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月千代VS狗神

男とぶつかった華菜は、その場に倒れ込んだ。


男は、逃げて行く幼子を忌々しげに眺めていたが、倒れている華菜を助け起こした。


「あっ!?」


二人は、同時に声をあげた。男は、あの時、傘を差し出した男だったからである。



華菜は、女中のマサエに経緯を話し、家にあげ、傘の礼を述べることにした。



そこへ、リンと母親が用事から帰ってきた。


「あら、人のいない留守に嫁入り前の娘が男なぞ家にあげて…。それも自分の家ならまだしも、他人の家に断りもなしに…。あら?」


リンの母親は、嫌みたっぷりに華菜に皮肉を言ったあと、男の姿を見て、驚いた。


華菜の見合い相手、張本人だったからである。華菜の見合い相手。外務省の役人の三男、大森慎之助であった。


慎之助は、三男という続柄、家のしきたりに縛られず、破天荒な振舞いがあった。


親も手を焼き、身でも固めれば、マシになるだろうと考えていた。それに政商として名高い岩舟とパイプをもてば、大森家の政府での立場も強くなる。


当の慎之助には、全く今の今までその気はなかった。しかし、この家が岩舟とわかった今となっては、見合いを断るわけにはいかない。


まして、相手が朱雀より監視を仰せ付けられた娘とあれば尚更だった。


慎之助は、狗神が人に成り済ましたものだった。

見合いの前倒しのようになってしまった二人の出合い。とりあえず、傘の礼と自己紹介、社交辞令の挨拶に留め、その日は、終いにした。


その晩の夕食。リンの母親から仔細を聞いた弥次郎がご満悦の表情を浮かべていた。


「知り合いだったそうだな、華菜。まあ、これが運命の赤い糸というやつかも知れん。とにかく話がまとまってよかった、ははは」


弥次郎の高笑いが豪快に響く。華菜は、茶碗を持ったまま神妙な面持ちで考え事をしていた。


世の中は、確かに便利になった。自由もそれなりに広がった。女とて、気ままにこの国中はおろか外国にだって行くことができる。


しかし、小骨が喉につかえるような落ちていかない気持ちは何であろうか…。ある意味、お江戸のほうが女の自由はあったようにも思える。


遠い海鳴りのように弥次郎の言葉が華菜を通り過ぎる。


リンと母親の厄介者がもうじき片付くという、ほっとした顔つきも目には入らない。


「ごちそうさまでした」


華菜はその言葉でハッと我に返った。まだ、半分も食べていない食器を残したまま、弥助が立ち上がる。


「どうした、弥助」


弥次郎は、眉をひそめた。


「気分がすぐれないので今日はもう、休みます。お休みなさい…」


弥助は、廊下を踏み鳴らしながら、階段を乱暴に上がり、自分の部屋へ行ってしまった。


華菜もそれきり、箸をおいてしまった。


見合いの期日は、三日後と迫っていた。


見合い当日。華菜は、断るつもりでいた。自分は、月千代であって華菜ではない。


自分を曲げてまでここにいる義理はないのである。


月千代に戻り、田助を探す。


しかし、華菜はどうなってしまうのだろうか…。前の身体は、本来の終わるべき寿命まで全うさせた。


今回は、自分の都合で始め、自分の都合で辞めなければならない。


かりそめとはいえ、何かの縁で宿ったことは間違いない。


月千代としては、心苦しいものがあった。


迷いをたちきらねば…。

華菜として口を真一文字にきっとつむんだ。


静寂の時。家の客間に一人。向かい合うまだ温もりすらない座蒲団に背筋を伸ばす。


私は 月千代。華菜ではない。


不意に、襖が静かに滑った。マサエが膝をついて挨拶すると、後ろから慎之助たちが現れた。


いよいよ見合いが始まった。


「実は、今日は…」


華菜は、断りを切り出そうとした。


ーーー庭の花が揺れる。池の水面をアメンボが波紋を拡げ、滑っていく。


華菜の気持ちを思う。華菜には華菜の大切な人生があった。


女学校には、華菜の友人がいて、慕う下級生がいた。尊敬して止まない教師がいて、華菜は、夢を綴っていた。


月千代は、華菜を未来に繋いだ。繋いだ責任がある。


揺れる ゆれる ユレル


「どうしました?」


慎之助の言葉に華菜は小さく「いえ」とだけしか答えることができなかった。


華菜は、しばらく会話を続けることにした。


会話をするうちに華菜は、更に困ったことになる。


慎之助の話を聞くうちに、声を聞くうちに妙な懐かしさが込み上げる。


慎之助の仕草だろうか、話し方であろうか、黒子や傷の位置…。


華菜は、慎之助の中に見た田助の姿が離れなくなる。


もちろん、これは、狗神が神通力で、華菜が好むように魅力を最大限引き出しているからなのだが…。


華菜が好む魅力。それは、田助の全てに他ならない。


をかえせば、華菜の中にいる月千代は、田助がそれだけ好きということなのだ。が、狗神にも月千代にもそんな事情はわからない。


ただ、目の前の狗神、慎之助に華菜が心惹かれたという事実だけが残った。


二人の楽しげな会話、時折、聞こえてくる笑い声。複雑な気持ちで廊下に佇む弥助。


「楽しそうですわね、華菜さん」


リンが弥助の背中から声をかけた。


もうじき、邪魔ものが居なくなる、兄は、私の元へ帰ってくる。


リンは、そっと、兄、弥助の肩に手を添えようとした。


弥助は、その手を払うと、リンの顔も見ず、自分の部屋へ戻ってしまった。


弥助の心に灯る恋心は、リンではなく、華菜に向けられている。


完全に確信したリンは、華菜を呪い殺さんばかりの目で華菜のいる襖の向こうを見る。


華菜は、知るよしもない。


弥次郎が華菜の縁談を急いだのは別に大きな理由があった。


仕事のことである。海運業でのしあがり、一社独占に近い岩舟に対抗するため、他の有力企業が合併や協力に同意し、包囲網を形成したからである。


今では、形成が逆転している。焦りと激務から心労は、重なっていた。


息子の弥助にも、早く然るべき、縁談をまとめ、政府とのパイプを太くしなければ…。


しかし、華菜の恋に破れた弥助は、首を縦に振るどころか、意外なことを弥次郎に申し出た。


対ロシアの前線に志願するというのだ。


弥次郎は、驚き、弥助の説得にあたるが、弥助は聞く耳を持たない。


弥次郎の心労は更に重なり、病に倒れ、程なくこの世を去った。


弥次郎が亡くなり、弥助が去った家は、(すさ)む。


リンの母親は、情緒が不安定になり、床に臥せってしまう。


弥次郎の居なくなった会社は傾き、華菜の縁談は無いことになった。



数ヶ月後、追い打ちをかけるように弥助戦死の電報が届く。


リンの華菜に対する復讐心は業火の如く燃え上がる。


一方、華菜は、リンの身を案じていた。このまま放っておいては、お嬢様育ちのリンは路頭に迷ってしまう。


今は、弥次郎の遺産を切り崩して遣り繰りしているが、なんせお嬢様。


湯水のように使ってしまう。


華菜として、働き口を探し、何とか二人の面倒を見なければ…。


華菜は、いつもの山で黒扇丸を散歩させながら、そう考えていた。


不意に、野山を駆け抜ける風が変わる。華菜の目付きが変わる。明らかに妖怪の気配だ。


妖気と邪気なのか、辺りに暗雲とした霧にも似た煙が立ち込める。


ただ、妖怪と事情が異なるのは、陰とした暗さを感じない。


同じ黒でもこうも違う妖気があるものなのか…。


華菜は、神経を研ぎ澄まし、相手の正体を探る。


草花、空気、空に枝葉を伸ばす木の隅々、果ては大地の土一粒に至るまで細かい神経を張り巡らす。


「やはり、妖怪か…。人に上手く成り済ましたつもりでもお頭と俺の目、もとい鼻はごませない」


男の声。その声のする方を横目で一瞥すると、華菜は、履き物をそっと脱ぎ、土を踏みしめた。


緑の中に一際映える艶やかな赤と淡い桃の着物が内側にぐっと引き締まる。


生い茂る木々の間から覗く太陽。そこから飛び降りたように一つの影が華菜目掛けて降りてくる。


人のなりに、耳と尻尾。


華菜は、黒扇丸で受け止める。


「何奴?」


眩しき光に当てられたかのように、華菜は、相手に問いかける。


「岩舟という一つの血族を根絶やしにせんとするは何事か」


間合いを取らんと、華菜から影が大きく後ろへ飛び跳ねる。


「お前…、いや、あなたは、慎之助様?何故…」


耳と尻尾を除けばまさしく、慎之助。華菜は、事情がわからず、思わず叫んだ。


「人間を騙して、死に追いやった挙げ句、その御霊を戴こうって魂胆だろうが、そうはいかないぞ。覚悟しろ、化け猫!」


「御霊?何のことじゃ、わらわは知らぬ」


「とぼけやがって。この狗神がお前を成敗してやる」

緩い弧を描きながら、草むらの中を飛び回り、狗神は、華菜の隙を(うかが)う。


縦横無尽のその動きは、白い残像を残すのみでもはや目で追うことは(かな)わない。


華菜は、五感で草木や土の揺れ、風の流れを読み、間合いを詰めてくる狗神の動きを掴む。


ーー突如、華菜の目の前に躍り出た狗神。


その姿に臆することなく、華菜渾身の拳が炸裂する。


狗神の顔を見事に捉えた華菜の右拳に、狗神の体は弾かれ、高く宙を舞う。


「わらわは猫又。されど決して人を殺めるような真似はせぬ。恋しき男との約束ゆえ死ぬわけには参らぬのじゃ。恐れ多くも岩舟の家には一宿一飯以上の恩義がある。どうしてわらわが、リンたちをなきものになぞしようか、無礼者!!」


「相当、苛められてたそうじゃないか、あの親子に…。復讐ってことも考えられるだろう」


「何を言う!あれはわらわが、礼儀をわきまえぬ故に恥ずかしくないよう指南してくれた次第じゃ。礼こそ申せど恨みなどあろうはずがない」


二人の激しい打ち合いが続く。


ーーー足元の窪みにつまづいた華菜。間髪入れず、狗神の灰色の妖気を纏った拳が華菜の腹目掛けて飛んでくる。


しまった!!


鈍く乾いた音が響き、華菜は、目を瞑った。


しかし、痛みを感じない。不思議に思い、華菜はゆっくりと目を開けた。

一方、確かな感触の割りに人の体とは明らかに違う感触。狗神も自分の拳が何を捉えたのか、確認するため、そっと下に目線を移す。


黒いふさふさのもみじが風呂敷のように広がって、二人を隔てている。


「?」


狗神は、正体を探るべく目を凝らし、近寄った。

ーーーと、油断した狗神の股間に鹿威しのような音を立てて、もみじの下にぶら下がった漆塗りの棒が勢いよく入る。


「あ…、うっ…。」


顔面の色を無くして、狗神が膝から崩れ落ちた。


「こっくろぅぅぅー」


もみじの正体は、黒扇丸だった。黒扇丸は、なおも狗神に反撃の隙をあたえぬよう、狗神の顔を包み込む。


「う、離れろ…。何をする」


苦しみのたうち回り、狗神は、黒扇丸を引き剥がそうと必死にもがく。


「ええい、こうしてやる」


狗神は、自分の頭を黒扇丸ごと地面に叩きつけようと体を振りかぶった。


渾身の一撃。


すんでの差で黒扇丸は、空高く舞い上がる。綺麗な弧を描き、下を見下ろすように優雅に旋回をする。後に残されたのは、大きなる歓迎の地響きと切り株に打ち付け、延びた狗神の体。


菜は、狗神の元に近づいた。狗神をひっくり返し、心臓を確認する。死んではいない。気を失ったようだ。


華菜は、そっと平らな草の上に狗神を寝かした。

「お嬢ちゃん、やるじゃない」


気配すら感じさせない、声の主は、華菜の僅か一メートル足らずのところで草むらに胡座をかいて座っていた。


華菜は、その気配の無さで背後を取られたことに恐怖し、素早く振り返り、身構えた。


背後にいたのは、あの時、子供の写真を見せた洋装の男だった。


「何奴?」


「四使徒の一角。朱雀。天界の守護神だ」


「だらしがねえ…」


そう言うと、朱雀は、立ち上がった。そして、身構える華菜を無視してやり過ごすと、狗神の元へゆっくり歩いていった。

狗神の半身を起こすと、朱雀は、気合いを入れるように狗神の背中を大きく一つ叩いた。


「てめー、このやろー、あ、あれ…?」


半分寝ぼけたように狗神が飛び上がり、拳を前に突きだし、握り締めながら辺りを見回す。


「ばか、お前の負けだ。それより、指令の撤回だ。俺の早とちりだったようだ、この猫ちゃんに悪意はねえ」


朱雀は、狗神の頭を一つ叩くと、華菜の方を向いて、頭を下げた。


「この度は、とんだ迷惑をかけて済まなかった。式神の知り合いとはなあ…」


「おじきの知り合い?」


止める朱雀を尻目にまだ、戦おうとしていた狗神の足が止まる。


「式神をしっておるのか?」


華菜が朱雀に訊ねる。


「知っているも何も、俺の部下だ。最も今は、不祥事をやらかして謹慎の身だが…。それでおまいさんに一つ頼みがあるんで頭を下げに来た次第なんだが…」


「式神が謹慎とは、一体何をやらかしたと言うのじゃ」


「なあに、弁財天という女の神がいてな、湯あみを覗いた、覗かないって話になってな…」


「まことに式神がしでかしたのか?」


「……」


華菜の問いかけに朱雀は、黙ってしまった。男の約束。「覗き」という破廉恥な行為の汚名を着てまで守りたいものがあるという言葉をすんでのところで朱雀は飲み込んだ。






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