回想 彩萌
それから、30年がたった。
アヤメは、群れの中でメキメキと頭角を現し、頭領の右腕にまでなっていた。
群れを守るため、エサを効率よくとるため神通力学び、会得した。
人間に襲われないため人の言葉もよく研究し、話はもちろん読み書きまでできるようになっていた。
もうこのころになると、アヤメは、人間を信用しようなどとは思わなくなっていた。
ただ、事情は多少異なっていた。
生きるということは食べるということ。
人間にとって狐は明日を生きるための糧の一つ。
生きるということは食べるということ。
それは、狐にとっても同じこと。
おなじ「生きる」というわくの中では、人間も狐も「食べる」ことは、欠くことのできない本能なのである。
アヤメは、悟った。
だから、人間を信用もしないし、だからといって恨みも憎みもしない。
だが、狐の血を絶やすわけにはならない。
アヤメは、そのため、極力彼ら、人間を知り、避けようと努力した。
ある日のこと、頭領の言い付けで、アヤメは、食糧の調達に山を駆けていた。
頭領は、左目に大きな切り傷があり、濃いめのススキ色した毛並みで、威厳と風格を兼ね備えていた。
頭領は、いつも群れのねぐら付近の林にある広場の大岩に立っては、子供たちを集めて昔話をするのが日課だった。
アヤメも幼い頃、うんざりするほど聞かされたものだ。
そんなアヤメも銀狼の話の時には、目を輝かせた。
群れの頭領だった頃の武勇伝の数々。オロチとの幾度と知れない死闘、撃退の話に、アヤメは、何度ときめいたことか。
いつか、あこがれの銀狼に会ってみたい。
アヤメは、そう思うようになっていた。
そんなことを思い出しながら、アヤメの狩りは、夕暮れまで続いた。
他の仲間たちと合流し、群れの元に戻ったアヤメは、愕然とした。
群れの大人とおぼしき狐たち、残っていたもの全部であろうか…。
何物かに食い散らかされ転がっていた。
アヤメは、子狐たちと頭領の姿を探した。
件の岩の上へ、アヤメは、ゆっくり目を這わす。
アヤメは、目を逸らし、つぶらざるをえなかった。
あまりに…あまりにも惨たらしい頭領の変わり果てた姿。
その生々しさは、岩の頂から麓までゆっくりと染め上げていることからもわかる。
それでも、アヤメは、もう一度その光景を見ざるを得なかった。
何のためか…。
頭領の変わり果てた姿の上にこの群れを襲ったモノが悠然ととぐろを巻きアヤメを見下ろしていたからである。
ヤマタノオロチであった。
オロチは、音をたてず、じっと残ったアヤメたちを見下ろしていた。
一番長い首の片目は、切りつけられたのであろうか、縦に一文字の傷があった。
漆黒の闇に染まり行くはずの黒ずんだオロチの体は、不思議なほどに青白くぼうっと浮かび上がる。
よくみれば、オロチのとぐろを巻いたからだの中に子狐たちが震えて声も出せずにいる。
アヤメが助けだそうとして足を踏み出した瞬間、岩の下から大きなウワバミたちが何匹も絡み合いながら顔を覗かせた。
オロチは、子狐のなかでも比較的大きな子狐を選んでは、ウワバミたちの中に喰わえて放り投げた。
「やめろ!!」
叫ぶアヤメの顔を見ながら、馬鹿にするかのようにゆっくり放り続けるオロチ。
周りの仲間の狐たちがウワバミに飛び掛かっていく。
思えば、子狐たちに子別れを教えなかったのは、アヤメである。
自分が受けた哀しみを群れの子狐に味あわせたくないという思いからだった。
それが仇になった。
生きるということは食べること。
常に危険と隣り合わせであるからこそ、何が危険かを学び成長していくのである。
アヤメは、子狐たちからその機会を奪ってしまったことに初めて気付いた。
本当の優しさ、愛情とは。
今、アヤメの目の前に繰り広げられる現実は、地獄絵図そのもの…。
仲間の命は絶え、子狐さえ容赦なく、食われる。
また、一匹、幼い命が、ウワバミの糧として無造作に放られていく。
アヤメは、いつしかウワバミに囲まれ、一番幼子八匹…子狐を残すまでに追い詰められていた。
ダレモ…スクエナイ。
アヤメは、傷つきながらも応戦した。
必死だった。
ウワバミたちを退けながら、必死でオロチに噛みついた。
オロチの固い皮膚にアヤメの牙は入らない。
噛めば噛むほど、アヤメの口からは、血が、じんわりと滲みでた。
そんなアヤメを尻目にオロチは、ゆっくりと楽しみながら小さな小さな子狐を一匹ずつ味わっていった。
最後の一匹がオロチに呑まれた時、ひとひらの子狐の毛が、ゆっくりとふわふわ地面に揺れながら舞い落ちた。
その瞬間アヤメは、銀色の光りに包まれ、気を失った。
仲間を失った哀しみのあまりに…。
あるいは自分の無力に絶望したのかも知れない。
どれほど、経ったのだろうか、アヤメは、目覚めた。
生きている。
あれは、悪夢?
いや、現実だった。
アヤメは、同胞の骸の山をただ眺めているしかなかった。
夜の白みがとけだし、更に凄惨な光景がアヤメの心をぎゅうぎゅうと締め付ける。
アヤメは、何もかも嫌になって四肢を投げ出しその場に横になった。
オロチは、何処へ?
不意に、アヤメの体に黒い影が重なった。
アヤメは、首を上げた。
オロチであったところで、アヤメにとってはもうどうでもよいことだった。
生きる気力が微塵もないからだ。
それでもアヤメが気になったのは、群れの狐とは違う狐の匂いがしたからであろうか。
アヤメの目に映ったのは、銀色の毛を纏った大きな狐であった。
「あなたは?」
アヤメは、銀色のきれいな毛並みをとかすためにそっと入れた櫛のように上から下に目線をなぞった。
「生きていたのなら、それがお前の運命…。ならば生きよ。」
銀色の狐は、名乗ることなく、アヤメにそう言い残し、その場を去った。
アヤメは、はっとして立ち上がったが、遥か彼方に飛んでいってしまった。
銀色の狐は、朝日に向かい、天馬のごとく、空へと駆けていった。やつらは、もうここへは来ないと言い残して…。
アヤメは、あの方はもしや銀狼では、と思ったがもう、確認する術は何も持ち合わていなかった。
その後、アヤメは、仲間の亡骸を手厚く葬り、次に何をすべきか考えた。
アヤメは、ふらふらさまよいながら、歩き始めた。
やがて、アヤメは、子狐の頃、捕まった場所に立っていた。
ぼんやり、そこから見える遠くの山々を木々の隙間から見た。
自分はこれから何をすべきか…。
それ以前に寂しさが滝のようにひっきりなしにアヤメの心へうちつける。
もう、いいや…。
何もしない。なすがまま朽ち果てよう。
アヤメは、重い体を再び地面に投げ出した。
アヤメの目線の先に人間が歩いてくるのが見えた。
ふらふらしているが、アヤメに近づいてくる。音や気配でわかった。
でも、アヤメにはもうどうでもよいことだった。
ただ、じっと横たえたからだのまま、アヤメは、男が近づいてくるのを見ていた。
男は、アヤメに気づくとへたりと座り込み、四つん這いでアヤメの傍まで寄ってきた。
男は、汚い身なりだった。
ぼろぼろの着物は、土まみれ。頬はこけ、眼ばかりギョロリと前に出て、髭は延び放題。
体もがりがりに細り、着物にくるまれているかのようだった。
飢えているに違いない。
ちょうど…いい。
アヤメは、男に食われてもいいと思った。
「私は、全ての仲間を失い、生きる気力を失った。何度も私は命を助けてもらったのに、私は誰も…、子狐一匹救うことも出来なかった。願わくば、そなたの生きる糧としてこの身を…」
アヤメは、男にそう告げると静かに目を閉じた。
男は、アヤメが言葉を話したので、びっくりしたが、よろよろとすりより、アヤメの足に手をかけた。
男は、じっとアヤメの目を姿を見ていた。
時がしばらく経った。
アヤメは、一向に襲ってこない男を不思議に思い、目を開け、催促をした。
「ならば…」
男の身体がアヤメの目の前に迫り、男の息づかいまでがふうふう聞こえた。
「ならば…でき・な・・い」
「?!」
アヤメは、驚いた。一体どういうつもりなのか、アヤメは、顔を真っ直ぐ男に向けた。
「お前は、私が昔、助けた子狐に違いない。ならば、なおのこと食うなどということはできようはずがない。」
アヤメは、更に驚いて立ち上がった。
この変わり果てた姿の男が罠から救ってくれた恩人?
アヤメは、信じられなかった。
男は、姿勢を糺すと正座し、アヤメを見て語りだした。
自分が武士の出であること。妻と駆け落ちし、この土地にきたこと。貧乏したこと。妻が病で倒れ、医者代がかさみ、食うや食わずの生活を送っていることなどである。
ならなぜ、アヤメをたべようとしないのか。
アヤメにはますます理解できなかった。
筋が通らない。
飢えているのだ。
食べねば死んでしまう。
早く、アヤメを妻の元へ、そして男も自分自身も生をつなぎたいと考えるのが筋だ。
男はそれでも首を横に振る。
ぎょろりと突き出た目は、潔いほど澄んでいる。
「お前を食って恥をかくよりは、死ぬ方が何倍も潔い。私は、今、人として生きるのか、魂まで売り渡して人間ではなくなってしまうのか、神に試されているのだろう。私は、人である。人として生きて、死にたい。妻もきっとわかってくれるはずだ。だから、私は死んでも・・・お前を食わない」
男は、座したまま頭を下げた。
「ありがとう・・・」
そして、それきり男は頭を上げなかった。
アヤメは、男に近づいて、男の様子をうかがった。
声をかけたが返事がない。
アヤメは、男をゆすった。
男は、死んでいた。
アヤメは、男を弔った後、すぐ男の家へ向かった。途中で捕まえた、キジを咥えたまま…。
アヤメは、男の家に着くと中には入らず、男の声色を使い、男の妻に語りかけた。
女のアヤメは、男に化けることはできなかった。声色をまねするのが精いっぱいであったからだ。
「あんた、帰ってきたんですか…」
「ああ、そのまま動かず、聞くんだ。私は、用事ができて二、三日留守にする。代わりに女中を雇った。案ずるな、士官の道ができて、金が前借できたのだ、すぐ帰るからその女中、アヤメの言うことを聞いて体を治すのだ。いいな」
アヤメは、遠のくふりをして人間の女に化けた。
そして、男の妻の前に現れると、深々と頭を下げ、顔を上げた。
男の妻は、やつれてはいたが男ほどがりがりではなかった。おそらく、男は自分の身を削って食料を妻に与えたのであろう。身なりは相変わらず貧しいままで、布団から半身起こしてアヤメに軽く会釈した。
さびしげな横顔で、多少、白髪の混じった髪は、ハリもつやもなかった。
三日間、アヤメは必至で看病をした。慣れない洗濯や掃除も妻の身の回りのことならなんでもした。栄養も足りてきたはずであった。
アヤメは、ほっとしていた。
きっと、妻の病は治る。
初めて誰かの役に立てたと思った。
その晩、きれいな満月の夜だった。
いつものように、アヤメは、食事の支度をしていた。
男の妻は、泣きながら凛として布団に正座していた。
乱れた髪を整え、口には紅を引いていた。
部屋に唯一の行灯は、皿がむき出しの上、糸も細い。ゆっくり揺れる炎は心もとなく感じる。
「どなたか知りませんがご親切にありがとうございました。夫は、きっともうこの世にいないのでしょう。子供もいない私にとって、あの人が私の唯一の生きるよりどころでありました。貧しくともあの人がいれば、私はいつも笑顔でいられました。しかし、あの人はいなくなってしまった。私は一人残されたとしてもいきることはできません。あの人は、夫は、優しい人でした。自分を後回しにしてでも、病気の私を生かそうとしてくれました。しかし、あの人のいないこの世に何の未練がございましょうか…」
男の妻は、頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
男の妻は、静かに息を引き取った。
行灯の火がすっと風もないのに消えた。
アヤメは、熱いものがこみあげてくるのを抑えきれず、声を上げて泣いた。
暗闇にホタルノヒカリのように青白い妻の御霊が浮かび上がる。
そこへ、男の御霊が迎えにきた。
ゆらゆらと二つの御霊が天に昇ろうとした時、四使徒の一神、西の白虎が姿を現した。
虎の顔だちに白と黒の縞模様の毛並。睨みの効いた野獣の目。鋭い爪にいかましい甲冑姿。まさに戦いをつかさどる荒ぶる闘神にふさわしいいでたちであった。
白虎は、閻魔の娘にきれいな御霊を探してくるよう申し付けられていた。
ちょうど、頃合いの御霊がふたつ見つかったので、この場に引き取りに来たのである。
アヤメは、二人の御霊を守るため、無謀にも白虎に向かっていった。
しかし、神の神通力の前では、近づくことすらままならない。
白虎が、二人の御霊に手をかけたとき、銀色の狐がそれを奪い取って、アヤメに返した。
「銀狼」
白虎は、銀色の狐にそう叫ぶと、アヤメに手出しをせずに引き下がった。
確かに、閻魔の娘に頼まれた御霊であったが、銀狼もまた閻魔の娘の飼狗である。下手に手出しして、怪我でもさせれば自分の立場が危うい。御霊は、ほかにもある。白虎は、この御霊をあきらめ、他をあたることにした。
アヤメが銀狼に礼を言おうとした時には、もう、銀狼の姿はなかった。
アヤメは、二人の御霊を抱きしめ大切に守り続けた。
やがて、二人の御霊は、転生の時を迎えた。
二人は、別々の道を歩んだが、再び出会い、恋におち結婚した。
アヤメは、時々二人の様子を陰ながら見守っていたが、二人の間にはなぜか子ができない。
二人は、40近くになっていた。
オロチの呪だった。
アヤメは、悩んだ。自分も少なからず、オロチには因縁がある。オロチをこの手で仕留め、仲間の無念を晴らしたい。そして、助けてもらったこの夫婦をきっちり守っていきたい。
アヤメは、夫婦の子になった。
彩萌の誕生である。
彩萌はすくすく二人の愛情を受け育った。
そして、この二人に育てられたことで子狐の時の感情を思い出していた。
それは、彩萌が、人間は素晴らしいと思ったことである。
そして、狐の時思った以上の素晴らしさであった。
ある日、彩萌は、母の昔の日記を盗み見てショックを受けた。
(本当は、男の子がよかった・・・)
彩萌は、女の狐。男にはなれない。その日から彩萌は、「ボク」を使うようになった。
思春期に入った彩萌は、母と衝突した。
自分の気持ちをわかってくれない母につい本当は、男の子がよかったくせに…、と口走ってしまった。
パシーン
甲高い音が響き、彩萌は、頬を押さえた。
「馬鹿なこと言わないで」
彩萌の母は、彩萌を見つめたまま、涙を一筋流した。
「はじめは、そう思った。でも、無事にあなたが生まれ、育っていく姿を見てあなたでよかったと思った。彩萌でよかったと思ったの。お願いだからそんな悲しいこと言わないで。彩萌は、彩萌のまま生きていいの。彩萌だけが私たちの子なの。」
母は、彩萌を引き寄せた。
彩萌は、それきりもう二度と口にすまいと心に決めた。
ただ、彩萌は、ボクをやめなかった。
別に嫌みではない。単純に気に入ってしまったからだ。




