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エピローグ(3)

 ポータルをくぐって誰もいないホームへ一度行ってから、回れ右をしてそのポータルでアルテの待つ海辺へと向かう。


 地中海沿いはこんな感じなのかなと思わせる、カラリと乾いた熱風が吹き抜ける商店街を駆け抜けて、


「おーい、アルテ!」


 浜辺へと降り、波際に立って水平線のほうを向いていたアルテの右隣に立つ。すると、アルテはやや曇ったような表情で、


「ユーマ……申し訳ありません」

「……? 何がだ?」

「私が言うのもなんですが、そうやって走らされてばかりだと、『疲労』の症状を強く感じてしまうのではないでしょうか」

「いや、全く問題ない。生憎、俺はそんなヤワな男じゃないからな」

「そうですか……?」


 こちらを心配するようにそう言って、アルテはその視線を再び海原へ戻す。まるで何かを待っているように、遠く海の彼方を見つめる。


「どうかしたのか、アルテ?」

「いいえ、何もありませんが……? なぜでしょうか?」

「え? いや、なんとなく、何か悩んでるように見えたというか……」

「……悩んでいると言えば、悩んでいるのかもしれません」


 と、アルテはその表情に微かな憂いの色を浮かべて海を見る。その横顔を見つめて話を促すと、アルテはどこか躊躇うようにぽつりぽつりと言葉を紡いだ。


「私はあまりにワガママだと……そう感じているのです。あなたや、アリシアや、元マスター、それにゆりりん……皆のおかげで、私は今ここにいます。私は何も恩返しなどできないのに、皆は私を助けてくれました。

 だから、私は皆に感謝をして……今ここにいられるということだけで、あなたとこうして話ができるということだけで満足すべきであるのに……私の中には、今を不満に思っている私がいるのです。もっと、もっと自由になりたいと……そう欲張っている私がいるのです」

「アルテ……」


 前を見ているその目は、今ここにある凪いだ美しい海を見てはいないのだ。このエメラルドの瞳は、強風に吹かれて波を立てる、現実の黒い海を見ているのだ。


 アルテの胸にある深い寂しさが少し理解できたような気がして、しかしそれゆえに湧磨は言葉を失う。


だが、アルテは微笑んだ。先ほどアリシアが見せたのと似た大人びた微笑を、こちらへ向けたのだった。


「でも、大丈夫です。私の中には、そんな私のことを宥めようとしている冷静な私もいますから。前のように混乱したりはしません」

「そうか」


微笑を返すと、アルテはその微笑に苦笑を混ぜて、


「はい。だから大丈夫のはず……なのですが、私はやはり、まだ『心』というものの扱いに不慣れのようです。なんというか、私は、その……ええと……上手く言葉にできません。――あっ」


と、アルテが何か驚いたようにこちらを見上げる。


「どうした?」

「ひょっとしてこれが、あなたが以前、言っていた、バカヤローと海に叫びたい感覚なのでしょうか」

「ああ……はは、どうだろうな。じゃあ、試しに一回、やってみるか?」

「試しに……? いえ、それはやめておきます」

「どうして」

「それは、やはり……恥ずかしい、ですから……」

「え? ああ……そうか。なるほど、そうだよな……」


 確かに、海に向かって『バカヤロー』と叫んでいる所を他人に、よりにもよって男に見られるのは、女の子にとっては恥ずかしいことなのかもしれない。そんなことにも気づけない自分の経験値のなさが恥ずかしくて湧磨が頭を掻いていると、


「え……?」


 だらりと下ろしていた左手に、ふと温かな柔らかさが触れた。驚いてその手を見下ろしてから、こちらの薬指と小指を申し訳なさそうに握っているアルテの横顔を見る。


 恥ずかしくて顔を上げられない。アルテはそんな様子で自らの爪先にじっと目を凝らしながら、


「今は、これで……」

「――――」


 言葉が出ない。電気ショックにやられたみたいに立ち尽くしながら、頬を朱くしたアルテの顔から目が離せなくなる。


 ふとその目と目が合って、慌てて前を向く。しかし、このままではダメだ。男として情けないというのはもちろん、それ以前に、自分たちを結ぶ絆はとても不安定であるということを忘れてはいけないのだ。


 本当に明日があるのかどうか解らない。それは現実においても同じだが、この場所はそれよりもずっと危うい、薄氷の上にあるような世界なのだ。明日をアテにすることなど、できはしない。


 そう腹を括って、湧磨はアルテの手を包み込むように握り返し、


「ア、アルテ」


 と、身体ごとそのほうを向く。


アルテはパチリと目を大きくしてこちらを見上げる。その精緻に整った面立ちを――やや切れ長の目を、エメラルド色の瞳を、見るからに柔らかそうな唇を間近から見下ろして、湧磨はゴクリと空唾を呑む。が、


「「え?」」


 アルテと同時に気づいて、左側を見る。いつからいたのだろうか、そこには、仁王立ちをしながらこちらを睨んでいるアリシアが立っていたのだった。


 真っ赤なマイクロビキニ姿のアリシアは、その暴力的な双丘の下で腕組みして、まるで試験官のように黙って冷たくこちらを見つめている。


そんなアリシアに湧磨は狼狽するが、アルテはキョトンとしながら尋ねる。


「アリシア、なぜあなたがここに?」

「そんなの決まっているでしょう? あなたが寂しそうにしていたから、わたくしも来てさし上げたのですわ」

「しかし、もうすぐ十分が経ってユーマはそちらへ戻ります。それに現実の海のほうが、ここよりもきっと楽しいと思われます」


 ふん、とアリシアは腰に両手を当てて鼻で笑い、


「それは違いますわ、アルテ。では訊かせていただきますけれど、あなたは例え湧磨がいなかったとしても、人で賑わっていて、美味しい食べ物が食べられる場所にいられれば、それだけで楽しいと感じるのかしら?」

「それは……いいえ、おそらく感じないと思われます。なるほど、理解しました。アリシアは寂しかったのですね」

「ちっ、違いますわっ! わたくしはあなたを――」

「私を?」


 『あなたを気遣ってここに来た』。きっとアリシアはそう言いかけて、その言葉がアルテを傷つけてしまうかもしれないと思い留まったのだろう。一旦、口を噤んでから、不思議そうに目を丸くしているアルテに言う。


「べ、別に……ただの気まぐれですわ。湧磨があなたに何か妙なことをしようとしているのではないかと、そんな予感がしたというのもありますけれど」

「…………」


 アルテはパチパチと瞬きをして、堂々とした姿で立っている割には恥ずかしそうに視線を泳がせているアリシアを見つめ、それからふわりと微笑んだ。


「ありがとうございます、アリシア。ユーマだけでなくあなたといられることもまた、私にとって『楽しい』ことです。あなたが私に気を遣ってくださったこと、とても嬉しく思います」

「わたくしは別に、あなたのことなど全くもって気遣っていませんわ。何しろ、忘れるんじゃありませんわよ、アルテ。あなたとわたくしはあくまでライバル、そこの所お忘れなく、ですわ」

「解っています、アリシア。しかし、やはりあなたは私には勝てないと思われます」


淡々と無表情で言いながら、しかしアルテは湧磨と握り合っている手を見せつけるように、その手をわずかに持ち上げる。


「アルテ、それはつまり……挑発と受け取ってよろしいのかしら?」


 涼しい表情のアルテとは対称的に、アリシアはその目にメラッと炎を宿し、戦い(オークシヨン)を始めようとするかのように身構える。それを見て、湧磨が慌てて間に入ろうとすると、


「お~い、みんな~! ゆりりんだけ仲間はずれなんてズルいみゅん~!」


 手をブンブンと振り、腰に装着した大きな浮き輪と、身長に不釣り合いな大きな胸をバインバインと揺らしながら、スクール水着姿のゆりりんがこちらへ走ってくる。


 湧磨はそれを見て、そういえば先ほど、ゆりりんらしき女性とすれ違ったかもしれないことを思い出し、


「あっ! おい、ゆりりん! さっき海の家で――アダッ!?」


 張り詰めた場の空気を濁しがてらにその真偽を確かめようと思ったのだが、その瞬間、ビシッ! とアリシアが湧磨の手首に鋭い手刀を放ち、湧磨とアルテが繋いでいた手を断ち切った。


「な、何を……!?」

「まずは泳ぎで勝負ですわよ、アルテ」


 骨が折れたんじゃないかと思うほど痛む手首を押さえる湧磨を無視して、アリシアはアルテを睨みつける。すると、アルテもまた真っ向からそれに応じ、


「はい、いいでしょう。受けて立ちます、アリシア。がしかし、水の抵抗力を大きく受けるその身体では、間違いなく私には勝てないと思われます」

「フッ。そういうことは……やってみなければ解りませんわっ!」


 アルテは砂を蹴り上げて駆け出し、アルテもすぐさまそれに続く。そして、ゆりりんも「わーい」と両手を上げながら、湧磨の横をバインバインと通り過ぎていく。


 一人、ポツンと砂浜に取り残されて、


「おい」


 と呼びかけてみても、誰ひとりこちらを見向きもしない。


 もう一度、呼びかけてみるが、アルテとアリシアは水柱のような水しぶきを上げて既に遥か遠くの人となり、ゆりりんは頭に載せていたシュノーケルを装着して、水底の生き物でも探しているようにぷかぷかと波に漂っている。


 ――まあ、いいか。


完全に流れに乗り遅れたというか取り残されて寂しくなくもなかったが、清々しいほど海を楽しんでいる三人の姿を見ていると、思わず笑みがこぼれる。


 ビーチチェアに腰を下ろし、頭の後ろで手を組んで瞼を閉じる。


 ほんの数週間のわずかな時間だ。その間に、本当に色んなことがあった。


 世界にこんな空間があるなんて思いもしなかった。


 中学時代に振られたアリシアとまた話せるようになり、それどころか逆に告白をされるなんて思いもしなかった。


 アルテという少女と出会い、彼女に恋をし、その想いを受け入れてもらえるとは思いもしなかった。


 何から何まで、思いもしなかったことばかりがあった。全て幻の出来事だったかのように、信じられないことの連続だった。だが、自分は確かにその中を一気に駆け抜けた。自らの意志と欲望をエネルギーとして、ひたすら突っ走った。


 現実か、仮想現実か。うじうじとそんなことで迷って、立ち止まっている暇などなかった。


しかし、今なら? 今、落ち着いて目を開けてみたら、そこには何があるのだろうか?まさか、全てが幻となって消えてしまってはいないだろうか?


 ふと、そんな不安を感じながら、湧磨はゆっくりと瞼を開く。すると、


「エクスマキナの中でお昼寝をするなんて……あなたは本当に暢気な人ですわね」

「ユーマ、疲れているのですか?」


 アリシアとアルテがチェアの左右に立って、こちらを見下ろしている。


 気づかないうちにうとうとしていたせいか全く気がつかなかったが、二人は海から上がってきたばかりらしい。その全身はしとどに濡れて、長い髪からは水滴がキラキラ輝きながら滴っている。


「ユーマ、ユーマも一緒に泳ぎましょう」

「ええ。わたくしたちを放っておいてお昼寝をするなんて、わたくしたちの美しさに対する冒涜以外の何ものでもなくってよ?」


と、アルテとアリシアが湧磨へその手を差し出す。


「……ああ、そうだな」


 水に濡れていつも以上に美しく、触れればガラス細工のように割れてしまいそうなその手を、湧磨は少し躊躇してから――確かに掴んだ。


その手は見た目よりもずっと力強く、ぐいと引っ張って湧磨を立ち上がらせる。少し驚きながら二人の顔を交互に見て、そして二人の微笑につられて湧磨も思わず笑顔になる。


 やっぱり幻なんかじゃない。いや、幻になんてさせるものか。この手を離さない限り、全ては現実であり続けるはずだ。


 湧磨は二人の濡れた手を強く握り返し、海へと向かって駆け出した。

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