第1話 出会い
夏休みが終わったばかりの、9月の太陽の元。
時折吹き抜ける風は、153センチしかないわたしの身体を一瞬だけ包み込んで、留まることなく去っていく。
涼しいと思うのは、ほんの一瞬。
風が去れば、相も変わらず太陽が照りつけ、厳しい残暑を否応なく感じさせる。
制服のスカートのポケットから、ハンカチを取り出して汗を拭い、そのハンカチをポケットにしまいながら、ふと空を見上げてみる。
視界に飛び込んでくるのは・・・灰色の空。
それが、例え雲一つない澄んだ青空であっても、わたしには、乾いた灰色にしか感じられない。
遠い昔の記憶にある風景は色鮮やか。
草木の緑も舞い散る桜のピンクも・・・ステキな景色は、いつだってわたしの心をやさしくノックしてくれた。
でも、今のわたしの心には、どんなステキな景色も響かない。
5年前の『あの時』から、わたしの心はそうなった。
仕方ないじゃないか。
そうしなければ、『あの時』に、わたしの心は砕け散っていただろう。
―――わたしは、みんなと違うから。
―――みんなと同じようには、生きられないから。
わたしは、みんなと違う世界に、たった一人で生きている。
この世界は、全てが灰色・・・灰色の世界。
今のわたしは、灰色の世界の住人。
名は塚原くるみ、17歳、城南高校2年生。
毎週水曜日は、通院の日。
わたしの、5年前からの習慣だった。
午後1時半。
わたしは、通いなれてしまった、いつもの病院の5Fにいた。
午前中の授業が終わってから、早退してまっすぐ来たので、制服姿のままだ。
城南高校の制服は、飾り気のないカッターシャツに藍色のブレザースカート。
今時の制服にしては、あまりに可愛げがなくて、ほとんどの生徒には不評な制服だった。
カッターシャツのポケット部分には、校章マークが刺繍された布を縫いこむ規則になっている。
わたしの胸ポケットに縫い付けられた校章マークは、黄色だった。
これは、今年の2年生は『黄色』という意味を表す。
ちなみに、今年の3年生は『青色』、1年生は『緑色』だ。
そして、来年になれば『黄色』が3年生を、『緑色』が2年生を、『青色』が1年生を表すことになる。
その胸ポケットには、いつも薬袋を入れてある。
月に1回もらう小さな錠剤。
一応、食後に飲まなくてはいけないことになっているが、時々飲み忘れたりもする。
効能は、薬剤師に説明を受けたことがあるが、もう覚えていない。
まあ、飲み忘れても身体に何の影響もないようだから、気休めなんだろうと思う。
検査室。
今、わたしがいる5Fには、いつもわたしが検査を受けている検査室がある。
検査には、さほど時間はかからない。
検査が終わった後、主治医がその結果を教えてくれるだけだ。
今日もまた、いつもの主治医が、笑顔交じりに言う。
「今日の検査の結果も問題ありませんでした。また来週来てくださいね。」
先週も先々週もそのまた前の週も、同じセリフを同じ表情で。
うんざりだった。
毎日が憂鬱。
ただ、なんとなく時間が流れ、1日が過ぎ去っていく。
わたしは、まるで魂のない人形のように振舞うだけ。
こんな無味乾燥な日々を、いつまで過ごせばいいのだろう。
死ぬまで?
それはいつ?
ならば・・・もう終わらせてもいいじゃないか。
今日、終わらせればいいじゃないか。
ずっと頭の片隅にあったこと。
それが急に具体的になったのは、昨日、とある雑居ビルを見つけたから。
そこが、『何もかも終わらせる』のに最適な場所だと思った。
わたしは、病院のエントランスを出て、その雑居ビルに向かう。
病院から離れること200メートル程度。
空き室を示す「入居者募集中」の壁紙が、ベタベタ貼られた雑居ビルだ。
どう考えても、制服を着た学校帰りの女子高生がうろつくようなビルではないだろう。
周りに人の目がないことを確かめ、エレベーターのボタンを押す。
程なく開いたエレベーターの中に乗り込み、10のボタンを押すとエレベーターが動き出して、貧血の時の様に頭が少しクラッとした。
10階は「入居者募集中」紙が貼られた部屋が多く、そうじゃない部屋も、この時間帯には開いていない。
フロア全体が、全くと言っていいほど人気がなかった。
エレベーターを降りて、右に曲がる。
上に昇る階段と、その階段を使わせないようにする鉄鎖と、立ち入り禁止の札。
わたしは、かまわずに鉄鎖をくぐり、階段を昇っていく。
その終点には、重そうな鉄の扉。
普通ならカギがかかっていそうなものだが、このビルの管理はされていないに等しいので、カギはかかっていない。
扉が「ギィィ」と音を立てて開く。
わたしは、無事屋上に出た。
とたんに強い日差しが照り付けるが、風も幾分強い。
自分で見ても、明らかに野暮ったいと思えるショートカットヘアが、あっという間に風にぐしゃぐしゃにされる。
わたしは、気にすることなく、一歩ずつ一歩ずつ、縁の金網に向かって歩みを進めた。
あと3歩程度まで来た時、その声が聞こえた。
「どこに行こうとしているんだい?」
わたしは思わず立ち止まった。
空耳?
いや、確かに聞こえたような。
でも、こんなところに人がいるわけが・・・。
「そっちにいくと危ないよ。」
後ろから聞こえた!
ハッと振り向くと、年の頃20代中頃程度に見える男性が、こっちを向いて立っていた。
黒い無地のTシャツに青いジーンズ・・・髪の毛はうっすら茶髪にも見えるが、すごく繊細そうな髪の毛で、日のあたり具合で茶髪に見えているのかもしれない。
そして、銀色のフレームのメガネ。
メガネのレンズに日が反射して、瞳が見えない。
だが、その人は、確かにわたしを見ていた。
「それ以上、そっちに行かないほうがいい。」
「・・・。」
ここは、昨日、わたしが見つけた『自殺に最適な場所』のはずだった。
まさか、今日に限って邪魔が入るなんて、思いも寄らなかった。
仕方なく、わたしは男の方を向く。
もちろん、今さらやめる気などさらさらない。
わたしは、少しずつ後ずさりしながら、金網までたどり着き、すばやく金網を飛びえればいいと思っていた。
しかし、男は右手を差し出しながら、少しずつこちらに歩み寄ってくる。
「もし、飛び降りつもりならやめてほしい。」
気の利かない説得だ。
わたしは、なおも近づいて来ようとする男に、精一杯の冷たい声をかけた。
「それ以上、近づいて来ないで。」
男の歩みがピタリと止まる。
これでいい。
後はわたしが後ずさるだけ。
この距離なら止められっこない。
だが、男はあきらめずに言葉を吐く。
「本気かい?」
――肯定。
そういう意味で、わたしは少しばかり微笑んだかもしれない。
ためらうことなく、わたしはさらに一歩後ずさった。
男の表情・・・メガネの奥の瞳は、相変わらず見えない。
だけど、顔つきが厳しくなったような気がした。
さらに一歩後ずさったわたしは、ついに金網までたどり着いた。
男との距離は10メートル以上ある。
どう考えても止められる距離じゃない。
後は、わたしのお腹ほどしかない金網を越えれば、もう誰も止められない。
金網に両手をついて、いつでも飛び降りることができるように準備する。
地上から吹き上げてくるような風が、わたしの制服と髪をはためかせた。
風切り音の合間に聞こえる車のクラクションとセミの声は、まるで遠い世界から聞こえる音のように感じる。
それは、今いる場所から地上までが、いかに離れているかを意味していた。
この高さから飛び降りれば、確実に・・・死ぬだろう。
思えば、あの12歳の夏から、もう5年も経っていた。
ただ、ひたすら孤独に耐え、抜け殻のような日々を過ごしてきた。
そうせざるを得なかった。
そんな日々から逃げるために、今、わたしが選んだこの方法はきっと正しいはず。
そう思った瞬間、パチンという音で、わたしは我に返る。
男の右手には、折りたたみナイフが握られていた。
そして、男は、おもむろに左手をこちらにまっすぐ向け、その左手首にナイフの刃を当てる。
「!」
わたしは、声にならない悲鳴をあげた。
「キミは・・・遺される者の辛さを知るべきだ。」
何を言っているんだろう?
ワケがわからない。
自殺志願者を目の前にして、自分が自殺を試みるなど聞いたこともない。
ナイフを持った彼の右手は、かすかに震えていた。
瞳を見て本気かどうかを計ろうとしても、メガネに日光が反射して瞳が見えない。
そして、次のわずかな一瞬。
日光の当たる角度の変わったメガネの奥に、彼の瞳がはっきり見えた。
それは、本気の瞳だった。
「やめてっ!」
本気だと確信したのと、叫んだのは、ほぼ同時だった。
真っ赤な血が吹き上がる様を想像し、同時に伴うであろう激痛を想像し、わたしは両手で顔を抑えてしゃがみこんだ。
どのくらい時間が経っただろうか。
おそらく、ほんのわずかな時間だったはずだけど、恐ろしく長く感じた。
恐る恐る顔を上げると、彼は、左手首を押さえてうずくまっている。
左手首を押さえる右手からは、確かに赤い血が見えた。
わたしは、スカートのポケットからハンカチを取り出しながら、脱兎のごとく駆け出し、男の元で跪く。
思ったより出血は多くない。
わたしは、患部にハンカチを巻こうとした。
彼は、そっと右手を左手首から離す。
「―――っ!」
やはり出血はそれほど多くはない。
だが、出血する傷の他に、幾筋もの同じようなキズ。
もちろん、今日出来たものではない。
紛れもなくリストカットの痕だ。
一瞬作業を忘れたが、わたしは我に返って、ハンカチを左手首のキズを覆い隠すように巻いた。
白いハンカチに赤い血が滲み出す。
そして、思わず彼の顔を見た。
目があった。
知性と意志の強さを感じさせる、涼しげな印象を持った瞳。
メガネをかけていることもあいまって、冷静沈着そうな雰囲気を感じるが、同時に、どこか儚くて消え入りそうな雰囲気も感じる。
目を離すタイミングがつかめず、見つめたまま黙っていると、彼は痛みを我慢しながら笑顔で言った。
「やめてって・・・言ってくれたね・・・。」
彼の額から、汗が一筋流れ落ちる。
同時に、止まっていた時間が動き始めたように、遠くからセミの鳴き声が聞こえた。