした。
『だって、キミは僕を救ってくれた。』
あの秋月さんのセリフが、頭の中をリフレインする。
救ってあげたつもりなんか全然なかった。
でも・・・。
「幸太クンにとってはね、あなたを救うことが最後の望みだったんだから。」
わたしは、知らないうちに秋月さんを救っていた?
「そうね・・・あなたを救うことで、自分も救われたかったってことかしらね。」
頭を殴られたような衝撃を感じた。
・・・そうだったのか。
思わず下唇を噛むわたし。
遅いね・・・。
今頃、気づくなんて。
わたしは、ずっと誰かに助けてほしいと思っていた。
一人ぼっちの灰色の世界で、途方にくれながら。
ただ、助けの手が差し出されるのを待っていた。
でも、それは、わたしだけじゃなかったんだ。
秋月さんもまた・・・誰かの助けを必要としていたんだ。
そんな秋月さんの辛さに、気づいてあげられなかったのが悔しい。
胸の奥が・・・締め付けられるような気がした。
下唇を噛んだまま俯く私に、新庄さんは、ことさら明るい声で言った。
「そんな天使さんにね・・・幸太クンからの贈り物。」
新庄さんは、壁に立てかけて置いてあった薄手のキャリーバッグを持ち上げて、椅子の上に置いた。
チャックを開け、中から出てきたのは・・・一枚の額に入れられた絵だった。
わたしは、その絵に思わず息を飲んだ。
―――天使。
・・・鮮やかなオレンジ色の夕陽をバックに。
・・・空に向かって手を伸ばしている、わたしによく似た横顔の天使。
二人で手を繋いで見た、あの夕陽。
わたしの顔をスケッチする、秋月さんの真剣な顔。
あの涼しげな瞳も。
銀色フレームのメガネも。
時折見せた物憂げな表情も。
わたしの脳裏に、浮かんでは消えていく。
「この間、幸太クンの住んでいたマンションを引き払った時に部屋に残されていたの。」
・・・生きた証。
この絵は、秋月さんが遺した、彼の生きた証。
込められた想いが、ダイレクトにわたしの胸を刺す。
なぜなら・・・これは、わたしへのメッセージなのだから。
あのオレンジ色をバックに、必死に空に何かを求めるように、つかみ取るように伸ばされた右手。
何をつかみ取ろうとしている?
決まっている。
―――『40%の未来』
この絵が、絵画として価値のあるものなのかどうかとかは、わたしにはわからない。
ただ、何を伝えようとしているのかは、はっきりとわかる。
この絵は、わたしに『生きろ』と言っている。
心の奥底で・・・何かがはじけたような気がした。
『この怖いと思う気持ちを、どうやって乗り越えればいい?』
これが、その答えなんだ。
ただ、シンプルに・・・生きるしかないんだ。
怖さを乗り越える必要はない。
その怖さとともに生きるしかないんだ、と。
まるで、ちょっぴり弱気になりかけたわたしに、秋月さんが活を入れにきたように感じられて、苦笑してしまう。
死の間際まで・・・わたしのことを救ってくれた。
そう思ってた。
でも、死んだ後まで・・・わたしを救ってくれるなんて、思ってもみなかったよ。
よく見ると、絵の右下に黄色で書かれたサインがあった。
いつか見たことのある、ちょっぴり下手なローマ字のサイン。
そのサインを見て、わたしの顔が自然に綻ぶ。
「この絵・・・もらってもいいですか?」
そんなわたしの問いに、新庄さんは満面の笑みで答える。
「もちろんよ。」
以前、スケッチを見せてもらった時と同じように、見覚えのある筆跡の日付とローマ字の名前。
そして・・・付け加えられた、もう一行。
気づいてたよ、わたし。
いつも、わたしのことを『キミ』って言ってたもんね。
だから、今、初めて名前を読んでもらえたような気がして、それが・・・ちょっとだけ嬉しかったんだ。
わたしは、もう一度サインを見て、顔を綻ばせた。
――2009.9.17
―――kouta akizuki
――――for くるみ