2 ドライアド
この世界の成り立ちが説明される回となります。
テュールと名乗った少女は悲しげに顔を伏せ、呟くように答えたが、それは彼にとって耳に馴染みがない単語であった。
「姉様、先祖返りとはなんだ」
彼の言葉を聞き、テュールは首を傾げた。
「えっと、あねさま?そちらにお姉様もいらっしゃるのですか?」
「そうだ。俺のすぐ隣に。見えないか?……ああ、お前、刃物を持っているんだったな」
「はい、護身用のショートソードと、リュックの中に料理用のナイフが」
「姉は金属の刃物が嫌いだ。この先に少し開けた空き地がある。そこに両方とも置いてこい」
「? わかりました」
不思議そうな顔をしていたが、テュールはリュックを背負うと素直に彼が指した方向へ歩いて行った。木が鬱蒼と茂っているのでここからは見えないが、そう離れている訳ではない。すぐに戻ってくる足音が聞こえてくる。
「お待たせしました……。……!!」
膨らんでいたリュックと腰に帯びていたショートソードを外し、身一つで駆け戻って来た少女は、彼のいる枝を見上げて息を飲んだ。この世の物とも思えぬほどの美貌を持った女性が姿を現していたからである。
彼女こそが彼を育ててくれたドライアド。名はその木と同じ、アッシュ。
彼女の黄味を帯びた暖かいクリーム色の肌にはうっすらと木目が走っており、樹皮を剥いだばかりの柔らかな木肌を思わせる。一糸纏わぬすらりとした体を覆うのは、踝の辺りまで流れるつやつやとした髪。目に鮮やかな緑のその髪はよくよく見ればアッシュの葉であり、ところどころに小さな白い花が咲いている。すっと通った鼻筋と小さめの口は完璧な造形を誇り、深緑色の切れ長の瞳は、くらりとめまいを誘う程の怪しげな魅力を秘めている。
「あ、あの、先程からいらしたのですか?えっと、ご挨拶もせずに申し訳……ありませんでした……」
少女はおろおろと言葉を紡いたが、アッシュは黙っていた。
ドライアドは木に宿る女性の精霊である。木を害する者には死の呪いをかけ、また、その美貌をもって人間を惑わせ、精気を吸い取る。自らの木の傍にある時は脅威的な力を持つが、木から遠ざかればただのか弱い精霊であり、その命は長く持たない。木が傷付けられれば彼女達も傷付くし、木が枯れれば彼女達も死ぬ。それ故に、刃物や火を厭う。刃物が側にあるだけで肌が粟立つような悍ましい感覚に襲われるのだ。
少女に害意はなかった事はアッシュにも理解できたが、それでも損ねた機嫌はすぐに直るものではない。最初から姿を現してやらなかったのはそのせいである。
「姉様。先祖返りとは、なんだ?」
無言のまま少女をじとりと見下ろしている姉に気を使うでもなく、彼は再度問いかけた。アッシュはちらりと彼の方へ視線をよこし、小さく息を吐いて気を切り替えた。
「ぬしには話しておらんかったかの。それを説明するには、この世界の成り立ちから話さねばな。長い話になるぞ」
そう言い置き、アッシュはゆっくりと話し始めた。
「昔、とある世界があった。人間は数こそ多かったが、そのほとんどは魔力を持たず、少数の魔法使い達は異端視されておった。時には狩られ、殺される事もあったという。何百年と続くその状況に魔法使い達は倦んでいたが、深い森の奥で人目を避けるようにひっそりと暮らしておったらしい」
葉擦れの音が混じる独特の声が静かに響く。
「ある日、強力な魔法使いが生まれた。その者こそが、儂らが住むこの世界の創世者。植物の魔法使いと呼ばれていた彼が植えた一本の木は世界樹となり、新しい世界を創り出し、その礎となった。魔法使いやその弟子は皆迫害から逃れる為に、この新しい世界に移り住んできた」
魔なるものが受け入れられない世界に居心地の悪さを感じていた妖精や魔物達も、この大移住に便乗した者が多かったそうだ、と、アッシュは付け加えた。
「魔法使いと言ってもな、彼らは最初から魔法が使えた訳ではない。知識を蓄え、長い修行を重ねた後に、ようやく魔力を身に付ける事ができたのだという。しかしこの世界で生を受けた子供達は、産まれながらにして魔法の力を持っておった」
魔力に満ちたこの大地の恩恵だな。そう言ってアッシュは自らの木の幹を愛おしげに撫でた。
「だが稀に、大人となっても魔法の力が現れない者が生まれるそうでの。その者らが先祖返りと呼ばれておる。そうだな?娘よ」
「はっ、はい、その通りです」
急に声を掛けられ、テュールはどもりながらこくこくと頷いた。
「ふむ。俺に魔法の力があるなどと意識した事はなかったが、俺が狼達と意思を通じ合えるのは、魔法の力のせいであったか」
「いや。ぬしに魔法の力はない。狼達との絆は魔法の力によるものではなく、過ごした年月によって結ばれたものだ」
「む。では俺も、その先祖返りという者なのか?」
「忘れたのか?ぬしは人間のような姿をしておるが、人間とは根の部分が異なっておる。ぬしがなんという種族なのか、同族が他にも存在しておるのかはわからぬが……とにかく、ぬしは魔法的存在だ。儂らドライアドや、エルフと同じようにな。魔法使いや先祖返り、という概念には縛られぬ」
「ああ、そうであったな。おい。先祖返りだとなにか問題はあるのか?」
テュールに問いかける。少女は薄緑色の目を丸く見開いて、彼とアッシュの話を聞いていた。人間にしか見えない彼が、人ならざる者であるという点に驚いていたのだろう。
「えっ、あっ、は、はい、先祖返りは、魔力に満ちたこの世界の均衡を崩すとされています。20の齢になっても魔法の力を顕すことができなかったものは……元の世界、ええと、先程ドライアド様がお話されていた中にあった、魔法のない世界へ追放されるのです」
これは姉にとっても初めて知る事実であったらしい。表情は動かぬまま、微かに首を傾げた。
「姉様、俺は何歳だったかな」
「23だ。その位は自分で覚えておかんか。先ほども言うたが、魔法は使えなくともそなたはこの世界から出て行く必要はないぞ」
「うむ。俺としても、このまま森で暮らしていきたい。おい、お前。魔法がない世界とやらには行きたくないのか?」
「も、もちろんです!この世界が私の故郷ですから」
家族と森を愛している彼は、少女が故郷を離れたくない気持ちがよくわかった。
「この森のエルフ達がお前の手助けとなるのだな?」
「はい、いや、確実ではないのですが、あの、多分」
「わかった。では案内してやろう」
あっさりと話がまとまり、テュールは困惑したようだった。
「え、えっ?いいのですか?まだ私の事はお話ししきれていないと思うのですが、もう、信用して下さるのですか?」
「お前に害意がないことはわかった。詳しい話は道中で聞く。お前は小さいから足も遅いだろうが、早く出発すれば到着も早くなる。姉様、いいか?」
「同胞を追放か。人間どもの考えはよくわからぬな。必要以上に森を傷つけるでないぞ」
表情を動かさないままアッシュは軽く肩を竦め、許可を出した。
感情を表に出さないのはドライアドとしての特徴ではなく、アッシュの性格によるものである。その美貌故に冷たく見える面の奥に、大樹の様な大らかさと、大地の様な優しさを秘めている事を彼は誰よりもよく知っている。
しかし今、その深緑の瞳は何かを言いたげな光を湛えて微かに揺らめいているように見えた。




