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エメラルドの瞳

 雫が水面に落ちるような音が聞こえたような気がした。


その音で目を見開くと、視界は一面の闇に満たされている。が、自分が横たわった姿勢でいることに気がつくと、地面が薄青く輝いていることにも気がついた。


 ――ここは……。


 夢を見ているような気分で身体を起こし、辺りを見回す。するとちょうど背後に、一人の少女がこちらへ背を向けて立っていた。


「アルテ……?」


 そこにいる青く長い髪の少女を湧磨は目を見開いて見つめてから、わたわたと立ち上がる。


「アルテ! よ、よかった、無事だったんだな!」

「理解不能。何もよくありません」


こちらを振り向くこともせず、アルテは冷ややかに言う。湧磨は思わず浮かべていた場違いな笑みを消し、


「そ、そうだよな、悪かった。痛かったよな。でも、俺にはああするしか――」

「そうではありません!」


と、アルテは勢いよくこちらを振り向き、


「あなたはどうしてここにいるのですか!? どうしてっ、自分から命を捨てるようなことをっ……!?」


 鋭くさせているその目には、涙が溢れて輝いていた。様々な感情に胸を押し潰されているようにその表情は歪み、声は震えていた。


アルテが泣いている。怒っている。怒鳴っている。その細い眉の間に皺を寄せてこちらを睨み、そのエメラルドの瞳を感情的に揺らしている。口角が下がりそうになるのをどうにか堪えているように、その形のいい薄い唇をぎゅっと引き結んでいる。両手は力一杯に握られて、肩まで微かに震えている。


 アルテの全身に、感情が溢れている。


 湧磨はアルテの言葉も耳に入らないくらいそのことに驚き、そして思わず泣いてしまいそうになるほどの喜びに打たれた。


 アルテはさらに怒るかもしれない。それでも堪え切れず微かに笑みを浮かべてしまいながら、その顔をもっとよく見るために湧磨はアルテの傍まで歩み寄る。


「さあ、どうしてだろうな? 気づいたら、こうしてたんだ」

「気づいたら……?」


 呆れてものも言えないというような顔でアルテはこちらを見つめ、それからやがて悲しげに顔を伏せる。


「私には解りません……。あなたのことが、いつも、どうしても……」

「同感だ。俺も、俺のことがよく解らない。だが、理屈じゃないんだ。誰かを好きになるってことは」

「…………」


 感情の重さで胸を潰されているように、アルテは苦しげに口を噤む。


 一方、湧磨は自分がさらりと告白をしてしまったことに遅れて恥ずかしさを感じながら、以前とは違って誰の声も聞こえない、静かに青く輝く水面があるだけの世界を見渡す。


「でも、別に何も心配することはないだろう。ここはまだ当分はなんともなさそうだし、俺もアルテも見ての通り無事なんだ。このまま二人で、ここで暮らしていこう」

「あなたは……それでいいのですか? ここには、あなたの好きな食べ物はありません」

「腹が減らないなら、別に食事なんてする必要はない」

「バカヤローと叫ぶ海もありません」

「俺は今に満足している。そんなものはなくたっていい」

「しかし……アリーローズも、ゆりりんもいません。したがって、ここはやはりあなたのいるべき世界ではありません」

「俺がどこにいるべきかなんて、それは俺自身が決めることだ。それに、確かにここには何もないし誰もいない。でも、君がいる」

「――――」


驚いたようにアルテは小さく息を呑み、その頬をさっと桜色に染めながら目を伏せる。


「どうした、アルテ? もしかして照れてるのか?」

「ち、違いますっ! 私は別に……!」


 と、アルテは顔を上げてこちらを睨むが、その目は怒っているようでいて、どこか甘えるように優しくなっている。


 からかわれて怒っていることを伝えようとしているようにアルテはムキになってこちらを睨み続けてくるが、それは湧磨にとってむしろ逆効果だった。


「う……」


 可愛いなんてものじゃない。思わず心臓が止まりそうになりながら湧磨が顔を熱くすると、アルテは自分の表情が相手に何を感じさせているか気づいたように顔をさらに朱くして俯く。


 そして、囁くような声で言った。


「あなたと知り合ってから……私はおかしくなってしまいました。今も……胸が、とても苦しいです」


 アルテの足元から、小さな波紋が広がる。その波紋は、まるでアルテの心臓の鼓動を映しているように、一つ、また一つと生まれては、闇の中へと静かに過ぎ去っていく。


「以前はこのようなことなどありませんでした。全てがただ静かで、穏やかだった。なのに、今は……」

「…………」


 胸を苦しげに押さえ、途切れ途切れに言葉を紡ぐアルテの姿を見て、湧磨の心に不意に罪悪感の影が落ちる。自分は独りよがりに、アルテに苦しみを背負わせてしまったのではないか。望んでもいない感情を、無理矢理に持たせてしまったのではないか。そう思わず不安になる。


 しかし、再びこちらを向いたアルテの顔には、穏やかな微笑が広がってた。


「でも……その頃に戻りたいとは思えません。こんなにも苦しいのに、辛いのに……あなたの存在を感じることができるこの心を、手放す気にはなれません」


 その目に浮かぶ涙は明るく輝き、そのエメラルドの瞳は優しく包み込むように湧磨を見つめている。湧磨は確かに救われながらその目を見つめ返し、


「アルテ……。ああ、大丈夫だ。俺はこれからずっと君の傍にいる。今は慣れなくて大変だろうが、感情の扱い方もきっと少しずつ解ってくるはずだ。そうすれば――」

「いいえ、ユーマ。あなたとは、もうお別れです」

「……え?」


 お別れ? 何を言っている。状況が呑み込めず戸惑うと、アルテはその目に浮かんでいた涙を指で拭い、毅然と顔を上げて、


「まだかろうじて外部とのネットワークが生きています。私はこれから、その回線を通じてあなたを現実へと帰します」


 と、一歩、二歩と退いてから、何もない空間を下からすぅっと撫で上げるようにして、その右手を顔の辺りまで上げる。すると、その手の動きとリンクして湧磨の周囲から青い枠線の直方体が生え出し、湧磨の頭上、二メートルほどの高さまで瞬く間に伸び上がった。


なんだ? 何が起きている? 嫌な予感を覚えつつその透明な直方体の面に触れてみると、やはりそこには壁が生じていた。目に見えない、しかし鉄のように冷たく硬い壁である。


「ど、どういうことだ、アルテ……? やめろ、どうしてだ! 俺はここにいたいんだ! ここで君と一緒にいさせてくれ、アルテっ!」


 壁を叩き、必死に懇願する。だが、アルテはただあくまで柔らかに微笑し、


「私も同じです。私も、ここであなたと一緒に過ごし続けることを望んでいます」

「なら、どうして……!?」

「理解不能……です。私も、私がなぜこうしているのか、よく解りません。いえ、解っているのかもしれませんが、今の私にはまだ、この感情を上手く言語化できません」

「アルテ……」


見えない壁に爪を立て、湧磨はアルテを見つめる。すると、アルテはこちらへ歩み寄ってきて、見えない壁越しに湧磨の手と手を合わせる。その目から涙を溢れさせながら、にこりと微笑む。


「私があなたに伝えることができる言葉があるとしたら、それは……ありがとう、ただそれだけです。ありがとう、ユーマ。そして……さようなら」


 やめろ、アルテ。


 その言葉は声にならず、湧磨の手は緑色の光を帯びながら急速に透き通り始めた。直後、まるで不意に後方へ突き飛ばされたように目の前の景色が遠ざかり、全てが闇の渦の中へ呑み込まれていく。


 アルテ――


 そう叫ぶ声は、もはや自分自身の耳にさえ届かない。ひとり佇むアルテへと手を伸ばすが、闇はその手をも呑み込んで、やがて湧磨の視界を埋め尽くした――


「湧磨」


伸ばしたその手を、ふと温かさが包み込んだ。


 驚いて目を開くと、自分の両手を誰かが包み込むように握っている。その手が伸びてきているほうを見ると、アリシアと目が合う。アリシアはなぜか妙に張り詰めた、命の縁にいる病人を見守るような顔でこちらを見つめている。


「アリシア……?」


ぼんやりしながらその名を呼ぶと、凍りついたように固まっていたアリシアの瞳の輪郭が、じわりと緩んだ。


「湧磨……湧磨っ!」


 涙の珠を散らしながら、アリシアは湧磨に抱き被さってくる。そして、湧磨の頬にその柔らかな髪を押し当てながら、小さく嗚咽を漏らし始める。


 湧磨は寝惚けたような頭でしばし呆然としながらも、その嗚咽と、顔の傍にあるノートパソコンから放たれる白い光で、静かに全てを悟ったのだった。


 アリシアの温かさと柔らかさと甘い香りが、妙に胸の奥まで染み込んで、思わず涙が込み上げてきた。

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