回想 アヤメ
その頃、彩萌はまだ、屋上にいた。
風に吹かれながら、ごろりと横になった。
彩萌のトレードマーク。校則違反の緩めのネクタイ。かっこよく着こなすためのブレザーの裾折り。
ただ一つ違うのは、頭に乗せたサングラスが、本来の役目を果たすため、あるべき場所にあるということぐらいだ。
ただ、彩萌の場合、陽を避けるためにしたのではない。隠すべき場所を隠すのにちょうどよかったのが、たまたまサングラスだっただけなのだ。
薫子に何の気持ちがわかるというのか、彩萌は、ただ、秋晴の空に浮かぶ、流れ雲を見つめていた。
あこがれの銀狼の助けをしたい。銀狼よりいつか強くなりたい。
それはなぜか…。
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彩萌がまだ、狐のアヤメであったのは、200年ほど前のことだった。
江戸時代も後期にさしかかり、世界の列強が日本に来航し、幕府はその対応に頭を悩まし始めた頃である。
アヤメは、まだ子狐で無邪気な盛り。山々を元気に駆け回っていた。
ある日、いつものように山々を駆け回っていると、狩猟の罠にかかってしまった。
泣けど騒げど親は来ない。
それもそのはず。歩くのに夢中のアヤメは、二山も向こうに来てしまっていたからだ。
代わりに人がきた。男だった。
罠をかけた本人だろう。
アヤメは、あがいた。竹で編まれた籠の檻を激しく噛んだり、隙間に鼻や爪を突っ込んだりして暴れ回った。
恐怖で狂いそうになりながら、親の救いを求めて…。
まだ幼いアヤメ。男は、その場でアヤメを放すつもりだったが、熱があるアヤメを放ってはおけない。幸い、アヤメは、篭の罠に掛かっただけなので怪我はない。
男は、アヤメを家に連れて帰った。
男は、妻と二人暮らしだった。
二人とも、若く質素な身なりをしていた。
家の入口の引戸の側に小さな囲い小屋があり、そこにアヤメは、入れられた。
殺風景な家の片隅の簡素な狭い小屋。暗くて、砂ぼこりのにおいがした。
親と離れてひとりぼっちで過ごす初めての夜だった。
アヤメは、恐怖と空腹で寝ることさえ出来なかった。
熱は、三日ほどで下がった。
はじめこそ、恐怖心が強かったが、アヤメは、危害を加えられないとわかると元気を取り戻した。
好奇心旺盛なアヤメにとって、人間の生活はたいそう興味深いものだった。
夜を明るく照らす行灯。温かい飯と旨そうな匂い。洗濯の風景。
アヤメは、人間を好きになった。
やがて、半月の後、男は、再びアヤメを籠にいれ、野山に向かった。
籠の蓋があき、アヤメが見た世界は、アヤメが捕まった場所であった。
アヤメは、はじめ、男の意図がわからず、ただ野山を不思議そうに眺めていた。
懐かしい草木の匂い。鳥のさえずり。
アヤメの五感に、しだいに半月前の生活の感触が染み渡っていく。
山々の間を吹き抜ける生暖かい風がアヤメの毛並みに沿って流れていく。
アヤメは、母親の顔を思い浮かべ、籠の外へ飛び出した。
一目散に走りだしたアヤメの前に蝶がヒラリと舞った。
無邪気な子狐ならでは。アヤメは、母を忘れ、夢中で蝶を追い回した。
しばらくして、腹が減り、男の姿を探したが、男は、とっくにいなくなっていた。
アヤメは、男の元へ戻るべきか考えたが、心配する母の顔を思い浮かべ、再び走りだした。
日は、傾き、空に満天の星空が広がっていた。
暗い山道は、生い茂る木が化け物のように枝を垂らし不気味であった。
それでも、アヤメは、怖いとは思わなかった。
母親に会える歓び。
アヤメは、走りに走った。今度こそ、脇目もふらずに。
そして、とうとう、その歓びを抱いたまま、アヤメは、母親の胸に飛び込んだ。
死んだものと思っていた我が子の姿に母狐は、ねぐらの巣穴で歓びの雄叫びをあげた。
二匹は、こうして再会をはたしたのであった。
季節は、夏から秋へ移ろいだ。
蝉時雨もいつの間にか隠れんぼのように息を潜めた。
代わりに赤とんぼが、夕日に黒々と我が身の影を刻む。
アヤメの母は、悩んでいた。可愛いアヤメが、帰ってきたのは嬉しい。
しかし、アヤメのからだから発する僅かな人間臭がどうしても気に入らない。
しかも、ことあることにアヤメは、人間を褒め称える。
アヤメの母は、多くの仲間を人間の手によって奪われた。アヤメの父もそうだった。母自身も何度命の危険にさらされてきたことか。
母は、アヤメにそのたびに言い聞かすが、アヤメは、頑として聞く耳を持たない。
憎い。
でも、可愛い。
その板挟みに母がどれだけ胸を痛めているか、幼いアヤメに知る由もない。
今、たくさんアヤメを可愛いがってやらねばもうその時は来ない。
アヤメの母は、願った。
どうか、アヤメに対する愛情が、私の胸に降り積もる憎しみを全て溶かしますように…。
しかし、その願い虚しく、狐の宿命たる本能が引き裂いた。
偶然、悪い季節が重なってしまったのだ。
それが、親娘の不運だったのかもしれない。
その日、アヤメは、初めての獲物、ウナギをくわえて誇らしげに巣穴に戻ってきた。
母親の喜ぶ顔を見るために。
しかし、巣穴の入口に顔を入れようとしたアヤメは、鼻先を嫌というほど母に噛みつかれた。
アヤメは、一瞬何が起こったのか理解できない。
何度も何度も、アヤメは、母に懇願して巣穴に入ろうとした。
しかし、ダメだった。
母は、時にアヤメを威嚇し、時にアヤメに噛みつき激しく追い立てた。
気づくと互いに泥だらけになっていた。
激しく息があがる。アヤメがくわえていたウナギは、とうに放され、足に踏まれ泥まみれになっていた。
アヤメは、薄暗がりの中、とうとう、母に背を向けた。
母の真意を知らないアヤメは、人間が原因だと思った。
自分が母の嫌いな人間の話ばかりするので、匙を投げられてしまったのだと思ったのだ。
アヤメは、仕方なく人里へ下りていった。
つるべ落としの暗闇を灯りもなくとぼとぼと。
人里にきたアヤメは、夜明けを待つため神社の社の下で眠っていた。
仮眠のはずだった。疲れていたアヤメは、人が近づいてきたのも気づかずぐっすり寝込んでしまっていた。
アヤメは、気づくと若い男たちに担がれていた。
口と両足を縄で縛られ、大木の枝を棒にしたものに逆さにくくりつけられどこかに運ばれる最中であった。
アヤメは、男たちの動きと共に身体が左右にユサユサと乱暴に揺れた。
アヤメは、抵抗しようと暴れた。
暴れるたびに殴られた。
横にいた男たちが、手にした棒きれで代わる代わるアヤメの体を強打した。
殴打されるたびに乾いた音に混じって男たちの笑い声が響く。
アヤメは、母の言葉を思い返した。
人間を信じてはいけないよ・・・。
ゴメンナサイ
アヤメは、殴られる痛みより自分の愚かさのほうが遥かに痛かった。
人間なんて信じなければよかった…。
涙が逆さに落ちていく。
その時、風がアヤメの横をすり抜けた。
瞬間、アヤメの体は、地面に落下し、縛られた縄が何物かに切られた。
口の縄を前足と地面に擦り付け、外した。アヤメは、自由の身になると一目散に駆け出した。
怖くて振り返らない。
アヤメは、何が起こったのか確かめることなく、山へ帰ろうとした。
母にあって、謝りたい。
その一心で。
しかし、アヤメの混乱した脳は、それを許さない。
山とは逆に、人里の中へ中へと入っていってしまった。
人、人、人。
あれほど好きだった人が、アヤメには鬼畜の群れに見えた。
アヤメを狙う者。
アヤメを追い立てる者。
石のつぶて、棒や竹刀の唸る音。そして、火縄銃。
アヤメは、どこをどう走ったか…。
同じ道を行ったり来たり。袋小路に泡を食う。
やがて、見覚えある一軒家の庭に紛れ込む。
物干し台の前にいる女とアヤメは、目があった。
アヤメを助けた、あの男の妻だった。
こっちだぞという男たちの声に男の妻は、とっさにアヤメの上に洗濯したばかりの着物の山を被せた。
アヤメも理由はわからなかったがとにかく静かに息を潜め、じっとやり過ごした。
男たちの足音が、次第に遠のく。アヤメは、暗い洗濯物の中から耳だけを動かした。
男の妻は、完全に追っ手がいなくなったのを見計らってアヤメの上から洗濯物をどかし、何事か独り言を言うと洗濯の山を抱えて引っ込んでしまった。
その時、アヤメにもなにか一言言ったのだが、アヤメには人の言葉は理解できない。
残されたアヤメが途方にくれていると一匹の雄の狐が、近くの高い杉の木からアヤメに声をかけてきた。
「珍しい人間もいるもんだ、山へ帰れとよ、お前命拾いしたな」
「人の言葉がわかるの?」
アヤメは、木の上を見上げた。
「あぁ、まあな。見かけない顔だな」
「私、アヤメっていうの。縛られて大変だったんだ。そうしたら、縄がとれて、夢中で逃げて」
「見てたよ。縄を切ったのはオイラだ。でなけりゃ、今頃、皮を剥がれて鍋にされて食われてたとこだ」
呆れた様子で雄の狐はアヤメを見た。
「人間て、そんなに狂暴なの?」
アヤメの問いかけに雄の狐は、ますます呆れた。
「あのなぁ、馬鹿言っちゃいけねえぜ、お嬢ちゃん。人間ってものは、恐ろしく狂暴な輩なんだぜ。見たろ?笑いながら平気で殺しができるんだ。餌付けまでしといて、手懐けてパクリと食いやがる。悪いことは、言わねえ。人間なんてものに関わるな。」
アヤメは、目線を下に考え込んだ。
今、現実に体験したこと。母の話。
母…。
アヤメは、もう一度母に会おうとしていたことを思い出した。
「あの、私母のところへ帰りたいんだけど…。」
雄の狐は、アヤメの姿をじっと見つめた。
幼いとはいえ、もう子別れの時期は過ぎている。
「母の元に帰ってどうするつもりだい?」
雄の狐は、哀れむようにアヤメに訊ねた。
アヤメは、今までの事情を話した。人間に捕まったこと。やさしくされたこと。再び母と暮らしたこと。人間を信じたこと。そのことで、母に疎まれ、巣穴を追われたこと。
「お嬢ちゃん…、兄弟は?」
「いない。ウワバミに産まれてすぐ、呑まれたって…」
雄の狐は、天を仰いでため息をついた。
「いいかい、お嬢ちゃん。よく聞くんだ。お前の母親は、もう、お前には会わない。それは、人間云々が問題じゃない。」
「どう…して?」
アヤメは、ワナワナとちからが抜け、目頭が熱くなった。
暗い谷底に投げ出されたように深い絶望に苛まれた。
「お嬢ちゃん、子別れの儀式ってやつを知っているかい?」
雄の狐は、木上からアヤメの元に飛び降りてきた。
アヤメは、力無げに首を横に振った。
「だろうな。兄弟でもいれば誰かしら仕入てくるもんだが…。」
雄の狐は、前置きをすると二三度身をぷるぷると振るわせてから、アヤメの前にたち直した。
「がっかりかい、お嬢ちゃん。でもな、お前の母ちゃんは、お前を嫌いになったわけでもねえと思うんだ」
「え」
意味が分からず、アヤメは、雄の狐の顔を見た。
雄の狐は、アヤメにあくまでも推測としてゆっくりと次のような内容をしゃべった。
ー 子別れ -すなわち、自立のため狐が行う本能の行動。一人で、厳しい冬を越え、エサを取って生きていけるように我が子を巣穴から追い立てる行為。
秋のうちにエサを取ることを覚えなければ、木の実すら探すのが難しい冬を越すことはできない。多くの狐がこの厳しい現実によって、命を落としていく。
その厳しさを自ら乗り越えた狐だけに春は待つ。
おそらく、物心つかないうち兄弟をなくし、片親で育てた母狐は、並々ならぬ愛情を持ってアヤメに接したはずである。
まして、捕らわれの身となり、一度はあきらめた我が子が五体満足で無事返ってきたのである。なおのことであろう。
母は、子別れの時期を少しずらしている。それが、アヤメにできる親としての精一杯の愛情だったに違いない。
しかし、これ以上待てば、アヤメがこの世界で生きてはいけなくなる。冬は刻一刻と近づいている。本当の愛情とは何か、ぎりぎりの選択だったはずである。
アヤメは、そこまで聞いて天を仰いだ。鼻先を空っ風が吹き抜け、いつしか曇天となった空模様がアヤメの心にずしりと重くのしかかる。
コラエキレナイノハ・・・ナゼ?
うちからあふれ出てくるものは、二筋の黒い筋をなし、頬をつたり、乾いた土の地面に濃いしみを作り出す。
にわか雨がぽつりぽつりとそのアヤメの思いをそっと隠す。
「やべえ、人が洗濯を取り込みに戻ってくる。お嬢さん、行くとこないだろ?だったら、うちに来な。頭領には、おれから話をつけてやるから」
雄の狐は、アヤメについてくるよう促した。
アヤメは、小さく頷き、後に続いた。
前を走る雄の狐の尻尾は、二股に分かれていた。
アヤメは、こうして神通力をもつ狐の群れの仲間入りを果たしたのである。




