19 暖かな家
「あれっ……あんなにあったネトルが……」
里から出た瞬間、テュールは驚いて足を止めた。来た時には視界を埋め尽くすような勢いで茂っていたネトルが跡形もなく消えていたからである。
「招かれざる客を阻む為のものだからな」
彼はこともなげに言い、遡ってきた流れとは別の支流に沿って歩みを進めた。
「ここから少し行ったところに、俺の家族の巣穴がある。そこへ向かう」
「そ、それはつまり狼達がいるということでしょうか」
「安全だ」
「……私も?」
「当たり前だ。馬鹿なことを言うな」
まだ不安をぬぐい切れていないような面持ちであったが、それ以上は何も言わずにテュールは大人しく歩き始めた。しかし夜目がきく彼とは異なり、辺りの闇が深くなるにつれ、その足取りはどんどん覚束ないものとなっていく。何度も転びかけ、その度に支えてやっていたが、終いにはこう提案した。
「遅い。持ち上げてもいいか」
テュールは抵抗したが、歩みの遅さの自覚はあったようだ。暫しの問答の末、彼に身を任せる事となった。リュックの重さはないに等しく、小柄な上に細身のテュールは彼にとってさほどの負担にもならない。
闇の中で活動を始めた動物達が立てる音や、妖精達のささやき声などが聞こえる度にテュールは怯えて身を縮めていたが、彼にとっては闇に閉ざされていてもこの森は我が家のようなものである。健脚に物を言わせ、すぐに家族の元へ辿り着いた。
狼達が住んでいるのは、重ねた年輪の深さが感じられるアイアンウッドの古木の下である。光苔や光茸が生えている為、この木の辺りは優しい明りに照らされており、暗い森の中でもほんわりとその存在を示していた。巣は大きく張り出した枝と隆起した根に守られるように囲われており、光りはしないがその分柔らかい苔が生えていて快適である。
この春に生まれたばかりの末弟、末妹達は走れるようになったばかり。毎日目覚めるなり、巣から這い出てきては転がりまわってじゃれあっている。兄や姉達は仔狼達が巣穴から離れすぎないように気を配りながら見守り、両親は巣穴の中で横たわったまま、その光景を優しく見守っていた。狼達はそれぞれ異なる毛色であったが、その瞳は等しく金色に輝いている。
テュールを抱いたまま家族に近づいていくと、兄弟達は動きを止め、静かに、しかし好奇心に満ちた眼差しを向けてきた。彼らに事情を話す前に、まずは両親にテュールを紹介する為に巣穴の中に入る。父も母もその場から動かないまま、穏やかな視線を向けてきた。
おはよう、我が子よ
耳に直接聞こえるものではないが、視線や豊かな表情、しぐさによって、育ての親の意を解することは容易い。巣穴の中にテュールを降ろし、彼も腰を下ろした。
母親は固まっているテュールの匂いを軽く嗅ぎ、父親ははたりと尾を動かした。
ようやく番を見つけてきたのか
期待に満ちた眼差しの両親の問いかけに首を振って否定し、森のはずれ、人間の村の方向を指差す。送っていく、の意である。それを見た父親は残念そうに耳と尾を微かに伏せ、母親はあからさまにがっかりして姿勢を崩し、前足の上に顎を乗せた。
「なぁんだ、やぁっと嫁さんを見つけたのかと思ったのにな」
突如、頭上から明るい声がかかった。テュールは文字通り飛び上がって驚いたが、彼は落ち着き払って声の主を見上げた。
「おはよう、ウリン」
「おう、おはよう。今日もいい月だな」
さっぱりとした口調で話しているのは、この木のドライアドであるウリンだ。枝の上に寝そべり、足をぱたぱたと動かしている。
その木肌は赤みがかった褐色で、アッシュと同様衣服は纏っておらず、健康そうな肉付きの体を髪で覆い隠している。その髪は瑞々しい緑色で丸型の葉であり、所々混じっている赤く色付いた葉と黄色い粒のような花が、整った中性的な顔立ちを彩るアクセントになっていた。
「そんなにびくびくしなくてもさ、こいつと一緒にいるんだから喰われたりしないって」
面倒見の良い彼女は、未だに固まっているテュールに気さくに声をかけた。
「はっ、はい、初めまして、テュールと申します。ええと、あの、ドライアド様……なのですよね?」
「そーだよ、アッシュみたいにつんつんしてないし、そう見えないかもしれないけどさ。ま、お互い木から離れらんないから会ったことはないけどね」
「あのっ、私、リュックの中にナイフが入っているのですが……お嫌ではないのですか?」
ウリンはテュールの言葉にけらけらと声を立てて笑い、ふわりと枝から飛び降りてきた。彼の母親の腹を枕に寝そべり、その豊かな白い毛を弄びながら答える。
「ああ、アッシュが嫌がったのか?全然へーきだよ、だってそこらの刃物じゃ、俺の木は傷付けられないからね。この木はアイアンウッドの中でも特に硬いんだ」
「そうなのですか、あっ、ちょっ、わわっ」
好奇心を抑えきれなくなった様子で、兄弟達が一斉にテュールに近付き、ふんふんと匂いを嗅ぎはじめた。末子達はまだテュールの膝に収まる程しかないが、一歳以上の兄弟達は立ち上がれば彼の背をも軽く越す程の体躯を持っている。大きな鼻先でつつき回され、口吻から鋭い歯が覗く度、テュールはますます身を強張らせた。
その様子を可笑しそうに眺めつつ、ウリンが声をかけてくる。
「今からすぐに送りに行くのか?」
「狩りの後、食事をしてから行くつもりだ。それまで寝る」
「ああ、そうか。まだ月も全然昇ってないしな。時間になったら起こしてやるよ」
「それまでこいつを頼む」
ウリンがにっこり笑って頷いたのを確認し、仰向けに寝転んだ。
ひんやりとした苔が心地よい。どすん、と重い衝撃と共に、父親も隣に寝そべってきた。父の方を向いて腕を回し、軽く抱きつく。自分の髪の色と同じ黒い鬣に顔を埋めて眠るのは、幼い頃からの習慣であった。ウリンの明るい声と、テュールの困ったような声、兄弟達が喉を鳴らす音を聞きながら、彼は目を閉じた。




