第二節 イリシアの聖騎士
マオの早退と残った賄いを射に収めて、ミツキはハンスの酒場「露草亭」を後にした。人通りの多い繁華街から離れ、夕食の材料を求めて市場を目指して歩き出す。
ミツキの自宅や露草亭のある白銅区の市場は大城壁の西門にほど近い場所に開かれていた。西門の外の農地から取れた食材が主な商品で、露天に肉や野菜が所狭しと積み上げられている。
市場に着くや否や顔馴染みの露天商たちが親し気に声をかけてくる中で、ふと彼女は市場の端にいる一団を見つけた。
銀鼠色の甲冑に身を包む聖騎士。その中のひとり、兜を被らない騎士が部下たちに指示を飛ばしている。
――なんか、キナ臭い。
武装した騎士が町を警邏して回る姿は珍しくはない。ただ、それを率いているヒトが問題だった。
「くーまちゃん」
指示が終わったらしく、部下の内ふたりを残した全員がその場をあとにしてから、ミツキは兜のない聖騎士に声をかけた。
「熊じゃねぇ! 狼だ!」
不意を突くように背中から声をかけたというのに、聖騎士は驚いた様子もなく返した。
振り返った顔は馴染みのある精悍な顔つきで。短く刈り上げた紺青の髪の両端についた犬耳が、ピンと立ったままミツキに向けられている。
「何回言ったらわかるんだ、お前は!」
「いやだって、ベアって言ったら熊じゃん」
「知らねぇよ、異世界の言葉なんざ」
犬耳の聖騎士の名前を、ベァ・コンラッドという。人の体に犬耳と、尻の上に髪と同じ紺青の尻尾を生やした獣人。その中でも彼は“誇り高き狼族”と自称する一族のひとりだ。
「もうコンちゃんに会った時の鉄板だから。挨拶みたいなものだから」
初めて名前を聞いた時からのお約束。何度目になるかわからない応酬の繰り返しで、最早本物の挨拶よりも数をこなしてきた自覚がある。
「勇者様、お久しぶりでございます」
唐突に始まったふたりのやり取りに真面目そうな声が差し込まれた。
「ああ、えーっと、オー……ギュ、スト、だっけ」
コンラッドのふたりいる傍仕えのうち、真面目腐った顔と声の方が確かそんな名前だった気がする。
彼の部下自体と個人的に会うことも直接話す機会もないし、そもそも顔がすっかり隠れる兜をしているので間違っていても勘弁してもらいたい。
「左様でございます」
「じゃあ、そっちがニコラス?」
「はい。ご記憶に預かりまして恐悦至極にございます」
言いながら、オーギュストとニコラスは鎧を鳴らしながら右手で作った拳を左胸に当てた。それは騎士の敬礼と言われるもので、主だっては目上の者や敬愛する相手に行われる礼節作法だ。
「やめてよ。どうせふたりとも私の兄弟子になるんでしょ」
年上の男性ふたりからそうされるのは、居心地が悪かった。
それも端っことは言え、人の賑わう市場の中だ。ミツキの背中に野次馬じみた視線が向けられているのが嫌でもわかる。
「いえ。私どもはドラ婆様の訓練こそ受けましたが、直々に弟子にしていただいたわけではありませんから」
「弟子というより、数多いる生徒のひとりと言うほうが正しいでしょうな」
「それでも私の先輩じゃん」
「だとしても、勇者様でございますから」
「あなた様は暗澹たる時代を終わらせた英雄ですので、私どもが敬礼するのは当たり前です」
「暗澹たる、ねぇ……」
魔王がいた時期を彼らはそんな大仰な言葉で表す。命を賭した戦争だったのだから、間違ってはいない。けれど、最前線に立ち続けたミツキにとってその言葉は違和感を拭えなかった。
暗澹たる、目の前が見えないくらい真っ暗な時代。果たして真実はどうだっただろうか。
思い返すだけでミツキは心の中で苦虫を噛みつつ、やんわりと被りを振った。
「それでも多少は砕けてもらったほうが話し安いんだけど」
「我らをお救いになられた勇者様を軽く扱うことなどできません。どうかご了承ください」
「……そう」
格式ばった融通の利かない相手だ。前回会ったときも、こんなやり取りをしたような気がする。いくら訂正を促したって埒があかない。きっともう修正はきかないだろう。
ミツキは胸の内で溜息を吐いた。聖騎士はこういう連中のほうが多い。もちろん、そうでない騎士もいるけれど、大半は堅苦しくて付き合いづらい。
こういう手合いの中でよくやっていけるな、とコンラッドを見上げたが、よくよく考えるとこの男はなかなか遠慮のない性格だった。狼のくせに、人好きそうな笑みを浮かべてはずけずけと人の縄張りに入って来て、何食わぬ顔で馬鹿話なんかしたりする。彼に限っては“誇り高き狼族”ではなく、“人間大好きワンちゃん族”に改名すべきだとミツキは思う。
「それより、コンちゃんがこんな昼間から町に出っ張って来るなんて珍しいね」
聖騎士ふたりは諦めることにして、ミツキは改めてコンラッドに向き直った。
「ん、ああ、まぁな」
歯切れの悪い物言いに思わず彼の尻尾を見ると、紺青の毛並みが申し訳なさそうにだらりと垂れ下がっていた。
――こっちも相変わらずわかりやすい。
普通、狼族や有尾の獣人たちは尻尾に感情が乗らないように訓練している。ところが、コンラッドはそれがどうしようもなく苦手で、尻尾の制御ができないまま大人になった。
――だから、聖騎士団の団長にはなれなかったんだけど。
そういう話も来ていたのに、尻尾のお陰でフイになった過去を思い出して、ミツキの口角が自然と上がった。
「ねぇ、ベティとシェリルは元気?」
ベティはコンラッドの妻で、シェリルはふたりの娘だ。ベティに至ってはミツキともそうとう長く深い付き合いで、毎日のように彼女らと顔を合わせている。――ので、この言葉は単に彼の妻子の様子伺いではない。
「あー……、まあ、元気すぎるくらいだよ。ベティもシェリルも」
そして、だいたいこういう話の振り方をしたときの意図はコンラッドもわかっていた。彼は一瞬、仕事とミツキの間を逡巡して、けれど秤はミツキへと傾いたようだ。
「そっかー。うちのマオがまたシェリルと遊びたいって言ってきかないんだよね」
嘘だけど。
「ははぁ、じゃあ今度シェリル連れて遊びに行くか」
マオは子ども好きな性格じゃないことは、コンラッドもわかっている。わかっていてそんなことを言われるのは父親として苦い笑みを浮かべるしかないが、なんとか普通に笑っているように見せた。
「わぁ、楽しみ。じゃあ、クッキーでも焼いて待ってるね」
菓子なんて作ったことないだろ、と見透かしたような視線がコンラッドから飛んでくるがミツキは気にしない。
「副団長殿」
とりとめのない世間話の応酬に、再び痺れを切らしたオーギュストから諌めるような声が差し込まれた。
「すみません。そろそろ仕事に戻っていただきたいのですが」
「ああ、すまん、つい」
「勇者様も申し訳ありません」
本当に申し訳なく思っているのか。兜の下の表情は読めない。
「仕事って、警邏でしょ。ならわたしがコンちゃんと組んでやるからさ、ちょっと借りてってもいいかな? ねぇ、コンちゃん?」
「おお。いいぜ」
聖騎士の代わりに元勇者が警邏に加わるのだ。語尾を上げて許可を取る体を取ったが、実際はそんな気などさらさらない。
文句あるか、と視線にのせてオーギュストとニコラスを見上げる。
「ですが、勇者様は丸腰ではないですか」
「この子がいるから」
言いながら、ミツキは右手中指の指輪を見せた。応えるように赤瑪瑙が陽を受けてわずかに光る。
「……ええ、結構でございます」
「ニコラス!」
オーギュストが咎めるようにニコラスを呼んだが、彼はゆるりとかぶりを振った。
「私たちが物々しく鎧を鳴らして警邏するより、勇者様がにこやかに往来を歩いてくださるほうが、よっぽど人々の心が安まるとは思いませんか、オーギュスト?」
「だが」
「ただの警邏です。そうでしょう? 副団長殿」
柔らかな声音のまま、ニコラスはコンラッドにあからさまな釘を刺したのだが。
「えっ? ……あ、ああ、そうだったな。いつもの警邏だ」
不穏な返事に、ニコラスも兜の下で苦く笑っているだろう。コンラッドはこういう男なのだと、彼もそろそろわかっているはずだ。このあと、彼らが腹に抱えた何かをミツキにしゃべってしまうことも。
ニコラスがそれを断固として阻止しないのは、民衆に知れるのは困るが、勇者であるミツキなら問題ないということだ。下手をすれば、聖騎士でもないミツキを引っ張り込んで仕事をさせようという魂胆すら持っているのかもしれない。
使えるのなら、たとえ勇者だろうと利用する。ニコラスと真面目一辺倒なオーギュストの違いはそこだった。
「それじゃあ、遠慮なく。……さすがにコンちゃんでも巡回経路は覚えてるよね」
「当たり前だ。そこまで馬鹿じゃない」
ちょっとでも馬鹿だと自覚があるのが、この男の憎めないところだ。口にはしてやらないが、彼のそういうところが少しうらやましい。
「おまえたちは白銅区と紺碧区の境界東側を頼む。俺たちは西側を回るから」
白銅区の左隣は巡礼者と観光客でにぎわう紺碧区だ。そこが聖都でもっとも人の出入りが激しい。時折道に迷った巡礼者が間違えて住宅地である白銅区に入り込むこともあった。
「かしこまりました。それでは、副団長殿も勇者様もお気をつけて」
市場でニコラスたちと別れ、ミツキは白銅区内をコンラッドと並んで歩き始めた。
イリシア聖教会の信者の中にも獣人は少なくない数がいる。事実、聖都の住民の四割は獣人であり、獣の耳や尻尾を生やす住民は道を行けば必ず見かける。けれど、自ら“誇り高い”と称する狼族はコンラッドの他にいなかった。
珍しいと言えば珍しいが、実際、狼族は犬族と外見上の特徴は変わらない。そこに輪をかけるように、コンラッドは気安かった。“誇り高い”だとか、“孤高”とかいう狼のイメージは、彼の母親の腹の中に置き忘れてきたと言ってもいい。
紛うことなく“人間が大好きワンちゃん”のコンラッドの傍から堅苦しい雰囲気の騎士がいなくなった途端、大人子ども関係なく声をかけられ、老婆たちが我先にと彼のポケットなり口なりに菓子をねじ込んでいく。
「コンちゃんは大人気だ」
「おまえも俺のこと言えんだろ」
焼き菓子を飲み下しながらコンラッドは、ミツキの買い物袋の中身が市場を出たときよりも膨れ上がっているのをジト目で指した。
ミツキひとりではここまでにはならない。道端で人に捕まっても、せいぜい二、三言で解放される程度だ。
「この三年間、コンちゃんが頑張ったからだよ」
コンラッドはミツキの長い旅に同行した戦士だった。
三年前、ミツキが魔王討伐の旅を終えて聖都に住み着いた折に、彼はその功績で以ってイリシア聖騎士団副団長の役職を与えられたのだ。
救世の英雄。そのひとりにもかかわらず、彼はどこまでも気さくで、ヒトに好かれる。ねじ込まれた菓子の数や、次々に話しかけてくる人々がその証拠だ。
「いや、でもなぁ……」
照れ笑いを浮かべつつも、彼は困ったように眉尻を下げた。尻尾は嬉しそうに揺れている。
ニコラスたちと別れる前からこうなることはわかっていたが、これではわざわざ彼らと別れた意味がない。そろそろ裏路地へ入るなりして、周りから人を遠ざけたい。それを目で合図して、ふたりは賑やかな往来から細い路地へ入った。
ミツキとコンラッドがふたり並んで歩けるほどの路地で、両側はどちらとも住宅の裏口に面している。ちょうど陽の差し込まない時間で、表とはうってかわって寂しい。所々に置かれた鉢植えの花が辛うじて目の賑わしになるくらいだ。
「コンちゃんがわざわざ警邏に回るほど、聖騎士の離職者でも増えたの?」
道の半ばで止まって、人が潜んでいないか確認したあとでミツキは茶化すように口を開いた。
「んなわけねぇよ。聖騎士団はいつの時代も人気の職業だろ。それも聖都勤務の聖騎士ならやめる道理がない」
「じゃあ、なんで?」
「そりゃあ、おまえ」
わかってるだろう、と言外に含ませてコンラッドはあたりをもう一度見回した。
「前に副団長サマが警邏に駆り出されたのは、確か一昨々年の魔王軍残党狩りでお留守番喰らったときくらいだっけ」
一昨々年に行われた大規模な残党狩りに聖騎士たちも駆り出された件だ。残党と言っても、制御を失った魔物が標的で、そこに魔族はいなかったらしいが。
けれど、それに張り切って先陣を切ったのは聖騎士団団長で、当時から副団長だったコンラッドが代わりに聖都の守りを任されたのだ。討伐に聖騎士団の半数以上を割いたために、コンラッドまで警邏に回らざるを得なかったというオチまでつけて。
それ以降、騎士の中でも末席の仕事である警邏にコンラッドが駆り出された例はない。
「そこまで大事じゃねぇよ」
言って、彼は声を潜めた。
「町の中に賊がいるらしい」
三月十八日修正(冒頭の都市の説明を省きました)