009 下の名前
「蒼井さん、あなたに一つ、提案があります」
珠綺さんは、少し茶化した様な……それでいて真剣な様な表情を作って、わたしに話を切り出した。
頑張って、同じように少しおどけた口調でわたしも応じる。
「なんですか、珠綺さん?」
吉祥寺でボートに乗った日以来、わたしたちは帰宅途中に途中下車して、適当な公園とか、図書館とか、マクドナルドとか、そんな場所で同じ時間を過ごすような──少し、打ち解けた間柄になっていた。
──そして今、わたしたちがいるのは、国分寺のマクドナルドだ。
わたしは目の前の美少女に、以前ほどは緊張しなくなっていた。
ブスは三日で慣れ、美人は三日で飽きるという、アレだろうか。
「アタシは、今日からあなたのことを、“葵”と呼びます」
「……」
「なので、“葵”はアタシのことを“環”と呼んで下さい」
「……」
額に嫌な汗が、滲んでくるのを感じた。
鼓動のリズムが早くなり、目が泳ぐ。
珠綺さんがズイっという感じで、顔を近づけてきた。
「葵! クラスのみんなの雑談の輪に、入りたいって思ったことある?」
わたしは無言で頷いた。
「将来……大学生になった時の自分を想像できる?」
まったく出来ない。
わたしは無言で、首を横に振った。
「将来……どんな、職業に就きたいとか、夢はある?」
何もなかった。
わたしは……今日一日を過ごすだけで精一杯で、数年先の未来のことなんて考える余裕はまるでなかった。いや……もっとハッキリ言うと……自分の将来を想像するのが怖かった……だから、努めて何も考えないようにしていたのだ……。
わたしはまたもやブンブンと、無言で首を横に振った。
「葵…………大学生になったり……就職した時……周りにいる人たちと……仲良く……楽しく過ごしたいと思う?」
わたしのすぐ目の前にいる美少女の表情は真剣で。心の底から、わたしのことを心配していることが、痛いほどに伝わった。
そんな風に心配される自分の立場が、とても恥ずかしくって……惨めで……いっそ、死んで消えてしまいたかった。
珠綺さんは、その表情を優しげな笑みに戻し、言葉を続けた。
「大丈夫だよ、葵。今、アタシと喋れてるじゃん…………前も同じような話しをたけど……“小さな出来た!”を積み重ねれば、いつか緘黙症なんか消えてなくなるから…………アタシのことを下の名前で呼ぶのは、その第一歩だと思って。アタシを踏み台にして……緘黙なんて詰まらない病気……さっさと終わらせようよ」
珠綺さんの笑みは、どこまでも優しく……わたしは、惨めさを募らせるばかりだった。




