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アルテ(4)


 暗闇――


どこまでも暗闇が満ちていた。


 自分は気絶しているのだろうか? そう思ったが、そうではないらしい。瞬きをする目の感触や、服が肌に擦れるような感触でそれを悟ると、やがて足元がぼんやりと青く光り出した。


 闇に慣れてきた目を凝らすと、どうやら自分は水面の上に立っているようだった。信じられないが、間違いない。薄青い光を弱々しく放つ水面の上に、いま自分は確かに二本の足で立っている。気づくと、切断された右腕も元に戻っている。


湧磨の足元から、真円の水紋が起きていた。


 それを目で追って先を見て、その波紋が向こうから来る波紋とぶつかり合っていることに気がつく。そして、闇の先へさらに目を凝らすと――そこには泉が、否、アルテが立っていた。


「ここは……どこだ?」


 こちらへ背を向けながら立っているアルテに、湧磨は呆然と尋ねる。すると、アルテは微かな驚きの色をその顔に広げながらこちらを振り向き、


「ユーマ……? なぜ、あなたがここにいるのですか?」

「なぜって言われても……それはむしろ俺が訊きたい。ここは一体なんだ」

「私にも解りません。しかし、エクスマキナの外部へ出ることを禁じられている私がいることから、その内部であることは間違いないと思われます。また、魔法やスキルの使用ができないことから、アリーナ内ではないことも間違いないと思われます」

「アリーナ内じゃない……? じゃあ、なんだ。開発途中のまま放置されたプールか何かにでも迷い込んだのか、俺たちは」

「解りません。ただ、この足元の水へ耳を澄ますと微かに人の声を聞くことができることから、ここが娯楽空間に近い場所である可能性はゼロではないと思われます」


 声? 湧磨は半信半疑で耳を澄ますが、何も聞こえない。だが、屈んで水面に耳を近づけてみると、確かにそれは聞こえた。


 人が会話をしているような、高らかに笑っているような、怒鳴っているような、あるいは悲鳴を上げているような……それらが混沌と混ざり合った声が、深い水底から響いてくるようなくぐもった音で、わずかに耳に届いてくる。


「この水は……なんだ? この場所は、本当にただ放置されているだけの空間なのか?」

「解りません。しかし、私というプログラムがシャットダウンされた時、私は必ずここへ来ることになっています」

「シャットダウン……。君は……本当にプログラムなのか」

「はい、私は戦闘用に開発されたプログラム、『Alte4.204』です」

「……そうか。ん? いや、だけど、おかしくないか?」

「おかしい? 何がでしょうか」


水面の青い光と波の模様をその白い肌に映しながら、アルテは静かな瞳でこちらを見つめる。湧磨はその人形的な瞳を見つめ返し、


「プログラムにしては、君はお喋りすぎる。疑似人格をプログラムに搭載したのは、話しかけられた時なんかにプログラムだとバレないようにするためだろ? なのに、自分から自分がプログラムであることを喋っちまってるなんて本末転倒だ。一体なんのための疑似人格なんだよ」

「――――」


 ピタリと、アルテの動きが止まった。沈黙しているのではない。じっと立っているのでさえもない。機械が突然機能を停止したように、文字通り『止まった』のである。


 が、それは三秒ほどのことで、


「理解不能」


 ぼそりと、アルテが呟いた。


「私は現在、マスターの指示に反した行動を取っています。原因はウィルス感染によるものと思われます」

「ああ……なるほど、そういうことか。大丈夫か? まさか、プログラム全体がダメになってたりは……」

「不明です。先ほど、奇妙な動画が映ったウィンドウが無限に開かれた後、プログラムが強制シャットダウンされました。プログラム再起動後、フルスキャンをする必要があります」

「奇妙な動画って?」

「これです」


 と、アルテはプログラムにも拘わらず爽やかで甘い、果物のような香りを連れながら湧磨の前まで歩いてきて、湧磨の顔へ向けて右の掌を向ける。すると、そこに一つのウィンドウが開き――


「だッ!? なっ、なな、なんだコレはっ!?」


 思わず叫んだ。アルテの腕を掴んで手を下げさせ、一秒見ただけで解るほど卑猥な動画――具体的に言うと、湧磨とアルテが一糸まとわぬ姿でベッドの上で絡み合っている動画を消させた。


 こんなモノがウィルスなのか、それともウィルスにつけ加えた嫌がらせファイルなのか、どちらにせよ、


 ――ゆりりん! お前は何がしたいんだっ!


驚きと焦りで動転し、言い訳も何も思いつかない。が、アルテはただ平然と、


「これは、私たち二人のアバターを使用して作られた動画と思われます。しかし、これは何をしているのでしょうか?

 あなたが私の上にまたがり、私はまるで泣いているような声を上げていることから格闘技の技であると推測されますが、私の保有しているデータでは、これがなんという格闘技なのか断定できません。あなたはご存じでしょうか」

「え? い、いや、俺もよく……」

「…………」

「な、なんだ」


 ずいっ、とアルテが湧磨へ寄ってきて、まるでこちらの毛穴でも観察しようとしているかのように顔を近づけてくる。そのエメラルドの瞳から思わず目を逸らすと、


「あなたは嘘をついていると推測されます」

「う、嘘なんてついてない。俺は何も知らない」


 嘘ではない。ある意味、本当に自分は何も知らない。湧磨は慌ててアルテから距離を取るが、アルテは再びずいっと近寄ってきて、


「あなたの表情には動揺の兆候が激しく出ています。したがって私は、あなたは嘘をついていると判断します。教えてください。この格闘技はなんというものなのでしょうか」

「だ、だから、俺は何も知らないって言ってるだろ!」


湧磨は再びアルテから距離を取り、


「っていうか、なんでそんなに……こ、この『格闘技』について知りたいんだ。こんなのはなんの役にも立たないって、君ならすぐ解るだろ」

「私というプログラムには、あらゆる格闘技のデータを積極的に収集するという性質があります。したがって、この格闘技に関するデータを私は強く求めています。お願いします、教えてください。この格闘技の名称はなんというのでしょうか」

「うおっ!」


 その小ぶりな胸のふくらみがこちらの胸に当たるほど、一際近くアルテがこちらへ踏み込んできて、湧磨は思わず後ろへ飛び退いた。すると、アルテは不思議そうに、


「なぜ逃げるのでしょうか。現在、私にあなたへの攻撃の意志はありません。また、ここはアリーナではないため、私はあなたを攻撃する手段を有していません」

「そ、それは解っているが……」

「では、なぜ」

「それは、まあ、なんていうか……やっぱり、君が可愛いから……」


ほとんど独り言のようにボソリと言ったのだが、どうやらアルテは野生動物並みの聴力を持っているらしい。そのやや切れ長の、感情のない目のまま一度、瞬きして、


「可愛い? それは、私の造形が優れているということでしょうか」

「え? あ、ああ、そうだけど……いや、でも、それだけじゃない。本当の美しさというものは、内面……心も含めてこそのものだ」

「心……? それは、この疑似人格のことでしょうか。そうだとしたら、疑似人格の『可愛い』と『可愛くない』の判断基準はなんなのでしょうか」

「判断基準? さ、さあ、なんだろうな……」

「理解不能。なぜ私を『可愛い』と評価しながら、その理由が明らかではないのでしょうか」

「はは……。さあ、どうしてだろうな」


 真顔で訊かれて、湧磨は思わず笑う。と、アルテは怒ったようにすかさず、


「理解不能。私の何がおかしいのでしょうか」

「いや、別にバカにしてるわけじゃないが、ただなんとなく安心したというか……」

「安心?」

「ああ。君は確かにプログラムなのかもしれないけど、なんていうか、とても女の子だ。だから、安心した。ああ、そうだな。君なら、その身体を使っていい」


『可愛い』という一言に興味を持ち、食いついてきた。それはまさに女の子だと言っていいはずだ。そう思って湧磨が言うと、アルテは冷淡に、しかしやはりどこかムキになったような顔でこちらを見る。


「理解不能。私は女の子ではありません、戦闘用に開発されたプログラムです」

「別にプログラムでも女の子だっていいだろ」

「プログラムでも……女の子? その定義はなんでしょうか」

「定義? 定義は、うーん……まあ、身体が小さくて、細くて……」

「身体が小さくて細ければ女の子なのでしょうか」

「いや、そうとは限らないけど……でも、優しくて、いい匂いがして、たぶん柔らかくて……」

「それが女の子なのでしょうか」

「いや、もちろんそうじゃないのもいるというか……可愛かったり憎らしかったり、優しかったりツンツンしてたり、ワガママだったり献身的だったり……」

「理解不能。それらはまるで矛盾した定義です」

「それは解ってるんだが……なんだろうな、考えてみたら、案外、上手く説明できない」

「理解不能。説明できないにも拘わらず、あなたはなぜ私を――」


 ふと、アルテが言葉を切った。誰かに呼ばれたように頭上の闇を見上げ、


「マスターより通信。『Alte4.204』、プログラム再起動します」


 直後、まるで映像ケーブルが挿し直されたかのように、パッと周囲に景色が――灰色に染まったような戦場の景色が戻った。


LPゲージが再び表示されていることからも、どうやら自分たちはアリーナに戻ってきたらしい。つまり、戦い(オークシヨン)再開である。しかし、湧磨は苦笑して言った。


「何が起きてるのか俺にはさっぱりだが、一つ解っていることがある。それは、俺にはもう勝ち目がないということだ。奥の手は失敗したみたいだし、何より、俺には君を殴れない」


 狭い路地、目の前に立っているアルテは機械のレンズのような目でこちらを見つめながら、


「理解不能。あなたの言うことは何もかも理解できません」

「そうか? 割と単純なことだと思うがな。でも、まあいい。さあ、俺はもう逃げないから、早く倒してくれ。……できれば、なるべく痛くないように、一瞬で」

「解りました」


 吸い込まれるような緑色の瞳でこちらを見つめたまま一歩退いて、アルテは右手を湧磨の顔面へと向けた。その掌の前に、赤い魔方陣が機械的に回転しながら現れ――

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