ちちんぷいぷい フライアウェイ
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
君はおまじないの由来に関して、どれくらい知っているだろうか? 例えば、小さい子が転んだりした時に行う、「痛いの痛いのとんでけ〜」というのはどうだ?
某お笑い芸人の持ちネタのひとつとして、急速に広まったものの、それ以前から「ちちんぷいぷい」と、頭につけて用いられるケースがあったらしいとか。通説では、江戸時代三代将軍、徳川家光の乳母だった春日局が、「知仁武勇、御代の御宝」と家光をあやしたことが語源といわれている。
「知仁武勇」がなまって「ちちんぷいぷい」になったのは、音も近しいし、まあ納得できなくもない。だが「御代の御宝」と「痛いの痛いのとんでけ〜」では、さすがにかけ離れ過ぎている。間にいくつかクッションを置き、最後にトランポリンでジャンプして、ようやくたどり着けるかというレベルだ。
なぜに「痛いの」は「飛んでいく」のか? ちょっと前にリサーチした結果、ひとつの興味深い話を伺うことができたんだ。どうだい、聞いてみないかい?
ある地域へ引っ越してきた、家族があった。父母と男の子がひとりの三人家族。子供が通う地元の小学校では「痛いの痛いのとんでけ〜」が大流行していた。
転んだり、机の角に足をぶつけたりすることはもちろん、ハイタッチや握手の度合いによっても、このおまじないが唱えられることがあった。
「ちちんぷいぷい、痛いの痛いのムクの御山へとんでけ〜」
みんな、そのような文句を口にしていたという。
「ムク」の語源については判然としない。ムクドリのムクだという言う人もいれば、無垢のムクだと言う人もいる。いずれにせよ、遠くの清浄な御山くらいの意味合いだろうと解釈していた。
彼としては違和感が拭えない。引っ越しをして来る前は、痛がったり、この手のおまじないに頼ったりするのは、あまりいい顔をされない環境だったからだ。
「痛みはじっと耐えるもの。騒いで誰かに迷惑をかけてはいけないもの。痛みは弱み。なめられるから」と教えられていた。だからみんながちょっとしたことで、「ちちんぷいぷい」をし始めるのが、とても軟弱に思えたんだ。
――こんなおまじないの世話にはならない。
彼がそう決心して、数週間が経った、ある朝のこと。
いやに寝起きが悪く、まずはトイレに行こうとふらふら歩いていた折、冗談抜きで、部屋のタンスに足の小指をぶつけたんだ。爪の先が割れてしまうような正面衝突ではなかったものの、指の肉の側面が真っ赤に腫れ上がり、じんじんと痛みが広がり始める。
彼は「ひほ、ひほ」と息だけの声を出しつつも、ぐっとかがみ込んで耐えた。眠気もすっかり吹き飛び、一人部屋だから誰も見ていない。しばらくすると痛みは引いてきて、体重のかけ方を間違えなければ問題なく過ごせるほどに。
そのまま朝の時間を過ごし、学校へ向かった彼だったけど、足の痛みは完全にはなくならず。およそ8時間が経った帰宅時も、まだ残っている。「ちちんぷいぷい」されるのが嫌で、学校では冷やしたりする素振りは一切見せなかった。靴下を取ってみると、朝は赤みを帯びていた腫れの部分が、どす黒く内出血している。
けれども、そこをいくら押しても痛みは感じない。指でなぞりながら確かめてみると、痛みの源は土踏まずの、側面辺りに移っていた。
――今朝の時点で、本当は指だけじゃなく、土踏まずも何かやってたのか? 筋を痛めていたりしたら厄介だなあ。
でも我慢ができないほどじゃない。下手に触ると血行が良くなって痛みが増すと聞いたこともあったから、彼は風呂でも布団の中でも、あまり刺激を与えないよう努めたんだ。
翌日以降も痛みは収まらなかったけれど、じきに彼は妙なことに気がつく。痛みの源が足を超えて、下腿部に移動してきたんだ。体育の準備運動をする時など、該当箇所を伸ばしたり弾みをつけたりすると、「びきり」と身体の内側にしびれが走ってしまう。
それでもあくまで痛さを表面には出さない彼。多少、記録が悪くなるが、誤差の範囲内。声をかけてくるクラスメートはあれど、それが痛みによるものであることは、ごまかし通す。
――もうちょい我慢していれば、勝手に引っ込んでいくはず。今までだってそうだったんだ。病院に行くなんてまっぴらごめんだね。
そんな彼の願いに対し、痛みはあまのじゃくだった。消え去ってくれないばかりか、日を追うごとに、彼の身体をじわじわと這い上り続けていったんだ。
タンスにぶつかって3週間あまりが過ぎた頃。彼の痛みは、右こめかみの奥にまで達していた。痛みの性質も変化していて、普段はおとなしいけれど、思い出したように一瞬だけ激痛が走るというものになっていたんだ。
カモフラージュとして、痛みが走った刹那だけ瞬きをしまくる。痛みのために、多少、顔に力がこもっても違和感はあまりない。いざとなれば、「ゴミが眼に入った」で言い訳が聞く。
でも、涙までは流さない。「ちちんぷいぷい」されてしまう。
――もうじきこの痛みも収まるはずだ。だって、もう俺の身体の中で登っていけるところは、つむじくらいしか残っていねえもん……。
連日の痛みと、それを隠すための、神経の張り詰め。さすがの彼も疲れてきていた。それでも明日こそ、明日こそと期待をかけ続けて、今に至るんだ。今日その時も、同じだったらしい。
でも、限界が訪れる。彼は学校では飼育委員で、たまたま当番に当たっていたんだ。
学校がメインで飼っているのはウサギ。喧嘩を防ぐため、それぞれ簡単な敷居で区切ってはトイレらしいトイレを用意してもらえていないため、各ウサギで用を足す定位置がある。壁だったり、すのこのすき間だったりに、びっしり糞尿がこびりついてしまうんだ。
前の学校ではここまで惨憺たる有様ではなく、ちょっと目を背けそうになるが、同伴している女の子は「奥の方をやっちゃうよ〜」と、もう敷居の戸を開けにかかっている。
やるか、とうんざりしながら歩き出したとたん、「びきり」と来た。
これまでを上回る痛さ、鋭さだった。隠すことなど思いもよらない。手に持った掃除道具を放り出し、うずくまって頭に手を当てる。
響くのは、両こめかみ。そこには何も存在しないはずなのに、こうして押さえている手ですら、見えない釘をギリギリとねじ込んでしまっているような、錯覚さえ覚えてしまうほど。でも外したら外したで、もっとひどいことになってしまいそうな……。
ぐっと閉じた視界の中、たたたっと足音が近づいてくると、あの言葉をつぶやいた。
「ちちんぷいぷい、痛いの痛いのムクの御山へとんでけ〜」
その言葉と共に、目をつむっていた彼の視界に、突如、光が差し込んでいく。
彼は今、頂を見せてたたずむ高い山を前方に見据えている。涼しい風が絶え間なく身体をなで、それでいて足を使っている様子もないのに、山はどんどん近くなってくるんだ。おそらく自分は身体を伸ばして飛んでいるんだと、彼はすぐに察したらしい。
口元がやけに重い。自分は何かをくわえて飛翔を続けているようで、放そうと試みても上手くいかなかった。向かっていく山は冬を迎えているようで、それぞれの縁の一部に黒ずみが見えるものの、おおむねが真っ白。雪が積もっているように感じられたとか。
けれど、近づくにつれて彼は目にする。山頂からまっすぐ、一筋の線が雪をかき分けながら真っすぐに降りてくるところを。「スキーをするにしては急斜面すぎるな」とぼんやり考えている間に、みるみる伸びる線の先は、彼が見下ろしてもはっきりとは確認できない、谷の底へと吸い込まれていく。
とたん、山のてっぺんからべろりと、線から右側の部分が「めくれた」。指を入れられたみかんの皮が、はがれていく時とそっくりだ。
そうしてのぞく「果肉」に当たるであろう山の内側は、黄色と紫が混じり合わずに隣り合った、奇妙な中身をさらけ出す。山の輪郭を残しながら、上部で左巻きの黄色の渦と、下部で右巻きの紫色の渦が、互いを侵すことなく、ゆったりと動き続けていた。
飛んでいる彼の身体が、ぐんと加速する。あっという間に他の白い部分が消え、黄色と紫の中身しか見えないほどに肉薄するや、頭が勝手に揺さぶられた。その勢いで、口にくわえたものが振りほどかれ、山の中身へ向かって真っすぐに飛んでいく。
その灰色の物体を、彼はとっさに判断できなかった。ただ記憶の中で一番近い形状をしていたのが、なまこだったという――。
「大丈夫?」
心配そうにのぞき込む、飼育委員の女の子の顔。彼は飼育小屋の床の上に倒れていたんだ。そして同時に、口の中で盛んに何かが暴れている気配。
「口、思い切り開いて」という彼女の言葉に従うと、彼女は思い切り彼の口元からあるものを引き抜く。それは一羽のウサギだったの。顔中を彼の唾液まみれにしながら、真っ赤な目で彼をにらみつけている。
どうやら自分は、彼女がおまじないをかけて頭をさすってくれた直後、彼女を突き飛ばして、そばのウサギに掴みかかったらしい。逃げ回るウサギを捕まえると、その顔をいきなりくわえこみにかかって、今に至るのだとか。
「良かった。正直、手遅れかと思っちゃった。てっきり痛みに『みそ』を取られちゃったかと」
「みそ……?」
「脳みその『みそ』。この辺りにはね、痛みと一緒に身体の中へ入り込む、悪い神様がたくさんいるんだって。そいつらは『ムクの御山』からやってくるから、痛むところがあると、あのおまじないと一緒に帰ってもらうように伝えるの。
放っておくとね、神様にみそを食べ尽くされて、乗っ取られちゃうからって。ウサギを食べかけたりしたから、もう駄目かと思ったよ〜。良かった、間に合って」
それからほどなく、彼は飼育委員を辞任する。
あの時のことがトラウマになったばかりじゃない。あれ以来、小さい動物を見ると、他のどんな料理を前にした時より、食欲がわき出してしまうからって。




