第三節 不穏の影
イリシア共和国、首都・ロンドミア。イリシア聖教会の総本山であり、聖女イリシアの生まれ故郷であるこの町は常に巡礼の信者で賑わっていた。
町並みも聖都と呼ばれるに相応しいほど美しく、都市を囲む大城壁の門から伸びた石畳の大通りに並ぶ商店は統一したように白壁と紺碧の屋根を連ねている。裏路地ですら見栄えを気にするように花が飾られ、鼠が漁れるようなゴミはひとつもなかった。
現世利益こそないにしろ、来世に希望を持たせるイリシア聖教会こそ、まさに“信じるものは救われる”を地でいく宗教だ。
善行で来世が良くなると信じるのだから、当然のように住民も巡礼者も親切な人間ばかりで。道で迷うと、眉根ひとつ動かしただけで嬉々として人が寄って来る。
人の心に深く根付いた宗教は強い。人を集めるのにこれ以上のものはない、とミツキは思う。
ロンドミアは、もとは田舎の小さな村だったらしい。それが今ではロンドミア大聖堂を中心に円を描いた大都市だ。この都市と周辺に広がる農地だけの小国の割に、人口密度や人の出入りは他のどんな大国の首都にも劣らなかった。
ここに住む誰もが親切で、汚いものなんかどこにもない。そんな絵に描いたような理想の国だった。
「賊ねぇ……、そりゃまた」
けれど、理想はやっぱり絵に描いた理想でしかない。
ミツキは両脇を家に挟まれた空を見上げ、ため息交じりに続ける。
「聖騎士団副団長とその他上級聖騎士が警邏に出たのは威嚇の意味も含めてるってこと?」
「平たく言うと、そういうことだ」
「確かな情報だよね」
「団長からの話だからな」
「ふぅん、あの狸の」
聖騎士の鑑だと言わんばかりの態度と顔立ちのくせ、腹芸が得意とかいう聖騎士団長を侮蔑と敬意を一緒くたにして、ミツキは陰で彼を狸と呼んでいた。
「住民の親切に付け込んで色々とやらかしてるらしいんだ」
「まあ、そうだろうねぇ」
イリシア聖教会の信者は親切にするのが生きがいのような人種だ。ここへ来るまでの旅で路銀が尽きたとでも言えば、常識の範囲内でお金を渡すくらいはなんでもない。
「でも、よく賊だってわかったね」
生まれたときから首までどっぷり宗教に浸かっている信者や住民たちと違って、ミツキは不信心者で、コンラッドは改宗してから三年とまだ日が浅い。他人を疑う目はしっかりと開いていた。
「金を無心してるらしいんだよ、住民や巡礼者に。ひとりふたりならまだしも、けっこうな人数にな。んで、金を恵んだやつらは、たいてい大聖堂に泊めてもらえとか、教会で仕事を口利きしてもらえって勧めるだろ?」
イリシア教徒の中でも、ここに来るまでに人助けをするうちにオケラになるものが少数いる。あるいは、もともとの財産が少なくて、それでも巡礼したくて旅をするうちに使い果たしてしまうものも。
そういった清貧な信者たちを救済するため、大聖堂の中には寝台が複数並ぶ大部屋が存在した。
宿を取れるような信者は進んでその宿泊施設に泊まったりはしなかった。もしかしたら、自分がそこへ泊まることで、本当に必要な人が泊まれなくなるのではないか、という親切な心理も働いているのかもしれない。
そして、お金のない彼らが帰りの路銀に困らないよう、イリシア聖教会自ら短期の仕事を紹介したりもする。
「それで、金を恵んでやったやつがそのあとどうなったかって気にしてた信者が大聖堂に確認に来たんだよ。それが何人もいて、しかも全員が同じ人物の特徴を言うんだが、一度だってそいつが大聖堂の宿泊部屋に来たことがない」
「それで教会内だけで犯行がわかったってこと?」
「そういうこった。表立って信者に注意を促して、疑心を植え付けて善行の妨げにしたくねぇから、警邏を強化しろってのが団長の考え」
「ふぅん」
話を聞くかぎり犯人は小銭をせしめて喜んでいる小物のようだ。勇者がわざわざ出ていって大捕り物にする必要もない。
――でも、キナ臭く感じたわりにしょぼ過ぎる。
「……で、本当のところは?」
ミツキは挑むようにコンラッドを下からねめ上げた。
「それだけでコンちゃんが出てくるわけない。犯人の正体は何?」
イリシア聖教会聖騎士団副団長にして、救世の英雄。そのコンラッドがこんなしょぼい盗賊のために町の警邏に駆り出されている、なんて嘘の情報だけをつかまされて終われるものか。
「……言えん」
「ニコラスに釘を刺されたし?」
「ミツキ」
咎めるように名前を呼ばれるが、この歴戦の仲間はミツキが諦めないこともよく知っているはずだ。
「ねぇ、コンラッド。教えて」
重ねるように正しく彼の名前を呼ぶと、コンラッドは酷く困っているらしく垂れた尻尾をぎこちなく揺らした。
「今のは私みたいに聖騎士の警邏が増えたことに不安を覚えて、どうしても理由を知りたいって信者向けの嘘の情報でしょう?」
「いや……、けどな」
答えた声は低く、まだ迷っているように思えた。
――しょうがない。
前向きに垂れた狼耳。ミツキは思い切ってそこへと手を伸ばす。
「へっ、ちょっ、ミツキ」
「言わないとこうだから」
不意打ちでコンラッドの頭を掴んで下げさせると、そのまま耳の裏の付け根に指先を這わせた。
二足歩行といっても、獣人の本性は獣だ。少しだけ力を込めて押すようになれでれば、イヌ科ならたまらないだろう。
「ややや、やめ、やめろ、こういうのはベティにしか、うわ、あ、あ」
「そうだねぇ、ベティにしか許してないんだったねぇ」
「くっそ、は、はなせ」
抵抗で伸ばされた手がミツキの腕を掴むが、本人の意思に反してまったく力が入っていない。
「わかった、言うから。言うからやめてくれ」
振り払う必要もなく続けると、とうとうコンラッドが根を上げた。
――ちょろい。
顔を赤くしながら自分の耳後ろを感覚を消すように乱暴に掻くコンラッドを尻目に、ミツキは人の悪い笑みを浮かべた。
「その話、ベティは知ってる?」
「いや」
同じくイリシア聖教会に属する妻にすら知らせていない。ベティは聖教会の中でも上位治癒術師で、先代教皇の近衛まで務めた権限のある修道女だ。その彼女が知らされていないのなら。
「聖騎士団内で内密に処理したい案件でしょ」
コンラッドの耳がぴくりと動いた。どうやら正解らしい。
彼は苦虫を噛み潰したような顔のまま言葉を紡いだ。
「首を突っ込むなって言っても、お前は聞かねぇんだよな」
「あのねぇ、ここまで知っておいて引き下がるとかないから。それに、コンちゃんのその顔はけっこう切羽詰まってるときの顔だよ。きっと大物だ」
「そんな顔したか?」
「したよ、思いっきり。それより、早く話して」
「はぁ……、どう話したもんか。できれば言いたくねぇんだが」
「耳裏、もう一回やっとく?」
「勘弁してくれ」
了承してなお、どうしてそんなに渋るのか。言いたいことがあればすぐにでも顔なり口なり尻尾なりで雄弁に語ってしまうようなこの男が。
「ねぇ、本当は勇者案件じゃないの、それ」
ミツキは最後の一押しのつもりでそう言った。
そもそもニコラスだって、少なくともそう思えたからこそミツキと一緒にコンラッドを行かせたんだろう。なのに、他ならないコンラッドが渋ってどうする。
「……お前、いつまで勇者でいる気だ」
眉根を寄せて、本当に渋いとでも言うような顔でコンラッドが続けた。
「もうお前に勇者の力はねえ。危ないことに首を突っ込まなきゃいけない義務も、義理もねぇんだぞ」
「義務はもうないけど、義理ならあるんだよ」
彼から外した視線は無意識に右手の指輪に吸い寄せられた。薄く白い縞の入った赤瑪瑙。その中で小さな炎がくすぶっている。
「ドラ婆もそうだけど、ベティもシェリルもコンちゃんにも、恩があるんだから」
「その恩はもう返しただろ」
「魔王を倒して? 冗談言わないでよ。あれはまだ――」
「おい、馬鹿。堂々と声に出すな」
慌てて周囲を確認し直すコンラッドに軽く笑いながら、ミツキはゆるくかぶりを振る。
「馬鹿はそっち。心配してくれるのはうれしいけど、私に隠し通せると思った?」
勇者の力はないから、と勝手に庇護の対象にしないでほしい。それがなくても戦える。いったい、コンラッドと一緒に何年最前線に立っていたと思っているんだ。
「コンラッド」
「……っ」
わずかに怒気を孕む声で呼べば、彼は諦めたように眉尻を下げたあと、まるで主人に叱られたあとの犬のようにしおしおと頷いた。
「……無茶はしないと約束しろ」
「わかってる。それで、相手は何?」
どこかに潜伏していた魔族が聖都に侵入したのか。それとも、危険な魔物を持ち込んだ輩がいるのか。
最悪なのは、その両方が揃っている場合だ。大城壁がある分、聖都は外からの攻撃には強いが、内から崩すのは容易い。
入国者の持ち物検査はしているものの、それもミツキからしてみれば甘いと言わざるを得ないほど簡易だ。エックス線検査ができないのだから、せめて透視魔法でも開発してほしい。
「ヒース大公国の間者だ」
「えっと、人間?」
「ああ。魔物や魔族は関係ない」
「思ってたのと違う……」
勇者案件か訊いたときにコンラッドは否定しなかったから、てっきりそっちだと思っていたのに。彼の張りつめた雰囲気はいったい何だったのか。
あからさまにがっかりして、ミツキはやる気の消え去った目でコンラッドを見上げる。
「えー……、間者が聖都に何の用? 知られて困るようなもんなんてほとんどないでしょ」
イリシア共和国は宗教の総本山で、しかも永世中立国を宣言する国だ。信者と観光客に広く国を開いて、しかも貿易や商売は基本的に民間にまかせっきり。
聖地だからこそ争ってでも自国の領土に組み込む旨味はあるだろう。しかし、イリシア聖教会を国教にする他の諸外国がそれを黙って見ているわけがない。
その上、イリシア聖教会の聖騎士団は大陸屈指の強さを誇る。聖騎士団と諸外国を同時に相手取るのは、どんなに愚かな指導者でも自国を滅亡させてしまうとわかるだろう。
落胆を隠さないままジト目でコンラッドを見上げたけれど、彼は表情ひとつ崩さなかった。
「間者の目的はうちじゃない。隣だ」
「マールベイン?」
イリシア共和国を挟んで西にマールベイン王国、東にヒース大公国が並ぶ。二国は互いに国境は接していないものの、イリシア共和国を訪れようとする人々は必ずどちらかの国を通って来なければならないという共通点がある。
「マールベインに潜入してたヒースの間者が、聖都に紛れ込んでる」
「国家間のいざこざは専門外なんだけど」
魔物か魔族相手に切った張ったの大立ち回りを密かに期待していたのに、とは口にしないまでも、ミツキは拗ねたように口先を尖らせた。
「お前が聞き出そうとしたんだぞ。ベティや俺への恩の話はどこ行った」
「いや……、まあ、うん……」
「ったく。最後まで聞けよ」
白々と目を逸らすミツキに呆れつつもコンラッドは再び言葉を紡いだ。
「マールベインで諜報活動の末に見つかった間者は、捕まる前にさる領主の屋敷の一角を爆破して逃げて、ついでに途中の村を目くらましに焼いてったんだ」
「うわ、スパイって言うよりテロリストじゃん、それ」
「すぱ……? なんだって?」
「ああ、もう。スパイもテロリストも、コンちゃんが今言ったような危険なやつのことだから」
日本語は通じるくせに、日常会話に乗る程度の英単語を言った途端にこれだ。真剣な話をしていたのに、うっかりそれを口にしてしまうとほとんどの相手はびっくりしてたどたどしく単語を繰り返すものだから、どうしても話の腰が折れてしまう。
言語を翻訳してくれる魔法をかけてもらっているのはいいが、こういう不具合はどうにかしてほしかった。
「とりあえず、相当な危険人物ってことはわかった。あの狸がその間者の情報をマールベインから内密にもらうか、調べるかで手に入れたってわけね」
「簡単に言うとな」
「それで、さっさと犯人を捕まえるなり追い出すなりしたくて、わざわざコンちゃんを出したってことであってる?」
「いや、違う」
「違う?」
「殺せ、だとさ」
「……は?」
あまりにも不穏な言葉にミズキはあんぐりと口を開けて、逸らしていた目をコンラッドに向け直した。
「殺せって、聖都で? またどうしてそんな」
「それだけ間者がマールベインから重要な情報を抜いたってことだろ」
「いやいやいや、それにしたっておかしいでしょ。こっちで捕まえたとしても、マールベインに身柄を渡すのが筋じゃない?」
「それは俺も疑問に思った。だけど、団長はそれ以上は聞くなって言うもんだから」
「なんでそこで素直に引き下がっちゃうかな? 肝心な時にお行儀の良い犬みたいに」
「はぁ!? 俺は犬じゃねぇ!」
「ちょっ、馬鹿。声大きい」
コンラッドが唐突に張り上げた声が裏路地にこだまする。これではいつ人が裏玄関から顔を出してもおかしくない。
ミツキとコンラッドは一瞬顔を見合わせたあと、その裏路地を早足で逃げた。
「……ねぇ、それ、ベティにだけでも言いなよ」
裏路地の角をいくつか曲がった後で、路地に人がいないのを見てからミツキは口を開いた。歩きながらに言うので、声は靴音に紛れて空に消えていく。
「それだけでも、いざとなったときの対応が違うから」
聖騎士でこそないが、彼女ほどの治癒術や戦闘力があれば必ず守れるもがある。コンラッドもそれはわかっていて、小さく頷いてみせた。
長いこと警邏で町中を練り歩いて、もう陽が傾き始めていた。徐々に涼しくなってきた気温に、ミツキは上着の前を掻き合わせながら夕飯時のにおいをさせる表通りを見やる。
「探すだけなら、私も手伝う」
いざ犯人を目の前にしたとしても殺せない。けれど、取り押さえるくらいなら簡単だ。
「間者は紫の髪と目をした男で、背はマオより少し高いくらいだ。……絶対無茶はするなよ」
「私を誰だと思ってるの?」
そう言い放って、ミツキはコンラッドに右の手のひらを見せた。
「タマ」
彼女が何かを呼ぶと、手の中に、ぼう、と炎を纏った猫が突然現れて宙に浮かんだ。ぱちぱちと爆ぜる毛並みの猫は、にゃあ、とひと鳴きしてミツキと、次いでコンラッドに金色の瞳を向ける。
「うわっ」
猫の金色のガラス玉のような双眸がコンラッドに向けられた瞬間、彼は軽く悲鳴を上げながら出し抜けに後ろに飛びのいた。
「あれ? タマ嫌いだったっけ?」
「そうじゃない! それをここで出すなバカ!」
タマと呼ばれた炎の猫は、そんなコンラッドを尻目に、呑気に後ろ足で首を掻いている。掻いたあたりから火の粉が散るが、それもミツキはお構いなしだ。
「あははは。ね? タマで丸焼きにしないように気を付けないといけないくらいでしょ」
「……、……やっぱ言うんじゃなかった」
それを最後に、ミツキは諦めの浮かぶ顔のコンラッドと別れた。
――さて、どうしたもんか。
帰る道すがら、その男のことを思う。
たとえ聖騎士団長がマールベイン王国と通じていたとしても、聖都にいるうちに内々に殺せとはずいぶんと穏やかじゃない。それに、罪を犯したものを処刑するのに他国に手を汚させるなんて、不用意に借りを作るのと同じだ。
――あるいは、団長がマールベインに借りがあるのか。
いずれにしても、キナ臭いことに変りはなく。
水面下で起こり始めた何かに頭を巡らせているうちに、いつの間にか家の前に着いていた。通りに面した窓から明かりが漏れ、ほんのりとクリームシチューのにおいが漂っている。
――あれ。
そこでふと気づく。ミツキの家の炉に火を入れるための道具はなく、代わりに火の魔法を使わなければならない。
マオには魔法を使うなと言ったはずだが。
――言いつけを守らなかった?
命令すればどんな無茶もきっちりこなすのに、こんな簡単な言いつけを守らないことがあっただろうか。
首を傾げながら玄関を開くと、中から温かい空気と共にシチューのおいしそうなにおいが鼻先に届いた。
入ってすぐ目の前が階段で、右手には仕切りもなく居間と台所が見える小さな家だ。首を向けるだけで誰が台所に立っているかわかる。
「え……、だれ……」
台所に、マオとは違う髪色の男の背中がある。
思わず声をもらすと、途端にその男が振り向いた。
「あっ、勇者様ですね。おかえりなさい!」
人懐っこそうな笑みで言われて、ミツキは余計に混乱した。こっちはこんな少年の記憶は欠片もない。
しかも、髪も瞳の色も紫だ。背もマオより若干高いだろう。ついさっきコンラッドに言われた間者の特徴と一致する。
――いや、そんなまさか。
現実逃避で少年から視線を逸らしてからもう一度彼を見たが、髪や瞳の色は変わらない。存在も幻ではない。
「あの、どちら様?」
まさか渦中の間者では、と疑いながらも少年と目を合わせると、無駄にきらきらとした光を放つ双眸に眩暈がしそうになった。
こういう目をミツキはよく知っている。“憧れの勇者様”を目の前にした人間の目だ。こちらに召喚されてから浴びるほど見てきた。
「お留守の間にお邪魔してしまってすみません。僕はライナスと申します。エスファラン自治領から来ました」
「エスファランって、またずいぶん遠くから」
エスファラン自治領はイリシア共和国からかなり東に進んだところにある自然豊かな土地で、北にはウッドエルフが治めるキエフウッド大森林があった。
ほとんど鎖国状態のウッドエルフたちと唯一貿易協定が結ばれているのがエスファラン自治領だ。ミツキの煙草はそこから来ている。エスファラン自治領と言えば、その自然よりも先に「ああ、ウッドエルフの」と言われほどそちらが有名だった。
「それで、私に何か用かな?」
「……やっぱり憶えていらっしゃらないですよね」
尋ねた瞬間、寂しそうに少年の眉尻が下がる。
「あ……、ごめんね」
魔王討伐までの旅の間、多くの人と出会った。顔を覚えているものもいるが、大半が戦いの記憶に埋もれてしまっている。
「いえ、いいんです」
しょげたままの彼に対していつの間にか同情がわき上がって来る。どうにかして思い出せないかと彼の顔をじっくりと見てみるけれど、鼻筋の通った優男風の顔は覚えがなく。
――いや、待って。
エスファラン自治領を訪れたのは確か四年前で、それならそのころの彼は十四、五歳だろう。
幼さの残らない彼の顔を、頭の中で無理矢理丸みを帯びさせて想像してみる。たぶん、そのころはもうちょっと子どもっぽい可愛らしさがあったんじゃないだろうか。
「ライナス……、もしかして、ヘイズミールの里の子?」
「そうです! あなたが守ってくださった里のものです」
かすかにだが、こういうかわいらしい顔つきの男の子がいたのを思い出した。どうにかして里を戦場にせず守ってくれないか、と懇願してきた里人の中に混じっていたような気がする。
そういうことなら、きっと彼はコンラッドたちが探している間者じゃないのだろう。そもそも、コンラッドに話を聞いたそのすぐあとに渦中の張本人に会うなんて、あまりにも話が出来すぎている。
――探偵小説でたまに見かける、あからさまな誘導だ。
まさか現実にそれが起こるなんてありえない。
「えっと、それで、どうしてあなたがうちの台所で料理してるのかな? というか、私の弟子がいたと思うんだけど」
見渡す限り、その弟子の姿はなくて。
「兄弟子様はお部屋にいらっしゃいます」
「兄弟子?」
兄弟子。その意味はよく知っているが、それがどうしてライナスの口から出てくるのか。
嫌な予感に視線が勝手に階段へと滑った。二階は、ミツキとマオの部屋がある。
「マオ!」
叫んで呼びつけると、一分と経たずに上で戸が荒々しく開けられる音がした。そうして、階段の上にマオの顔が現れる。
「遅かったじゃねぇか、ミツキ」
「何が、遅かった、よ。どういうことか説明しなさい」
怒気を込めて言えば、マオの頭がびくりと跳ねた。そのまま引っ込んでしまうかと思うほど萎縮したようで、けれど、反抗の精神は忘れなかったらしい。次の瞬間には、マオはにやりと口角を上げて言った。
「勇者の弟子にしてくれって言うから、そいつ、今日から俺の弟弟子な」