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Ready


 その日の夜。入札(エントリー)の締め切り時刻である午後九時少し前に、湧磨はエクスマキナへとログインした。


 ポータルをくぐる前、ブルースクリーンの中にいるような世界へ入った瞬間から、湧磨の服装は昨日までとは違っていた。


 シャツとトランクスという恥ずかしい格好ではなく、濃藍色の半袖シャツに、真っ黒なパンツとシューズというシンプルかつスタイリッシュな装い。


 両腕には、肘から指の第二関節までを覆う鉄の装備が装着されているが、その見た目の重々しさの割に重さはほとんどなく、戦闘において役立ってくれるに違いないことが湧磨のような素人にもすぐに解った。


 鉄の扉――ポータルをくぐって、アリシアのチームの、否、自分たちのチームのホーム内へと入って、そういえば、このチームには何か名前があるのだろうかと思いつつリビングへと入ると、そこにいたのはゆりりんだけだった。


「アリシアは、まだ来てないのか?」


 尋ねると、デスクチェアに座っていたゆりりんは困ったように笑いながら、デスクの左手のほうにある、白いカーテンがかけられた大きな窓のほうを黙って指差す。


 そこにいる、ということは、そのカーテンの向こうにはベランダがあるのだろうか。だが、そのほうから人の気配は全くしない。そよ風を受けて眠たげに揺れるその白いカーテンを見やりつつ、湧磨は声を潜めて尋ねる。


「アリシア……どうかしたのか?」

「ファーストキスの権利を出品したあの戦い(オークシヨン)だけど……入札(エントリー)数があんまり伸びなかったんだみゅ。ゆりりんはこれくらいかなと思ってたんだけど、アリシアはもっとたくさん入ってくると思ってたみたいで……」

「そうなのか、それは俺にとっても意外だが……。ちなみに、その入札(エントリー)数は?」

「清里くんを入れて三人だみゅ」

「全く、どうしてですのっ!? わたくしのような、とんでもない美少女とキスができるといいますのにっ!」


 ズンズンと足音を鳴らして、カーテンの向こうからアリシアがこちらへ歩いてくる。そして、シャッ!

 と勢いよくカーテンを開けて現れたアリシアの姿に、湧磨は思わず腰を抜かしそうになる。


「お、お前っ、なんて格好してるんだ!」


 胸の頂上部と股間以外はほとんど何も隠れていない、スリングショットというV字の水着がこの世には存在することを湧磨は知っていた。知っていたが、それを目の前で目撃する日が来るとは思いもしなかった。


 ほとんどヒモに近い、スクール水着を極限まで削り取ったような光沢のある黒い布が、果実のように豊満なアリシアの白い肉体に食い込むようにして巻きついているのを見て、その刺激の強さに湧磨は思わず目を逸らす。


 だが、ゆりりんは慣れた様子で平然と、


「まあまあ、アリシア。きっと嘘出品か、もしくは気分次第で取り下げられちゃうような信用できない出品だと思われたっていう、それだけのことだみゅん」

「わたくしはやると言ったらやる女! 嘘などという卑劣なもの、人道上必要な時にしかつきませんわ!」

「ま、まあ、それもしょうがないみゅん。ゆりりんたち以外は、アリシアがどういう人なのか知らないんだし……」

「でも、入札(エントリー)者は俺以外に二人いるんだろ? なら、バトルは――戦い(オークシヨン)は予定通り行われるわけだ。でも、ファイトマネーは? こんな少人数の……しかも俺みたいな素人が参加する戦い(オークシヨン)で賭けをやる人間なんているのか?」

「それはたぶん大丈夫だみゅん。いわゆる初物好きというか、素人の戦いが好きな変わった趣味の人たちもいるみたいだから、一円も貰えないってことはないはずだみゅ。でも、うーん……貰えても五万円くらいのような気がするみゅん」

「そんな……三万円なんて少なすぎる。俺はアリシアに二千万以上の借金を負っちまったんだ。それっぽっちじゃ利息も払えないぞ」

「いや、ものは考えようだみゅ。これは清里くんにとって初めての戦い(オークシヨン)なんだし、むしろちょうどいい、訓練程度のものと思ってやってみればいいんじゃないかな?」

「訓練……わたくしのファーストキスの権利が、そんな……」


 と、今にも倒れてしまいそうな失意の表情で俯くアリシアが、自暴自棄になって身を滅ぼしてしまわないためにも、自分はこの戦い(オークシヨン)でアリシアとのキス権を無事、勝ち取らなければならない。


 どうせその時には全てなかったことにされるのだろうが、アリシアが身を滅ぼす所など見たくもないし、万が一ではあるが、もしかしたら本当にキスをさせてもらえるかもしれない。


 少なくとも、俺にはそれを要求する権利がある。湧磨は一つ深呼吸し心を落ち着けて、


「ゆりりん、戦い(オークシヨン)の説明をしてくれ」

「オッケー」


 待ってましたというようにしてゆりりんが説明してくれた戦い(オークシヨン)のルールは、およそ以下のようなものだった。


 入札者が複数の場合は、トーナメント制が用いられる。三戦目までは連戦で行われ、それ以降は翌日となる。


 戦い(オークシヨン)に時間制限はない。降参、もしくはKO、そのどちらかによってのみ勝敗は決せられる。


 全てエネルギーの根源はLP(Libido Point)である。LPが少なくなれば魔法やスキルの使用はもちろん、身動きさえ取ることができなくなるから注意すること。


メニューウィンドウは、視界左下、空中に浮かんでいる二重丸のアイコンに触れれば表示させられる。


 攻撃を受けた時に感じる痛みは、現実と全く同じである。現実で肉体が傷つけられた際に発生するのと同じ電気信号を脳に送ることで痛覚が引き起こされるため、その痛覚は現実へ戻った後も継続することがある。


「もしかして、アリシアが学校で青い顔してたのって、これが原因なのか?」

「ええ、全てがそうではないでしょうけれど、いくつかはそうかもしれませんわね」

「……これは、本当に信用してもいい技術なのか? どう考えても危ないように思えるんだが……」

「まあ、これはまだ発展途上の技術だから、危ない部分も孕んでることは否定できないみゅ。でも、間違いなく、やる価値はあると思うみゅん」

「食費を稼ぐため、借金を返すために、背に腹は代えられない……か。ところで、俺の対戦者はどういうヤツなんだ?」

「えーと……」


 と、ゆりりんはパソコンを操作し、トーナメント表をモニタに表示させて、


「清里くんはシード権なしだから、二回、戦い(オークシヨン)に勝たなきゃいけないみゅん。で、最初に戦う相手は……『アセンブラ』っていう名前の、Bランカーだみゅん」

「Bランカー? 確か、俺は一番下のGランカーだから……俺よりもかなり上だな」

「ランクなんて所詮はお飾りですわ。戦い(オークシヨン)への入札(エントリー)が一人だけで、一戦も戦わずに商品を勝ち取ってもランクは勝手に上がっていくんですもの。何も怖じ気づくことはありませんわ」


 そう言われても、殴り合いなどゲームと妄想の中でしかしたことがない人間なのだから、当然、身体に力は入ってしまう。すると、アリシアはやれやれというように嘆息して、


「しょうがないですわね……」


 と、湧磨の右手を取り、その人差し指をアリシア自身の唇へと、一瞬、ぷにんと軽く押し当てる。


「エクスマキナの中での感覚は、現実と同じ……。つまり、今あなたが指に感じた感触は、現実での感触と全く同じということ。この感触を現実で、それもあなたの唇で、味わってみたいでしょう?」


 そう言って、アリシアは再び湧磨の人差し指を薄桃色の下唇に触れさせる。その形の整った艶やかな唇は、まるでマシュマロのように優しい弾力があって、そして温かい。その未知なる感触の前に、湧磨は雷に打たれたように立ち尽くす。立ち尽くしながら尋ねる。


「でも……やっぱり、どうして俺なんだ? 俺でいいのか?」

「同じことを訊かないでと言ったはずですわよ」

「だとしても、どうしてキスの権利なんて……」

「ああもうっ! いいから、さっさと行きなさい! もう時間ですわよっ!」


 と、背中を突き飛ばされ、


「あ、戦い(オークシヨン)が開かれるアリーナはBだみゅん。間違えないようにね~」


 というゆりりんの言葉を聞きながら湧磨はリビングを出て、『アリーナB』を扉脇のモニタで選択してから、ポータルをくぐった。


 地上へと向かう地下鉄の階段のような場所へと出て、そういえば、と今さら気づき、メニューウィンドウを開いて自らの設定を確認する。装備の類はアリシアがやってくれたようなので心配はしていなかったが、自分のリングネーム、つまりアカウント名はどうなっているのだろうか。


「――って、おい! 『ユーマ』って、俺の本名じゃねえか!」


 『ユーマ』。設定画面の最上部に、LPゲージと共に表示されている名前を見て、湧磨は思わず一人でツッコミを入れる。


 これでは、個人特定をしてくれと言っているようなものだ。まさかアリシアは、本気で俺を使用人奴隷にでもする気なんじゃないのか。単なる予感とは言えないそんな寒気が、湧磨の背筋を上ったのだった。


  ○  ○  ○

 

 湧磨がアリーナBへ移動したことを管理データ上で確認しながら、アリシアはモニタに映し出されたままになっているトーナメント表へ目を移した。


「ところで、ゆりりん、このBランカーの後にいる対戦者は誰ですの? この『Alte』という名前、わたくしは初めて見るのですけれど……」

「さ、さあ……誰だろうね? ゆりりんも知らないみゅん」

「……?」


 なんだろう。今ゆりりんの声が、どこか落ち着きなかったような気がする。が、そう不思議に思って横顔を見直してみても、そんな様子はもうどこにもない。気のせいか、とアリシアはソファへ腰を下ろし、アリーナBが映されている大きなモニタを見上げて、祈るように胸の前で両手を組み合わせた。


 勝ってほしい。そして、無事に帰ってきてほしい。あまりにも自分勝手で、欲張りな願いだとは自覚している。だが、湧磨ならば逃げることなく、屈することなく、この機会を踏み台にして駆け上がってくれるに違いない。


 アリシアはそう信じていた。全てはその信頼ゆえの願いだった。

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