第13話 罪と罰
それは、僕が23歳の春。
高校から付き合い続けていた彼女、新庄今日子と、大学卒業と同時に式を挙げた。
仲間たちの祝福は、僕たちの心にたくさんの潤いと彩りをくれた。
そして、間もなく、僕たちは新たな生命を授かった。
―――娘、春香
父になった僕と、母になった今日子。
始まったばかりの新しい家庭は、とても温かく、僕を優しさで包んでくれる。
強くならねば、と思う。
このステキな家庭を守るのは僕の役目なのだから。
僕にとって、春香を見守ることが何よりの楽しみだった。
初めて寝返りを打った時も。
初めて歩いた時も。
初めて「パパ」と言ってくれた時も。
やがてランドセルを背負った小学生に。
やがてセーラー服を纏った中学生に。
やがて「お父さんクサイ!」なんて言うような高校生になるのだろう。
そして、いつかはウェディングドレスを着て、花束を手渡してくれる日が来るだろう。
そんな日が、必ず来ると信じていた。
そんなある日のこと。
仕事の繁忙期が終わり、久しぶりに日曜日に家で休む僕に、先日5歳になったばかりの春香は「パパァ!」とハイテンションでまとわりついてくる。
正直、仕事で疲れていたけれど、ここのところ構ってあげられなかったし、しょうがないか。
洗いものをしている今日子に、「今から公園に散歩に行かないか。」と提案する。
「こうえんだ!」と言って大喜びの春香。
今日子も、『じゃあ行きましょうか。』と言ってくれると思っていたが、今日に限って違った。
「ごめんなさい。今日はちょっと頭が痛くて・・・。家で休んでいていい?」
お出かけ好きの今日子にしては、珍しいこともあるものだ。
だけど、そういう理由なら仕方がない。
僕と春香の二人で、公園まで散歩することにした。
元気に動き回る春香と、仕事で疲れている身体にムチ打って歩く僕。
傍から見ると、非常に対照的だったかもしれない。
公園に行く途中で通る、少し大きめの交差点。
歩行者信号が『赤』だったので、僕たちは『青』に変わるまで待つ。
「ねぇねぇパパ! しんごうがあおになったら、どっちがむこうまではやくつくかきょうそうしよう!」
「おいおい。パパは仕事でお疲れだから勘弁してよ・・・。」
僕は、春香の底なしの元気に苦笑した。
そして、歩行者信号が『青』になり、それを知らせる電子メロディが鳴り始めると同時に、横断歩道を駆け出した春香。
その一瞬だけが、妙に生々しいスローモーション。
そして、その一部始終が、僕の脳裏に濃く焼きつく。
異常なほど場違いに感じる、青信号を知らせる電子メロディ。
無遠慮に、遠巻きにこちらを眺める野次馬たち。
血まみれのまま、ぴくりとも動かない春香。
まるで白昼夢。
僕は、呆然と立ち尽くす。
未来なんて、一瞬で消えうせるものだと、今初めて知った。
後悔は何も生み出さないとわかっていても、後悔にとらわれずにいられない。
なぜ、手を繋いでおかなかったのだろう。
なぜ、「危ないからやめなさい。」の一言が言えなかったのだろう。
なぜ、僕は身を挺してでも守ってあげることが出来なかったんだろう。
仕事で疲れていたなんて理由になるものか。
僕は、春香を守れなかった・・・だから、春香は・・・死んでしまった。
後悔が、四六時中、僕の頭の中をのた打ち回る。
「仕方なかったんだよ。」と人は言う。
「気を落としすぎるなよ。」と人は言う。
「元気出しなよ。」と人は言う。
死にそうな程落ち込んでいる僕を、みんなが心配している。
それは、頭では理解できていたつもりだ。
でも、それすら重荷。
だから、そんな優しい台詞を僕は必死で打ち消す。
くそくらえだ。
お前たちに、何がわかるというんだ?
そんな刺々しい態度しか出来ない僕に、友人たちはかける言葉を失っていく。
やがて、僕に話しかける友人は、一人もいなくなった。
別に構わなかった。
重荷が、一つ少なくなっただけだから。
そんな僕に、今日子は「二人で寄り添って生きていこう。」と言ってくれた。
でも、ダメなんだ。
僕は、どうしても僕を許すことが出来ないから。
「離婚しよう。」
僕の言葉に、今日子は泣いた。
仕方がないんだ。
だって、今日子と一緒にいたら、いつか僕は僕を許してしまうだろう。
でも、許してしまったら、春香の魂はどこに行けばいい?
春香の魂の行き場が、なくなってしまいそうな気がするから、きっと一緒にいてはいけない。
それが、僕の出した結論だった。
全ての、人と人とのつながりを放棄して、一人ぽっちになった僕。
それでも、後悔は僕を責め続けた。
あの瞬間は、何度でも何度でも、まるで拷問のように頭の中でリプレイされる。
いつしか、睡眠薬なしでは眠れなくなった。
僕にとって、寝ている時だけが唯一の休息になった。
ある日の夜、夢を見た。
春香が、僕に駆け寄ってくる。
「パパ。抱っこして!」
帰ってきてくれたんだね、春香。
良かった・・・僕はキミが死んでしまった夢を見ていたよ。
僕は、春香をいつものように抱き上げる。
ついでに、ほっぺをスリスリしたら「おヒゲが痛い!」と嫌がられた。
あはは。ゴメンゴメン。
でも、そんなことにすら幸せを感じる。
僕は、春香を降ろして、手を繋いで歩き出す。
どこに行こうか。
そうだ。ママも一緒に、春香の大好きな、あの夕陽を見に行こう。
手を繋いだままの春香が、僕を見上げて話しかけた。
「ねぇ、パパ?」
「なんだい?」
「どうして・・・。」
―――どうして守ってくれなかったの?
「っ!」
声にならない叫びとともに、僕は跳ね起きた。
びっしょりの寝汗。
涙で濡れた枕。
はぁはぁ、と息切れがする。
涙が止まらない。
僕は、顔を洗うために洗面所に立ち上がった。
水を出して顔を拭う。
蛇口を閉めるのも忘れて鏡を見ると、映ったのは自分の疲れた顔。
もう、睡眠すら僕に休息をくれない。
絶望とともに、頭の中に浮かんだ思いが、僕の胸を締め付けた。
守るべき家庭を守れなかった。
愛する春香を守れなかった。
幸せにすると誓った今日子を泣かせてしまった。
それらは、全て僕の罪。
―――罪は、罰によって贖われなくてはならない。
僕は罪人。
ならば、罰を受けなくちゃいけないんじゃないか?
すぐ目の前にある安全かみそり。
僕は、それを手に取った。
でも、震える手で左手首を何度切りつけても、所詮、安全かみそりでは致命傷にはなるはずもない。
それは、まるで『自ら命を絶ったくらいでは贖罪になんてなるものか』と言われているかのように。
僕の左手首には、リストカットの痕だけが残った。
それから、わずか1週間後のこと。
病院の診察で、甲状腺の悪性腫瘍が見つかる。
もう手の施しようがなかった。
余命6ヶ月。
「くくく。」と僕は笑った。
タイムリミットが設定された僕の命。
―――これが・・・『罰』か。
何故だろう。
あんなに、ざわざわと落ち着かなかった心が、奇妙に落ち着いてしまった。
そして、僕は、不思議な安堵感を感じていた。