跳べるのならば、空高く
景色はすっかり夜の世界となっていた。校舎を照らし出す光は、既に外灯のものになっている。
けれど、ざわついた校舎内で生徒が帰る気配はまだ無い。
イベント前夜。こんな日の夜は、妙に気分が高揚する。作業が終わった生徒も、その気分を味わいたいのかもしれない。
帰る用意をしながらも、他のクラスの様子を伺ってみたり、会話を弾ませたりしていた。
「おおい。差し入れ持ってきたぞ。手の空いてるものから、休憩しろよ」
ガラリ。文芸部部室の扉が開いた。
入って来たのは顧問の三原と、佐伯だ。
二人は両手に持っていた大きな袋を、空いている机の上にドンと置いた。
「待ってました! 先生有難うございます」
「おう。全部先生のおごりだ。感謝して食え」
「はは。相変わらずこういう時のタケの動きは、素早いな」
真っ先に声を上げて、袋に向かってきたのはタケ。その動きに、佐伯が笑った。
三原は向かってくるタケに袋を広げながら、部室を軽く見回した。
「どうだ? 順調に進んでるか? まだ展示パネルの方が、進んでないみたいだが……」
「部誌がある程度まとまらないと、スペースが片付かないんで、展示の方は後回しです。部誌の方は、今差し替え途中ですね。終わった分から、一年生にホッチキスで止めてもらってます」
三原の問い掛けに返答をしたのは、元副部長でユカの姉。……ミカだ。顔を上げなから、瞳に掛かる髪を掻き上げた。大きめの瞳がユカとよく似ている。
三原はそれに頷くと、一年生二人に向かって声を掛けた。
「おおい。一年生はこれ食ったら帰れよ。後は二年生が、やるから」
「え。先生、俺達まだやります」
「いや、駄目だ。今年はこれで止めとけ。来年は最後まで残ってもらうがな」
「……はあい」
「三年生もキリの良い時間に帰れよ? 無理して付き合う必要無いからな」
「はい。差し替えが全部終わったら、帰ります」
「先生、ホッチキスなんですけど、後一台借りれますか? それと針も足りません」
「ああ、ちょっと見て来よう。……西條と日下部は?」
「ロミジュリやってます」
「まだ帰って来てないのか。……仕方ないな」
そんな会話が繰り広げられていた時……廊下を走る足音が聞こえた。それは真っ直ぐ部室に向かってきている。
三原は、まだ開いたままの部室の扉に向かって、大きな声を掛けた。
「廊下走るなよおっ!」
その声は扉を抜けて、廊下へと響く。──途端に、足音が静かなものに変化した。
その豹変ぶりに、部室の中に居た全員がニヤリと声無く笑う。
程なくして部室の前を通る人影……二つ。
「すみません。遅くなりました」
声と共に姿を現したのは、ナオとリンだ。
「おう。お疲れ。取り敢えず差し入れだ。食っとけ」
「あ……有難うございます」
恐縮しながら入ってくる二人に、三原が袋を指差しながら声を掛けた。
ナオがそれを見ながら三原に謝辞を。
「リンお疲れ」
「ああ! ミカ先輩! お久しぶりです」
向けられた声に、リンが眼差しを向けると、ユカの隣にミカを見つけた。
柔らかなショートヘアの髪がフワフワ揺れる下で、大きく主張されるハッキリとした眼差し……二人は本当に良く似ていて、並べば双子のようだった。
リンは嬉しそうにミカの元へと歩み寄る。
そのリンを追いかけるように、佐伯の視線が動いた。
その佐伯を見つめていたのは……ナオ。
「じゃあ、ちょっとホッチキス見てくるから。一年生食ったら帰れよ」
三原は、そう言うと部室を出る。ガラリ……扉が閉まった。
「……じゃあ、ちょっと休憩しよう。皆取りに来て」
その掛け声は佐伯。やはり三年が居ると、場を仕切るのは三年になるらしい。
皆はその号令に、一斉に差し入れの元へと集まった。
「じゃあ、お先に失礼します」
「後がんばってね」
そう言いながら部室を出ていくのは、一年生と三年生の四人だ。
三年生はまだ残ると言ってくれていたのだが、差し替えは大体終わっていた。後はホッチキスで止めて製本テープを貼るだけ……。
それなら四人でもなんとかなるだろう……という結論に達したのだ。
「一応、明日の朝も早めに来るから。残せるものは残して、早く帰りなよ」
「はい。有難うございます」
気遣うように声を掛けた佐伯に、ナオが二年生四人を代表するように謝辞を告げた。
残る三人は、ペコリと佐伯にお辞儀を向ける。
「ん。……じゃ、お疲れ」
「お疲れ様です!」
その声を合図に一年と三年の四人は、扉を閉めて立ち去っていく。
ゆっくりと響く足音を聞きながら、残った四人も作業を再開し始めた。
「取り敢えず、差し替え優先でユカとナオね。タケはホッチキス。私は製本テープ切っていくから」
リンは三人に指示すると、三人とは少し離れた場所に座り、製本テープをカッターナイフで切っていく。
残る三人もそれぞれ作業に入るべく席に着く。
「……悪い。俺ちょっとトイレ」
けれど、そう言って扉へと足を向けたのはナオ。
部室を出ると、足早に廊下を走り出した。
「…………あれ? お腹下したかなあ?」
そう言いながら、意味あり気に笑みを零すタケ。
けれど、リンは心配そうにナオが出て行った扉を見つめた。
「え? 大丈夫なの?」
「さあねえ?」
リンの問い掛けに、タケはわざとらしく大きく肩を竦める。
「はいはい。喋ってないで仕事するよ」
二人の様子に、ユカが珍しく声を掛けた。
けれど、ユカの表情も何処か楽しげで。
「……?……」
リンは、二人の様子に首を傾げながらも作業を再開した。
「佐伯先輩。ちょっと話があるんですけど」
その声が佐伯の背中に投げられたのは、下駄箱の前。
佐伯はゆっくりと振り返る。
その声は、傍に居るミカにも届く。何事かと、佐伯と同じように振り返った。
と、そこ立っていたのはナオ。走ってきたのだろう。肩で大きく息をしていた。
佐伯は、クスリと音無く笑い
「廊下は、走っちゃいけないんじゃなかったっけ?」
「あ……すみません」
その言葉に、ナオは申し訳なさげにペコリと頭を下げる。
佐伯は、近くに居たミカに声を掛けた。
「校門の前で待っててくれる? 後で行くから」
「……ん。分かった」
ミカは頷くと、外で待っている一年を伴って歩き出す。
程なくしてその姿が見えなくなると、佐伯は改めてナオに振り返った。
「……で。何? 話って。部活の話?」
「あ……いや……その……」
珍しくナオが、言葉に詰まる。戸惑うように瞳を彷徨わせ……やがて俯いた。
その様子を眺めながら、佐伯は下駄箱に背中を預ける……と、再び問い掛けを。
「それとも…………リン?」
「────っ!────」
その声に、弾かれたようにナオが顔を上げた。佐伯と瞳が重なる。
佐伯は、真っ直ぐナオを見つめていた。
ナオが大きく息を吸う。次いで発した声は、少し震えた。
「あの……。印刷室で、リンと何を話したんですか?」
「……それ。言う必要あるかな。俺とリンの話であって、ナオには関係の無い話だと思うけど」
「や……すみません。そうなんですけど……でも……」
ナオは頭を掻きながら、再び少し表情を伏せる。
けれど、その表情は、直ぐに佐伯の元へと戻り
「リン……泣いてたんです」
「…………え?」
その言葉には、佐伯も驚いたように瞳を開いた。
何か考えるように、口元を指先で覆う。
「リンが泣く原因が……もし……先輩だったら……俺……」
「────だったら何? 許せないとでも、言いたいわけ?」
たどたどしいナオの言葉に、佐伯は不敵な笑みを浮かべた。
言葉はどこかイラついたような声。普段の優しげな口調とは違う。
ナオの表情に緊張が走った。
ゴクリ……。一つ唾を飲み込む。
「それこそ、ナオには関係の無い話なんじゃない? 何様のつもり?」
「俺は……リンの保護者で……」
「皆がそう呼んでるだけでしょ。それとも、本当の父親とでも言いたいの」
「────違う!」
弾かれたような……一際大きな声が、響き渡った。まるで叫ぶようなそれ。
温厚なナオが、声を張り上げること自体が珍しい事で……佐伯は驚いたようにナオを見遣った。
「別に、成り行きでリンの傍に居る訳じゃない。そりゃ……最初はそうだったかもしれないけど……」
ナオは、やや俯きながら両手で拳を作り……握りしめる。
その拳に、力を込めた。
「──居たくて居るんだ。リンの隣は、誰にも渡したくない」
「……随分と、傲慢な発言だね」
「……っ……。すみません。でも……」
ナオは、目線を上げると確りとした眼差しで佐伯を見つめる。
「リンは活発で、男みたいな性格に見えるけど……本当は、とても繊細で弱い。だけど、皆が作ったリンのイメージを壊せなくて、意地張って……損ばかりしてる」
「…………」
「だから俺……これ以上リンが傷つかないように、守りたくて……」
「…………それ。リンに言ってやれば?」
「……え……っ……」
思わぬ佐伯の言葉に、ナオは驚いたように瞳を開いた。
佐伯は大きく息を吐くと、空を仰ぐように視線を上に向け……
「本当に守りたいと思ってんなら、堂々と隣に居られる立場になりなって言ってんの」
言いながら視線を戻し、足元に置いていた荷物を肩に掛けた。
そのまま、ナオに背を向け……歩き出す。
「えっ……! 先輩……」
「……ああ、そうだ」
佐伯は、何か思い出したように立ち止まると、振り返り
「リンが泣いてた原因。多分、ナオだよ」
そう言うと、嫌味なまでに満面な笑み。
視線を戻すと再び歩き出す。
「……え?…………俺?」
一人取り残されたナオは、自分で自分を指差しながら、茫然と立ち尽くす。
その声は、佐伯の耳元に届いていたけれど、──振り返る事は、もう無かった。
「繊細で弱い……か」
思い出すように、言葉を呟く。
「知ってるよ。そんなこと……」
そう言葉を続けて、小さく笑った。
「……なんだかなあ。自分でチャンスを手放した気分……とんだ貧乏クジだな」
大きく肩を竦めると、歩幅を大きく足早に。
やがてその姿は、小さく消えて──。