第10話 美佳
夢を見ていた。
すごく楽しい夢だったような気がするけど、どんな夢だったのか忘れてしまった。
不思議なことに、とても頭が軽く、すっきりした気分だった。
目を開いたわたしの視界には、白い天井が映っていた。
とりあえず起き上がろうとしたけど、頭は軽いのに体が妙に重いことに気づく。
起き上がれない。
かろうじて動く頭を、左右に動かして周りを確認すると、自分の腕に点滴の管がつながっていることに気づいた。
どうやら、ここは病院のようだった。
―――生きてる!
ひどく咳き込んで、最後に意識を失う瞬間、これで死んでしまうんだと思った。
その後のことは、もちろん覚えていない。
その時、ノックとともに少々年配の看護婦さんが入室してきた。
「あら、目を覚ましたのね。良かったぁ。気分はどう?」
その看護婦さんは、笑顔で尋ねてきた。
でも、体が動かないので、わたしはとりあえず頷くだけ。
悪くはない。
それで意味は通じたようだ。
「今、先生を呼んでくるから。ちょっと待っててね。」
そう言って、パタパタと退室していく看護婦さんを目で追う。
これは夢じゃない・・・そう思った。
すぐに先生が入室してきた。
その先生は、いつもの主治医だった。
どうやらこの病院は、いつもわたしが通院している病院のようだ。
その主治医は、病状を詳しく説明してくれた。
どうやら、発症したわけではなかったらしい。
気管支の炎症を引き金にした一時的な喘息的発作。
それによって呼吸困難に陥り、わたしはこの病院に担ぎ込まれた。
喘息の処置を施したところで、肺炎を併発してることが判明し、高熱にうなされながら、一時は命も危うい状況だったということだが、結果的に最初の一晩を越したところで病状は小康状態になり、以後丸3日眠り続けて、今起きた・・・というワケだった。
わたしは、『発症ではなかった。』という事実に本当に安堵した。
生きていたい。
死にたくない。
こんなに強く願ったことはなかったと思う。
そういえば・・・秋月さんと抱き締め合った時の事を不意に思い出して、顔が真っ赤になった。
耳まで真っ赤になっている自信があるが、自然に顔が綻ぶ。
『生きてて・・・いいんだよ。』
その言葉が、今のわたしを支えている全てのような気さえした。
程なくして母親が病室に現れ、わたしの意識が戻ったことをすごく喜んでくれた。
とりあえず、わたしは、あと1週間ほどの入院が必要らしい。
まだ、完全に肺炎が治癒していないので、当分は定期的な抗生物質の投与が必要だし、体力も相当落ちているので点滴も必要だからと母親は言う。
確かに、まだ起き上がれもしない。
熱もあるし、体もだるい。
最後に、母親は「とりあえず今は寝てなさい。」と言った。
そうしよう。
わたしが目を瞑ろうとした時、母親は思い出したように言った。
「そういえば、あなたを病院までおんぶしてきてくれたっていう男の人・・・。」
うっ。
おんぶされてきたのかわたし・・・。
それは・・・かなり恥ずかしいな。
顔が火照っている・・・おそらく熱のせいじゃないだろう。
「一晩付き添ってくれて、峠を越えたという医者の話を聞いてから帰っていったわよ。」
母親は、その男の人とわたしがどういう関係かは何も聞かなかった。
おそらく察してくれているのだろう。
まあ、聞かれても答えようがないけど。
そうか・・・ずっといてくれたのか。
どんな様子で一晩付き添ってくれたのか、なんとなく想像がついてしまうのが嬉しく感じる。
ホッとしたわたしは、そのまますぐに寝入ってしまった。
翌日も、その翌日も、ほとんどベッドで寝て過ごさざるを得なかった。
ベッドに起き上がれるくらいにはなったが、しんどくて、いつもどおり動き回れる状態にはほど遠かったからだ。
だが、3日目にもなると大分体も軽くなり、ベッドから降りることも出来るようになっていた。
ふらつくので、歩くのはまだムリだが、主治医から車椅子での移動の許可が出たので、早速いつもの年配の看護婦さん・・・斉藤さんが散歩に連れ出してくれることになった。
9月中旬。
季節は、もう秋と言っても差し支えないほどだった。
あれだけうるさかったツクツクホウシの鳴き声も聞こえなくなり、夏に比べて空が高くなった気がする。
そんな夏の終わりを感じさせるようになった病院の外庭を、わたしは、車椅子に乗ったまま、ゆっくりと散歩していた。
のんびりした散歩のはずなのに、見舞い客らしき人影を見つけては凝視してしまう。
背格好が、秋月さんにそっくりな人を見かけるたびに、胸がドキンとする。
でも、人違いとわかって「チェッ」と思う。
・・・まあいいか。
きっと、そのうち来てくれるだろう。
そんな中、憂鬱そうにしゃがみこんで、池の中で泳ぐ錦鯉を眺める12歳くらいの少女が目に止まった。
その少女は、わたしと同じ入院患者専用のパジャマを着て、肩までかかるくらいの髪を、緑色のヘアバンドで束ねているのが印象的だった。
「ちょっとごめんなさいね。」
そう言って、わたしの車椅子を押してくれていた斉藤さんは、車椅子を離れ、その少女に近づいていく。
「美佳ちゃん。明日は手術だから、あまり外に出たりしないようにって先生に言われなかった?」
斉藤さんは、すごくやさしく話しかけたけど、その少女は池を見つめたまま返事をしなかった。
わたしは、その会話を聞きながら、ある少女の顔を思い出していた。
12歳の夏までの親友・・・遠藤美加。
偶然にも、名前が同じ『ミカ』だ。
斉藤さんは、その『美佳』に、なおやさしく話しかけている。
「手術のために体力を温存しておかなくちゃいけないのよ。お部屋に戻りましょう?」
それでも少女は返事をしない。
説得しているうちに、別の看護婦がやってきて、少女に一言二言言葉をかけてから手を引いていく。
どうやら強制送還となったようだった。
やれやれという感じで、車椅子に戻ってきた斉藤さん。
「ごめんなさいね。放り出しちゃって。」
少し肩をすくませて、おどけた笑顔で謝る斉藤さんに、わたしは少しだけ笑顔を返した。
また、ゆっくりと動き始める車椅子。
「さっきの子ね・・・明日難しい手術なの。」
どうやら、この看護婦さんは話好きらしい。
看護婦さんは、車椅子を押しながら、さっきの『美佳』という少女の話を始めた。
「きっとナーバスになっているのね。ここ何日か、ずっとあんなふうに一人で考え事しているのよ。」
難しい手術か。
きっと怖いだろうな。
手術の後、もう意識が戻ることなく死んでしまう可能性だってあるのだから。
それに似た経験をした直後だけに、その気持ちが痛いほどよくわかった。
そんな話を聞いたせいだろうか。
わたしは、彼女のあの憂鬱そうな顔とあの頑なな態度が、気になってしょうがなかった。
部屋に戻ったわたしは、すぐベッドに寝かされた。
斉藤さんは、車椅子を部屋の隅っこに片付けながら言う。
「まだ、しんどいだろうから、ちゃんと休んでね。それと、外に出たい時は、私に言って頂戴。また車椅子を押してあげるから。」
そして、斉藤さんは、忙しそうにパタパタと部屋を出て行った。
看護婦という職業だからかもしれないけど、『優しい人だな』と思う。
他の看護婦さんたちからの人望もありそうだし、わたしの担当がこの人で本当によかった。
・・・主治医の先生がちょっと苦手だから、特に。
そんな他愛のないことを思いながら、わたしは、あっという間にまどろみ始める。
やっぱり、まだしんどいみたい・・・。
夕方になって、はっと目が覚める。
寝る前に感じていたしんどさが、少し解消された感じだった。
わたしは、ベッドの上で上半身を起こして、両腕を上げて伸びをする。
ちゃんと目が覚めたのを確認して、「フゥー」と息を吐いた。
目が覚めたといっても、特にすることもない。
何気なく窓の外を見ると、昼間と同じように池の前でしゃがみこんでいる、あの少女の姿が目に入った。
それは、本当に偶然だった。
そのまま、その姿を観察する。
後姿しか見えなかったから、表情は見えない。
でも、その背中からは、昼間と同じような憂鬱なオーラを感じた。
・・・確か、明日の手術のために、外には出ないようにって言われてなかったっけ?
何故かはわからないけど、なんだか、ほうっておいてはいけないような気がした。
わたしは、急いで車椅子に乗り、そこに向かった。
昼間と違い、夕方の外の空気は、少し冷えてきていた。
わたしは、『美佳』を見つけると、車椅子のまま近づいて、思い切って声をかけてみる。
「こんにちは。」
『美佳』は「えっ!」という顔でわたしのほうを振り返る。
あいさつは返ってこなかった。
明らかに「なんだこの人。」みたいな感情を感じる。
「明日・・・手術なんでしょ?」
『美佳』の肩がピクンと反応する。
「こんなところにいたら、カゼ・・・ひいちゃうよ。」
返事をしかねている・・・そんな感じだった。
昼間と同じように、話しかけたのが看護婦さんなら無視しただろう。
でも、わたしは同じパジャマを着た、車椅子に乗った入院患者だ。
「お姉ちゃんは・・・いいの?」
い・・・痛いところをつかれた。
確かに、わたしも斉藤さんに断らずに部屋を出てきてしまった。
「あ・・・わたしも肺炎がまだ直りかけだから・・・ダメかも。」
わたしが正直に答えると、『美佳』はくすくす笑った。
さっきまでの仏頂面より、よほど魅力的な表情だった。
「お姉ちゃん・・・面白いね。」
わたしは、ちょっと恥ずかしくなって、顔を赤らめる。
そういえば・・・秋月さんにも同じようなこと言われたな。
「でも・・・いいよね。もう直りかけなんだから。」
それは確かに・・・でも、現状はそうだけど経緯を無視されては困る。
「う・・ん、でも最初は死んじゃうかもって思ったんだよ。」
「でも、もうすぐ直るんでしょ?」
・・・肺炎はね。
でも、わたしの『40%の未来』に変わりはない。
もちろん、それはあえて言わずに、わたしは話題を変えた。
「美佳・・・ちゃんだったよね?」
「なんで知ってるの?」
「看護婦さんが教えてくれたから。」
「ふーん。」
美佳は、少しぶっきらぼうな感じで答える。
あまり看護婦にいい感情を持っていないようだ。
「手術は・・・怖い?」
わたしの質問に、美佳の表情が曇る。
「・・・だって、成功率が40%しかないんだもん。」
「よ、40%・・・!?」
この奇妙な偶然に、わたしは目を丸くする。
「アタシの病気・・・ファロー四徴症っていうの。」
「・・・どんな病気なの?」
「心臓の形がおかしいから、明日の手術で正しい形にするんだって・・・そう先生が言ってた。」
「・・・。」
「手術が失敗したら・・・もうママともパパとも友だちとも会えなくなっちゃう。だからすごく怖い。」
池の水面を眺める美佳の目の前で、鯉が跳ねて「パシャンッ!」という水音を立てる。
・・・確かに怖いだろうな。そんな大手術の成功率が40%だなんて。
わたしが、この少女にしてあげられることはあるだろうか。
明日、成功率40%の手術に立ち向かうこの子に、わたしは何かをしてあげたかった。
「わたしも・・・40%なんだよ。」
「?」
「20歳まで生きられる確率。」
「ええっ! なんで!?」
美佳は、目を丸くして驚く。
「先天性循環器機能不全症候群って言う病気でね、発症すると死んじゃう病気。20歳まで生きる確率が40%って言われているの。」
「・・・。」
口をポカンと開けて、美佳はわたしの顔をまじまじと見ている。
あんまり見られても・・・恥ずかしいな。
「でも、わたしだって死にたくないから。」
「・・・。」
「だから・・・わたしは40%の可能性の方を信じるようにしてるの。」
「・・・40%の可能性の方を信じる・・・?」
「そう。絶対に40%の可能性の方を実現してやるんだって信じるの。」
そう言いながら、わたしは両手でガッツポーズを作る。
「そうじゃないと、いつか残りの60%に・・・病気に負けちゃう気がするから。」
わたしは、途中から自分に言い聞かせるようにしゃべっていた。
そんなわたしを、美佳はクスクス笑いながら見ている。
どうやら、わたしのガッツポーズが面白おかしく見えたらしい。
・・・何故?
わたしは、照れ隠しのように語気を強めた。
「だからね、美佳ちゃん!」
「は、はぃっ!」
美佳は、わたしの声に驚いたのか、背筋を伸ばして答える。
なんだか、その仕草が妙に可愛くて、クスっとしてしまった。
「美佳ちゃんも、明日の手術が絶対に成功するって信じて。」
そして、わたしは右手の小指を差し出す。
「約束しよう?」
美佳はあっけに取られた様に・・・でも確かに右手の小指を差し出し、わたしたちは指切りゲンマンをした。
「約束だよ?」
わたしは、美佳の顔を覗き込むようにして、重ねて聞く。
美佳は、少し吹っ切れたように「うん。」と答えてくれた。
「わたしも、明日の手術が絶対に成功するって信じるから。」
美佳は、さらに元気に「うんっ!」と答える。
「お姉ちゃん。まるで魔法使いみたいだね。」
「え?」
「アタシ、すごく元気が出てきたよ。」
美佳は、さっきわたしがしたようなガッツポーズをして言う。
それが、とても微笑ましくて、嬉しかった。
「じゃあ、明日は頑張ろうね。」
わたしもまた、ガッツポーズで励ます。
気がつくと、もう日が暮れようとしていた。
美佳と一緒に病室に帰る途中、わたしは『どうして、わたしは彼女に話しかけたんだろう?
』と考えていた。
それはきっと、彼女の中にわたしを見つけたから。
得体の知れない暗闇の中で、一人怯えているような姿が、わたしと同じだったから。
そして、名前が「ミカ」だったから・・・っていうのもあったのかもしれない。
美佳の病室の前で、バイバイをして別れる。
その笑顔を見て、わたしは、彼女に話しかけて良かったと思う。
例え、その励ましが気休めにしか過ぎないとしても、わたしが彼女にしてあげられることは、多分これくらいしかないから。
あとは、心の底から手術の成功を祈るだけ。
まるで、彼女の未来に自分の未来を重ね合わせるかのように。