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アルテは知りたい。(3)

 石畳の路地の向こうに、盛り上がるような青い海が見えた。


路地の左右に並んでいる、白い石灰岩造りの店の前をアルテと共に並んで歩き、やがてその商店街を抜けると、見渡す限りの青い海原が目の前に広がった。


 空と海はどこまでも青く、砂浜沿いに植えられた椰子の木から落ちる影は焼けついたようにくっきりと黒い。しかし、海のほうから吹いてくる優しい風のおかげで不快な暑さはない。きっとこれが南国の夏、南国の海なのだろう。


 石の階段から、白く輝く浜辺へと下りる。そのまま波打ち際まで歩いて、砂が濡れて黒く染まっている手前で足を止める。


「綺麗だな……。感動するくらい綺麗だ」

「理解不能。単なる情報の羅列です」

「この景色を見て何も感じないのか? 本当に、何も?」

「はい」


 そよ風にポニーテールとワンピースの裾を揺らしながら、アルテは確かにいつもと全く変わりない、硬いエメラルドの瞳でこちらを見上げる。


「何か叫びたくなったりとか……そういうのもないのか?」

「理解不能。なぜ叫ぶのでしょうか」

「なぜとか、そういう話じゃないんだ。なんというか、思わず叫ばずにはいられない感覚というか……」

「思わず何を叫ぶのでしょうか」

「え? んー……そうだな、今は……バカヤローーーーーーーーーーーーーッ! とか」

「理解不能」


アルテはただ淡々と、


「何がバカヤローなのでしょうか」

「さあ、俺にも解らない。ただ叫びたいから叫んだだけだからな。そうだ、試しにアルテもやってみろよ」

「理解不能。私は戦闘用プログラムです。したがって、そのような行為をすることは全くの無意味です」

「そ、そうか。……はは」


 きょう何度聞いたかも解らないような言葉がまた当然のように返ってきて、苦笑するしかない。


――何やってるんだろうな、俺は……。


 深い徒労感を覚えながら、低く唸る海原へと湧磨は遠く目を向ける。


 ――でも……。


 ちらと隣へ目を向けて、アルテの横顔を見る。


 海と同じ澄み切った色をしたその髪が、風を孕んでさらりと揺れる。涼しげなワンピースを纏う白磁の肌は太陽を反射して眩いほどに輝き、緑色の瞳はまるで何かを探すように水平線を見つめている。


やっぱりアルテは可愛い。きっと俺にとって、アルテ以上に魅力的な女性は現実にも仮想空間にもいないだろう。


 でも、それだけじゃない。むしろ、俺がアルテに惹きつけられている最たる理由は、このエメラルドの瞳の奥にある気がする『何か』だ。とても弱い、ともすれば見過ごしてしまいそうな、ほんの一瞬の小さな輝きだ。


 俺はアルテのことが好きだ。


 泉ではなく、いま隣にいるこの少女が――アルテが好きだ。


 いくら徒労感に襲われようが、この想いに変化はない。ならば、いっそ今これを伝えてみたらどうなるだろうと考えた。考えたが……ロクな結果が想像できず、苦々しく唇を引き絞る。と、


「ユーマ」


 不意に、アルテが口を開いた。アルテは海へと視線を向けたまま、


「一つ、訊いてもよいでしょうか?」

「あ、ああ、なんだ?」

「現実の海も、これと全く同じものなのでしょうか?」

「海? ああ……そうだな、まあ、大体は同じだ。この、ちょっと生臭い臭いとかもな」

「この、ジャバジャバという波の音も、遠くから響いてくる低い音もですか?」

「ああ、同じだ。でも、大抵の日本の海はこんなに綺麗じゃない。もっと海が黒っぽくて、風なんて周りの音もよく聞こえないくらい強くて、しかも潮の匂いにイカとか焼きそばの匂いも混じってたりする」

「ヤキソバ?」

「少なくとも、俺の知ってる海ではな。そうだ、もし興味あるなら、いつか一緒に――って……いや、悪い、なんでもない」


 無責任な約束なんてするものじゃない。湧磨はそう気づいて口を噤み、ボリボリと頭を掻く。


「ユーマ、もう一つ訊きたいことが」

「ん?」

「あなたは以前、私を『泉』と呼びましたね」

「あ、ああ……そうだったかな」

「はい、呼びました。その『泉』とは、地面から水の湧く所、あるいは湧いてくるその水自体を示す言葉です。その『泉』というのも、これほど大きく広いものなのでしょうか?」

「いや、流石にここまでのものはないはずだ。泉っていうのは……そうだな、こんなに広くはないけど、もっと静かで、もっと澄んでいて……とにかく綺麗な場所って印象だ」

「静かで、澄んでいて、綺麗……」


 こちらを見上げていた目を海のほうへと戻し、アルテは呟く。


 その瞳が、心なしか先ほどまでより明るい光を宿しているように見えるのは、やはり気のせいだろうか。いや、気のせいじゃないはずだ。湧磨は自らを奮い立たせ、このタイミングを逃さずに言ってみる。


「でも、君のほうがずっと綺麗だ。――な、なんつって……」

「理解不能。自然に存在する場所と私とを比較する基準はなんなのでしょうか。そもそも、比較することになんの意味があるのでしょうか」

「い、意味……?」


 冷め切った視線と反応が返ってきて、思わず冷や汗が噴き出す。がしかし、ついとアルテは視線を逸らして足元を見つめ、それからまたちらりとこちら見て、すぐに目を足元へ向ける。


 ――まただ。


 先ほども見た気がしたが、やっぱりアルテはたまにこうして妙に人間くさい顔を見せる。幻なんかではない。まるで流れ星みたいに一瞬でも、こうして確かに、アルテは感情の煌めきを見せてくれるのだ。


じわりと胸に広がる温かさを持ったその煌めきに、湧磨は息をするのも忘れるほど目を奪われる。奪われるままに見つめ続けていると、


「なんでしょうか?」


 と、アルテが冷淡一色の表情で、つとこちらを見上げる。


「いや、なんでもない」


アルテの表情はいつも通りの無表情である。だが、その表情はどこかムッと意地を張っているように見えなくもないのだ。


 まだ今は何も解らない。それでも、今日は一歩、大きく前進できたような気がする。確証のないその満足感で今日はよしとすることにして、アルテに言った。


「そろそろ帰ろうか」

「はい」


 不意に強く吹いた海風に目を眇めながらアルテは頷いて、湧磨の隣に並んでポータルのほうへと歩き出す。


 石階段を上がって、そこから真っ直ぐに伸びている商店街の路地へと入り、それから少し歩いた時だった。アルテが不意に足を止め、


「マスターがログインしました」

「え?」

「行動ログを削除し、ホームへ帰還します。ユーマ、いただいたアイテムを返却します」


 おい――


 そんな言葉さえ出ないうちに、アルテは緑色の光と共にその場から消え去ってしまった。


 路地の中央で立ち尽くしていると、湧磨の視界に通知アイコンが点る。ウィンドウを開いてみると一通のメールが着信していて、そのメールには先ほど湧磨が購入したワンピースとヘアゴムが添付されていた。


 視界左下に『!』の通知が再び出現する。アリシアからのコールである。応答すると、


「湧磨、あなたは一体どこをほっつき歩いているんですの? もうすぐ時間ですわよ」

「ああ、今から戻る」

「……? どうしましたの? 何かありましたの?」

「ん? いいや、別に何も」


なぜ解ったのだろうか。勘のいいアリシアに思わずギクリとさせられるが、その声のおかげで気分を切り替えられた。


 焦るな。また次がある。その時に渡せばいいさ。湧磨はそう自分に言い聞かせながらメールで送り返されたアイテムをアイテムウィンドウへと移動させ、『ディラン』へと向かったのだった。

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