第五節 元勇者の弟子
「へぇ、それでライナスくんにお風呂と夕食の準備をさせてたんだ?」
マオに経緯を語らせるだけ語らせたミツキの額にくっきりと青筋が浮かぶ。顔色をうかがうまでもなく怒っている。
マオの足が無意識のうちに一歩後ろに下がったが、矜持と意地のお陰でなんとかそれ以上は踏み止まれた。
「腕立て伏せ百回の刑」
師匠に無断で弟子を増やし、挙句に自分の仕事を押し付けた罪は重い。今すぐ居間の床で百回だと言うと、マオは口先を尖らせた。
「なんでだよ!? そいつが勇者の弟子になりたいっつーから弟子にしてやっただけだろ! ってか、アンタも弟子が増えて嬉しいだろうが!」
「つべこべ言わない」
「……クソババア」
「はい、今ので五十回追加」
抵抗しても、ミツキがやれと言ったらやるしかないのがマオだった。
悪態をつきながらも床に吸われるようにうつ伏せになり、そのままぶつぶつと数を数えながら腕立て伏せを始める。
ミツキはそれにため息をひとつもらして、改めてライナスに向き直った。
「うちの馬鹿弟子が本当に申し訳ないことをしてごめんなさい」
勇者の弟子になりたい、というライナスの想いにマオはつけこんだのだ。馬鹿だとは思っていたけれど、まさかここまで馬鹿だったとは。
弟子の悪行にどうお詫びすればいいかもわからない。頭を下げたが、これから彼に告げることを思えばあまりに気が重かった。
「いえ、構いません。風呂も料理も慣れてますから。どうか頭を上げてください」
気の重いままに頭を上げると、ライナスもまた気まずそうな顔をしている。
普段なら、弟子入りの申し出は直接ミツキを訪ねてくるので、何のわだかまりもなくきっぱり断れる。相手にいくら縋られたり、いくらお金を積まれたりしても頑として首を縦に振ることはない。権力を振りかざして無理矢理にしようとするものとはまだ出会っていないが、そうなればそうなったでイリシア聖教会に駆けこんで教皇に掛け合えば追い返せる。
今回はどの例にもあたらなかった。自分の弟子の不祥事だ。そして、それは師匠であるミツキの不祥事でもある。
ミツキはマオ以外の弟子を取る気はなかった。
ハンスの言う通り、ミツキは師匠として誰かにものを教えるのにどうしようもなく向かないのだ。今だって、こんなクソがつくほど生意気に育ててしまったマオを持て余している。
マオが腕立て伏せの回数を数える恨みのこもった声ばかりが部屋に満ちる中、ミツキは逃げるようにライナスから目を逸らして続けた。
「それから、ごめんなさい。弟子はこの子以外取る気はなくて」
「そう……、ですか……」
「このお詫びはちゃんとします。ヘイズミールからの旅費ももちろんこっち持ちで」
「いえ、そこまでしていただくわけには。僕が勇者様に会いたくて勝手に来たんですから。本当に……、お気になさらないで、ください」
「でも、それじゃあ他に」
「いいんです。何もいりません」
――気まずい。
マオがやらかしたお詫びはきちんとしなければならないのに、それを対価に彼は弟子入りを通そうとしなかった。本当はそうしたかったかもしれない。けれど、ライナスにはそれを自制する精神があるのだ。
マオとは大違いだ。きっとご両親の教育が良かったんだろう。そうミツキは心の中でひとりごちた。
ミツキは次に繋げる言葉を探して視線を泳がせると、目は自然と居間のテーブルに吸い寄せられた。
赤レンガ造りの竈から匂ってくるクリームシチューの香りに鼻はほとんど慣れていた。けれど、その匂いに隠れるようにパンの芳ばしい匂いが混じっていたのに、食卓を見てやっと気づいた。
家に置いてあったパンを軽く炙ったのだろう。焼きたてとはいかないまでも、十分に食欲を誘う香りだ。
「あの」
ミツキの視線が食卓にあるのに気付いてか、ライナスはほんの少しだけ笑みを浮かべて続けた。
「料理の腕には少し覚えがあるんです。冷めないうちに召し上がっていただけませんか」
「そう……、だね。ありがとう。いただくね」
マオが勝手に命じて作らせたとは言え、食べ物には罪もしがらみもない。
「マオ。腕立て伏せはあとにして、部屋から椅子を取ってきて」
ふたり暮らしの食卓に余分な椅子はなかった。
せっかく風呂に入ったというのに、マオの額には薄らと汗が滲んでいる。乱暴にそれを拭って、返事もなく言われた通りに二階の自室から椅子を持ってくると、マオはやっぱり一言も口にせずに食卓についた。
まだミツキの裁量に納得できずに拗ねているのは一目瞭然で。ミツキがそれを苦笑しているうちに、ライナスがクリームシチューをよそってミツキの前へと置いた。
「いただきます」
「……ます」
手を合わせてそう言うと、マオの声が小さく続いた。食事の前には必ずそうしろと教え込んだけれど、それはこういう状況でも利くらしい。
ミツキとマオが短く言って木匙に手を伸ばしたのに、きょとんとした眼差しを送ったのはライナスだ。
「それは異世界の食事の作法ですか?」
「うん、そうだよ。こっちのお祈りよりずっと短いけど、言ってることはだいたい一緒」
イリシア教徒は、食事を前にして短いお祈りの言葉を上げる習慣がある。ヒトが生きるために犠牲になった動物や植物に対して赦しを乞い、同時に感謝を述べる祈りだ。これが食事に関する殺生の贖いになるらしい。
「それじゃあ、僕も。いただきます」
ミツキを真似して、彼は手を合わせると同じように言ってから木匙をシチューの皿につけた。
未知のものに触れた瞬間のライナスの顔に酷く懐かしいものを感じながら、ミツキはぼんやりと昔のことを思い出した。
マオも、最初のころはこんな風に不思議がりながらミツキの真似をしていたのだ。記憶を失って、常識も習慣もなくて、作法もわからないから、ミツキから何もかも教えてもらわなければ、本当に何もできない赤ん坊のようで。
食べ方くらいはわかるだろうと思ったけれど、マオはミツキが匙で料理を食べるのを熱心に見つめたあとで、自信満々に匙の裏でスープを掬おうとして失敗したのだった。
――そんな可愛らしい時期は一瞬だったけど。
誰に似たのかは知らないが、マオは飲み込みが早くて大抵のことはすぐにこなせるようになった。そうして、どこで覚えてきたのか「クソババア」なんて汚い言葉まで使い出して。
あまりに成長が早すぎないか、と疑問に思ったけれど、そもそもマオは赤ん坊ではなかったのだ。
「勇者様?」
思い出に浸るミツキにライナスの視線が寄せられる。機嫌をうかがうような目は、料理が合わなかったのではないかと心配しているようだった。
「ごめんね、なんでもないよ。いただきます」
もう一度言って木匙をシチューにつける。見下ろしたシチューからは温かな湯気が立っていた。
甘やかなスープの香りに自然と喉が鳴る。ニンジンと一緒に掬い上げて一口食べると、とろみのついたなめらかなスープとにんじんの甘みが舌の上に広がった。
――おいしい。
優しい味だ、と思った。この味は長らく口にしていない。
続けざまに口にしたジャガイモはほくほくとして柔らかかった。……生煮えのジャガイモ特有のえぐみなど一切ない。
いつもミツキかマオが作ると必ずと言っていいほど感じるジャガイモのえぐみや、ニンジンの生臭さがこのシチューにはない。そして、なにより鶏肉の中にまでちゃんと火が通っていた。
これは絶対にお腹を壊す心配のない料理だ。
何の不安も疑いもしなくていい安全なご飯。
期待してない衝撃的な味付けも、異常に甘いだとか辛いだとか脳に刺激的すぎる味もない。
おいしい。
いつもならすぐにでもエールか、酷いときはハンスの露草亭に逃げるのに、今日はその必要もない。
包み込むように優しくて、ただひたすらにおいしい。
――お母さん。
不意に、ミツキの脳裡に元の世界の母親の顔が浮かんだ。エプロンをつけて、コンロでことこととシチューを煮込んでいる母の後姿。
母はときどきルウを使わずに牛乳と小麦粉からシチューを作っていた。これはそのときの味によく似ている。
「あの、勇者様? 本当に大丈夫ですか?」
何も言わないミツキを今度こそ本気で心配しているのだろう、ライナスの顔色が陰っていた。その懸念を払うようにミツキの顔に笑みが浮かぶ。
心の底から滲み出たような笑顔だった。菩薩もかくやと自分で思えるほどの慈愛に満ちた微笑み。
この笑みはどこから来たのか。答えは言わずもがな。
「ライナスくん」
「は、はい」
ミツキの呼びかけにライナスの肩がわずかに跳ねた。
「弟子にならない?」
シチューを口にする前とは正反対の言葉にライナスの目が見開く。
それもそうだろう。思わず口にしてしまったとは言え、我ながら俗物的だったとミツキですら思う。
一度断っておきながら彼の料理を口にした瞬間の、あまりにもきれいな手の平返しは笑い話にすらできない。けれど、それを押してでもライナスを迎え入れたいくらいミツキは料理ができなかった。
ミツキがそうなのだから、その弟子のマオも当然の如くできない。見かねたハンスがふたりに料理のイロハを教えてくれたものの、下ごしらえ以上はどうやってもうまくいかなかった。
料理センスが壊滅しているんだろう、とミツキはもうとっくに諦めて、お腹を壊すか壊さないかギリギリのまずい夕食を作り続けていたのだけど。
この味を口にしたら、もうダメだった。
長らく思い出さなかった母の顔がくっきりと頭に浮かんでしまうほど、ライナスのシチューはおいしくて、懐かしい味がした。
おいしさだけで言うなら、ハンスのほうが上だろう。ハンスの料理は万人受けするうまさがある。だけど、彼のは基本的にエールに合う酒場の料理だ。つまり、濃い。脂ののった肉や、こってりした味付けの肉、スパイスの効いたピリ辛な肉。とにかく肉、肉、肉だ。
いくら絶品と言っても、健康なんぞ知らんな、と言わんばかりの働き盛りの男向け料理を三食摂るのはミツキにはきつかった。
「あの、それは、どうして……?」
戸惑うライナスにすべてを察してくれというのも酷だろう。状況から少しくらいわかってしまったかもしれないけれど、あなたの料理の腕がほしいと正直に言ってしまうのも憚られる。
どう説明しようかとミツキが視線を彷徨わせた先で、マオが泣いていた。
「ごめん……、こき使って、本当にごめん……」
「えっ、ええ??」
シチューの味に胸に罪悪感がせり上がってきたのか、小さな声で謝罪しながら泣いている。こんなマオは初めて見た。
泣きたい気持ちはとてもよくわかる。だってもう生煮えのジャガイモとか食べたくないし、お腹壊したくない。何の警戒もなく食べられるあたたかな食事が食べたかった。
「マオ」
マオを呼ぶと、一筋の涙を流す瞳と視線がかち合う。そうして何も言わずに頷いた。文句はない、ということだろう。
「ライナスくん。私はね、人にものを教えることは本当に得意じゃないの。それにこの先、ここを出て行く予定もある。だから、今までマオの他に弟子を取らなかった」
悪いとは思ったけれど、本命の理由は濁した。
「それでもいいのなら、ここにいてほしい」
師匠と仰がれるような人望や力量が自分に備わっているとはミツキは思っていない。ミツキ自身の師匠だったドラ婆と比べれば、天と地ほどの差があることも自覚している。
それで本当にいいのだろうかと、なぜだか告白の返事待ちの女子高生のような心持ちになりながらライナスを見ると、彼はミツキに真っ直ぐ視線を返した。
「ここを出る予定があるとおっしゃいましたけど」
「それは、本当は秘密にしておかないといけないんだけど」
言わなければ、対等じゃないと思った。
聖都から出て行く予定がある、なんて言えばほとんどのイリシア教徒は嫌がる。ミツキが魔王討伐の旅に出たときだって、進んで同行したいと言った聖騎士が何人いたことか。
まして今は魔王との戦いも終わった平和な世だ。たとえイリシア聖教会経由で召喚された勇者だとしても、それに付いてこの清く美しい聖都を出るなんて、住民なら断固として拒否するだろう。
「勇者様がそうおっしゃるなら、僕は決して口外いたしません。ですが、そのときは僕も一緒に連れて行ってくださいますか」
「きつい旅になるかもしれないけど、ライナスくんが嫌でなければ」
「嫌になるはずなんてありません。むしろ、やっと勇者様の弟子になれたのに、置いて行かれるほうが嫌です」
「……行先も、言えないよ」
「かまいません。どこへでもついていきます」
ライナスの口が本当に堅いのかも、まだわからない。彼の意思が本物なのかも、ミツキには判断がつかなかった。
旅に出るのを秘密にしておかなければならない理由と、行先を告げられない理由はライナスとは関係ない。しかし、それにはまったく触れずに彼はついて来ると言う。
弟弟子にしてやると言われてマオにこき使われたことといい、彼は疑うことを知らないのだろうか。ミツキは少し不安に思いつつも、頷いた。
「ライナスくん……、じゃなくて、ライナス。きみは今から私の弟子です」
約束を酌み交わす杯もなければ、師匠らしい威厳もない。けれど、ライナスの双眸は夢と希望に満ち溢れたように輝き、それがミツキには眩しく思えた。
応えられるかはわからない。できるだけのことはするつもりだけれど、あまり自信はなかった。
他の師匠と呼ばれる人たちと比較されればきっとそちらが勝つだろう。
――ドラ婆だったら。
ふと思い出した自分の師匠の横顔。老いてなお矍鑠として、いつも不敵に笑っているような老婆だった。
「下を向くんじゃないよ」と、記憶の中のドラ婆がミツキに言う。「あんたにはあんたのいいところがある」そう言ってあの老婆なら笑ってみせるのだ。
だから、ミツキはにっと口の端を持ち上げた。
「よろしく、ライ――」
「よっしゃあぁぁ! 明日からも家でうまいモンが食える!」
けれどミツキのここ一番の笑みは、マオの雄叫びによってかき消された。握手でもしようと持ち上げたミツキの右手が無様に空を掴む。
ライナスもライナスで、嬉しいのかそうでないのか、マオの雄叫びに戸惑いつつも複雑な顔で笑っていた。
この、行き場を失った右手をどうしてくれようか。それにライナスの料理が理由だったことは黙っておくつもりだったのに。
ふつふつとミツキの頭に血が昇っていく。そうしてミツキはドラ婆譲りの不敵な笑みを浮かべたまま、マオに向き直った。
「マオ」
静かな声だった。けれど、それが未だに騒いでいたマオを瞬時に黙らせる。
「近所迷惑だから静かにしなさい」
「……はい」
今夜ばかりはマオのいつもの舌打ちすら出なかった。水を打ったように静まり返った食卓。初見のライナスでさえふたりの力関係を容易に理解しまっただろう。そして、ミツキを怒らせてはいけないことも。
それに対してミツキは後悔していない。怒らせたら怖い、という認識を弟子たちには知っていてもらわないと困る。……ドラ婆ですら、そうだったのだから。