嵐の前の幸せ
と、その時、暗がりの草むらからガサガサと物音がした。
獣か、あるいは盗人か、田助と月千代は、身構えた。
歓声があがり、村人たちが一斉に姿を現した。
田助と月千代は、顔を見合せ驚いた。
「何のさわぎだ、お前たち」
田助が尋ねた。
「何もどうも、親方は、水くせえ、一言仰ってくれれば、あっしらだって祝言の支度の一つや二つ」
「そうだよ、お月ちゃんだって村の仲間だもの、ここのみんな同じ気持ちでいるんだからさ」
その間にも着々と宴の準備は調っていった。
二人があっけにとられていると席の上座へと案内され、無理やり座らされた。
そこへいかにも世話焼きなおばさんがやってくると、月千代に何か被せた。
「我慢しとくれ、月ちゃん」
とおばさんが、声をかけた。被せてくれたのは、手拭いでつくった角隠しであった。
「もっと上等のがあったろうに」
誰かがおばさんに噛みついた。
「そんなこと、言ったって・・・。ね、月ちゃん…、つ…月ちゃん?」
月千代は、嬉しくて、涙が、溢れて仕方なかった。
「ち、違う…。おばちゃん、嬉しい」
月千代は、必死で頭を振った。
月千代は猫ではなく「人」としての幸せを感じた。
今まで、どれだけ人の嫌なとこを見てきたことだろうか。
生きるために人に成りすますことはあっても、決して心まで人になろうとは思いもしなかった。
この場所へ来て、田助に会い、人の心に触れた思いがした。そこから広がる人の心の輪。
月千代は、今、心から人でありたいと望んでいた。
「泣くやつがあるか。嬉しい時には、笑うものだ、泣いてどうする」
その様子を横で見ていた田助があやすように声をかけた。
田助の目にも涙が光っていた。
「田助どのだって泣いて居られるではないか、嬉しい時には、笑うものだ、と今、仰せられたばかりではないか」
月千代は、笑いながら、いつかの仕返しとばかりに田助に言った。
宴は、朝まで続いた。
生きていてよかった。清兵衛が引き合わせてくれたに違いない。
あ・り・が・と・う
月千代は、いつまでもこの幸せが続くことを願った。
それから、またしばらくたった。
田助と月千代は、畑に二人で向かうのが日課であったが、最近では少々事情が違っていた。
田助は、月千代になるべく負担をかけないよう配慮していた。
月千代のおなかには子がいたからだ。
それでも月千代は、何か役に立てないかと動き回るものだから、田助は気が気でない。
結局、周りの村人たちが、見かねて、田助の畑を手伝う羽目になった。
その中の一人に奈津という10歳ぐらいの女の子がいた。奈津は、身寄りがなく村長のところにいた。必要以外の口はきかず、大人びた少女だった。
黙々と仕事をこなし、月千代のそばにいた。
「嵐が・・もうじき・・くるんだ」
「え?」
珍しく、奈津が口を開いたので、月千代はもう一度聞き返した。聞き取る準備をしていなかったからである。
「この村に、嵐がくるんだ。だから・・・」
そこへ、一仕事終え、田助が水を一杯飲もうと上がってきた。
奈津は、田助の小指を左手で握ると右の手で月千代の小指を握り、目をつむり何事か念じ始めた。
「なつ?なんのおまじないじゃ」
月千代は、奈津にやさしく尋ねた。
「いま、ふたりを赤い糸で結んだ。もう一度出会って愛を紡げるように・・・」
「ずいぶんませておるのう、奈津にはかなわん」
田助は、子供の戯言とわらっていたが、月千代は、胸騒ぎがして仕方なかった。
「ほら、風が吹き始めた」
奈津の振り返った先には、役人たちの姿があった。
この地を治める大名家の家老、渡辺惣右衛門とその右腕、官兵衛のすがたもあった。
官兵衛が、ちらりと月千代の方を見た。
にやりと笑ったその顔は、色がなく人間のものではなかった。月千代は妖怪だと直感した。




