虹も出やしないのに
今日は午後から雨が降った。
傘を忘れた私は、通りかかった喫茶店で雨宿りをしていた。
どうやらしばらく雨が止む様子はない。
「お兄さんも雨に降られちゃった人ですか?」
隣に座っていた女性が声をかけてきた。明るく快活そうな女性だ。正直に言って得意なタイプではない。
「ええ、傘を持っていなくて。天気予報は曇りだったと思うのですが」
私がそう言うと女性は人懐こそうに笑った。
「私もです。天気予報は絶対曇りでした。天気予報士さんは嘘つきですね」
全くです、そう言って私も笑う。
「お客様、ホットココアです」
店員が私に注文していたホットココアをカウンター越しに差し出した。
「ココアなんですか?意外です。ブラックコーヒーとか飲んでそうなのに」
そう言って女性がまた笑う。意地の悪い笑いではない。
「そういう貴方は何を飲むのですか?」
私が聞くと彼女は恥ずかしそうに、
「……ええっと、私は」
と頬をかいた。
なぜ言葉を濁すのかと疑問に思っていると、我々の話を聞いていたのか店員が少しにやけた顔で女性が注文していた品を我々の前に置いた。
「……パフェ」
「……はい」
そう言って彼女はまた頬をかいた。
どうやら私のココアを笑った手前、パフェというのが子供っぽく、恥ずかしかったらしい。
私達はお互いに顔を見合わせて笑った。
そうしてしばらく話をした。先程得意なタイプではない、といったことを取り消そう。
女性、木原というそうだが、木原さんは明るさと聡明さを併せ持つ女性だった。
私の大して面白くもないだろう家で育てている花の話を熱心に聞いてくれた。
私は話すのが得意なタイプではないが、それでも熱心に話を聞いてくれるというのは嬉しいものだ。
私が二杯目のココアを飲み終える頃、雨が上がった。
「虹が出るかなーって期待してたんですけどね」
店から出ると木原さんはそう言ってがっかり、とでも言うように溜息を吐いた。
「そう毎回出るものでもありませんからね」
私がそういうと木原さんはむくれて、
「期待してないと虹は見れませんよ」
と笑った。本当に、よく笑う人だ。
「私、職場この近くなんです。良かったらまた話しませんか?」
木原さんはそう言って私の方を見た。木原さんに対して親しみの情を持っていた私にとって、願っても無い提案だった。
「それは嬉しいです。恥ずかしながら、私にはあまり友人と呼べる人がいないもので」
私がそういうと、彼女は少し驚いて、そしてまた笑った。
「それなら、私が一番仲のいい友達、ですね。えっとそれじゃあまた、雨の日に、どうですか?」
「そうですね、雨の日に」
私達はそう言って笑いあった。
嫌いだった雨が、少し好きになれそうだ。
それから私達は雨が降ると決まって喫茶店に集まり、仕事終わりの一、二時間、私達は語り合った。
そこで話すのは本当に他愛も無い事ばかりだった。
私の花の話。彼女の料理の話。同僚の話。昔話。
「私しか友達がいないのは寂しいから」と他の友達を連れてくる事もあった。
楽しかった。こんなにも人と話す事が、人と関わる事が楽しいとは、思いもしなかった。
私は雨の日が、好きになっていた。
もはや何度目か数えるのもやめたある雨の日、私達はいつもの様に喫茶店で話していた。
「そういえば、花って水あげ過ぎたら枯れちゃうんですよね?雨の日って大丈夫なんですか?」
彼女は少し前から挑戦し始めたブラックコーヒーを飲みながら私に尋ねた。毒でも飲むかの様に渋い顔をしている。
「大丈夫ですよ、私の場合バルコニーで育ててますから。屋根があります」
私がそう言うと、彼女はそうなんだー、と言って再びコーヒーを啜った。
「そもそも、地面に植えてあればそんな心配は要らないんです。水は地中の広い範囲に染み渡りますから」
彼女は私の言葉を聞いて不思議そうな顔をしている。納得がいっていないのだろう。
「……そうですね、木原さんはどうして水をあげすぎると花がダメになるのだと思いますか?」
そう言うと彼女は嬉しそうな顔で言った。
「それくらい知ってますよ!腐っちゃうんでしょう?根腐れって言いますからね!」
「残念、ハズレです。正解は、溺れてしまうから、です」
私の言葉に彼女はまたも得心いかない様子だった。
「私をからかってませんか?なんで植物が溺れるんですか?」
彼女はそう言って食いかかってくる。
「木原さんは植物が呼吸している、という事をご存知ですか?」
「流石にそれくらいは。葉っぱで呼吸してるんですよね。中学の時に習いましたよ」
そう言う木原さんは得意げだ。本当に可愛らしい女性だ。
「そうです。でも、それだけじゃなくて植物は根でも呼吸しているんですよ。それで植木鉢やプランターで育てている植物に水をあげ過ぎてしまうと、呼吸が出来なくなってダメになってしまうんです」
「あぁー、なるほどです。水の中で息が出来ないから"溺れる"なんですね。やっと納得がいきました」
木原さんはそう言って何度も頷いている。
ふと時計に目をやるともう20時を回っていた。
「そろそろ、帰りましょうか」
私が会計を済ませようと立ち上がると彼女は何かを言いたげに口をもごもごさせた。
やがて何か決心した様に深呼吸すると彼女は、
「傘を忘れてしまったので、駅まで送って頂けませんか」
と顔を赤くして言った。
今日は朝からかなり強く雨が降っていた。
忘れた、というのが嘘だとばれるのは彼女も分かっているだろう。
私は嬉しくてやけてしまいそうな気持ちを必死に抑えて言った。
「ええ、お安い御用です」
雨は、喫茶店に入る前より一層強くなっていた。
木原さんは、入れてもらう身だから、と傘を持ちたがったが、私は譲らなかった。身長は私の方が高いし、何よりこういう時に男が傘を持たない、というのは何か違うだろう。
「……男の人の傘って大きいんですね」
彼女が何故かつまらなさそうに言った。
二人入ってもまだ少し余裕がある。私は極力雨に濡れたくない人間である為、かなり大きめの傘を買っている。
少し小さめの傘を買っておけばよかったと、私も少し後悔した。
しばらく歩くと彼女が少し体を寄せてきた。
驚いて彼女の方を見ると、
「雨が跳ね返ってきて、冷たい……ので」
そう言って顔を逸らした。
あぁ、好きだ。
私は、雨が好きだ。
いや、違うだろう。私は彼女が好きだ。木原さんが、好きだ。
駅になど着かなければ良いのに。
私はそう心から願った。
結局駅には着いてしまった。当たり前だ、そこを目的地として歩いていたのだから。
「ありがとうございました。もう、忘れないようにしますね」
彼女は頬をかきながらそう言った。
「いえ、構いませんよ。それでは、気を付けて」
私はそう言って彼女を見送ろうとした。
だが、私の中の抑えきれない気持ちが私に、改札を通ろうとする彼女を呼び止めさせた。
「木原さんっ!」
初めて聞く私の大声に彼女は少し驚いてこちらを振り向いた。
緊張で心臓が張り裂けそうだ。だが、言わなくては。
「つ、次はっ!次は私が傘を忘れますので……その時は……その時は…………」
「……その時は、私が入れてあげますね!」
彼女は明るく快活そうに笑った。私は、その笑顔に初めから惹かれていたのだ。
次に雨が降った日、私は意気揚々と喫茶店に向かった。今日は濡れる訳にはいかないので傘は忘れなかった。
プレゼントがあるのだ。
新品の傘。彼女は飾り気の無いものが好きなようだったのであまり華美でないもの、それでいて女性らしいものを選んだ。大きさはもちろん二人で何とか入れる位のものだ。
喫茶店に入っても店内にはまだ彼女の姿はなかった。
プレゼントを人に贈ることなど久しぶりだった私はドキドキしながら彼女を待った。
だがその日以来、彼女が喫茶店に来ることは無かった。
私は嫌われてしまったのだろうか。そう考えつつも雨が降るたび私は喫茶店に向かっていた。
彼女が喫茶店に来なくなってから三ヶ月ほどたったある雨の日、私が喫茶店に行くと、いつだったか木原さんが連れてきていた彼女の友人が来ていた。
私はその友人から、彼女が死んだ事を伝えられた。
三ヶ月程前の激しい雨の日の夜、雨で濡れたホームで足を滑らせ線路に落ちた人を助けようとして、自分が電車に轢かれたらしい。
はじめは理解出来なかった。
脳が、理解する事を拒んでいた。
彼女の友人が店を出て行った後も、私は席から立ち上がる事が出来なかった。
恐ろしく喉が渇いている事に気付き、注文していたココアを啜った。……冷めきっている。
ひどい味だ。最早飲めたものではない。
……もう、私がココアを飲む事をからかう女性はいないのだ。
そう考えるともう、この喫茶店に来る理由がわからなくなってしまった。
私は喫茶店に通うのを止めた。
私は雨の日に出かけるのを止めた。
私はその日から花に水をやるのを止めた。
殺してしまう気がしたのだ。プランターに水をやると、溺れてしまう気がしたのだ。
当たり前だが、花は枯れた。何年も育て続けた花は、一輪残らず枯れた。
私も枯れてしまったのだろうか、涙も出ない。
私が殺したのだ、この花は。
私が殺したのだ、あの女性は。
私と出逢わなければ、あの日が雨の日でなければ、私が好意など持たなければ、彼女は死ななかったかもしれない。
酷く喉が渇いていたが、水を飲む気にはならなかった。渇きを誤魔化すため、私は目を瞑った。
眼が覚めると朝になっていた。外からは雨の音が聞こえる。
私を責める様な雨の音に混ざって携帯が震える音がした。会社からだろう。もう何度目の無断欠勤かわからない。クビになる日も近い。
私は電話の電源を切ると再び眠りについた。
もう、どうでもいい。全てが、どうでもいい。
何かが落ちる様な音で眼が覚めた。玄関からだ。
玄関へ向かうと、傘が倒れていた。彼女に贈るはずだった傘だ。
シンプルな白地の隅に小さく四つ葉のクローバーが描かれている。
我ながら、つまらない傘を買ったものだ。
傘を拾い上げ、傘立てに立てる。
出来ることならあまり、見たくないものだ。
だが、捨てられなかった。
ふとドアを見ると鍵を閉め忘れてることに気付いた。
閉めようと鍵に手を伸ばし、止めた。
雨の音がしないのだ。止んでいるのかもしれない。止んでいるのなら、仕事に行かないと。
ドアノブに手をやり、ドアを開く。
気づけば、私は涙を流していた。
雨は止んでいた。
濡れた道は陽の光を浴びてキラキラと輝き、木々は恵みの雨を受け、生き生きと葉を伸ばしている。
そして空には大きな虹が架かっていた。
彼女といたときにはついに見ることはなかった虹。
いつも期待してはがっかりしていた。
「いつか一緒に見ましょうね」
そう言って彼女は笑っていたのだ。
彼女が、見せてくれたのだろうか。
どうでもいいなんて言わないで、と。
……いや、妄想だ。そんなことは分かっている。
現実はそんなに都合よくは出来ていない。
それでも、その妄想に私はすがって生きていこう。
これからは雨上がりの虹を期待して生きていくよ。
だが少し待ってくれ。雨が止めば頑張るから。
まだ雨が止まないんだ。私から降る雨が。
少しも止みそうにないんだ。
虹も出やしないのに。