嵐を起こして
「……は? 今、なんつったお前」
ここは、春ヶ丘北高校……通称ハルキタ。
文化祭初日を翌日に控えたこの日の授業は、午前中で終了。午後からは、校舎の掃除に舞台の設営……模擬店の準備など、生徒のみならず教師も動きが慌ただしかった。
それは、ここ文芸部の部室も例外ではない。
と言うより、文芸部にとって文化祭は、年に一度の一大イベントだったりする。自分の作品を広く皆に読んでもらえる、絶好の機会。
たとえ部誌でも、自分の作った詩や、物語が本になる。こんなにテンションの上がるイベントが他にあるだろうか。
中間試験の荒波に揉まれながらも、締切という巨大な敵に、懸命に立ち向かっていった部員達の勇姿は、きっと生涯忘れないだろう。
そして今、その魂の結晶と呼ぶべき部誌が、出来上がろうとしている。印刷の終わった作品を、ページ順に重ね……表紙を被せ、ホッチキスでパチン。それが終われば、製本テープを貼るだけだ。
そんな時に、それは告げられた。
「んん? だからぁ、此処のルビ……打ち間違えてるって……」
呑気な口調で問い掛けに声を返したのは、優雅に足を組んで椅子に座っていた秋庭武史……通称タケ。何処となく垂れ目の綺麗な顔立ち。如何にも女子にモテそうなタイプの美形だ。
自分でもそれがよく分かっているのか、身だしなみには気を遣っている。髪の手入れも忘れない。
そんな、やや長めの黒髪の髪先を指先でいじりながら、タケは部誌の中にある自分の小説を読み直していたようだ。
その声に、部長の西條直哉……通称ナオが、手にしていた作成途中の部誌のページを、ペラペラとめくる。
やや色素の薄い茶色混じりの黒髪の下……その落ち着いた眼差しは、強い光を内包する。人の先頭に立つ……リーダー的な存在感が、そこに確りとあった。
「どこ。何ページ?」
「四二ページ」
その二人のやり取りに、製本作業をしていた他の部員の手が、一斉に止まる。
同じように作り掛けの部誌をぺらぺらとめくり……。
「……ああ、ここね? カレイ……が、ケレイになってる……」
問題の個所を同じように見つけたのは、ナオの隣……長い黒髪をポニーテールにきっちりと結い上げた、清潔感溢れる女の子だ。
副部長の日下部凛……通称リン。やや大き目の眼差しが、鋭くその場所を見つめていた。タケがその声に嬉しそうに頷く。
「そうそう。さすが俺のリンちゃん」
「……あんたのモノになった記憶は、これっぽっちもございません」
「相変わらずだなあ。リンだけだよ? 俺の誘惑に乗らないの。……まさか、ホントにアッチの……。うわっ!」
大袈裟に驚いたように瞳を大きくするタケに、作成途中の部誌が跳んでくる。勿論リンが投げたのだ。
タケは手にしていた部誌で防御する。
「あっ……ぶないなあ。俺の綺麗な肌に、傷がついたらどうすんだよ」
「ちょっと傷がついた位が、丁度良いんじゃない?」
「……酷い。お嫁に行けなくなっちゃう」
「てめえは女か」
「きゃあ。リンちゃん相変わらずカッコいい」
両手が自由になったリンは、腕を組みながらタケを睨みつける。
タケは手にしていた部誌と跳んできた部誌を机に置くと、両手を頬に当てながら瞳を潤ませた。
そんな二人のやり取りに、割って入ったのは斉藤由香……通称ユカ。大きな瞳をキラキラ瞬かせながら、憧れの表情でリンを見つめる。
「ホントにリンちゃんは、イケメンね。そんじょそこらの男子なんか目じゃないよ」
「ユカ……。お前今、ここに居る男子を全員敵に回したぞ」
様子を見守っていたナオが、思わず口を挟んだ。
「ええ? でもそう思ってるのは、私だけじゃないよ。ねえ? アユ」
そう言って、ユカは眼差しを横へ向けた。そこには机に向かって、黙々と作業を進める女の子がいた。
顎下で綺麗に切り揃えられた黒髪が、少女の動きと共に微かに揺れる。
「……おおい? アユ?」
「……あっ! はい。すみません!」
「いや。怒ってないけどね」
「あ……。すみません」
生真面目なのか、先輩が怖いのか……。
一年生の通称アユ……吉沢亜由美はいつもこんな感じだ。
恐縮したその様子に、ユカは苦笑する。
「あのね? リンが他の男子よりカッコいいよね……って話してたの」
「ちょっと。もういいじゃんその話は」
ユカの言葉に、リンは片手をユカに突き出し言葉を制する。
……けれど。
「はいっ! 日下部先輩は私の大好きな人です。憧れです」
途端にアユが立ち上がり、リンへと視線を投げた。その眼差しは羨望の眼差し。
……若干頬が赤く染まる。
リンは、大きく肩を落とした。
「いや……うん。まあ……有難う」
「……モテるオンナは辛いな?」
「……殴るよ」
何処かからかうような声が、リンの頭上に落ちる。隣に居るナオだ。
ニヤリと楽しげに笑うナオに、リンは憮然とした表情で返す。
「……あの……」
そんな中……申し訳なさげに手を上げた者が居る。
もう一人の一年生……中西進だ。線の細い体型の所為か、存在感が若干薄い。
通称はシン。名前はススムだが、部員全員が二文字で呼ばれているので、入部間もなく強引にその呼び名が付いた。
シンは手を上げたままおずおずと、言葉を続ける。
「ルビ……の件は」
「ああ。そうだよ、それそれ。誰だよ話横に逸らしたの」
「お前だろ」
シンの弱弱しい声……言葉に、タケは思い出したように大きく頷く。
タケの言葉にすかさずツッコミを入れたのはナオだ。
タケは可愛らしく小さく舌を出した。
その仕草にナオはため息を漏らす。
「で。どうすんだ? ここ打ったのお前だろ? 全部刷り上ってるわけだし、打つ手があるとすれば、お詫びの小さな用紙を差し込んで、訂正するとか? よくあるよな。ここはこうなってますが、これですよ。みたいな」
「それだと、実際読み進めていった時の文字は、訂正されてない訳だろ?結局間違ったままじゃん。そう言うの嫌だなあ」
「じゃあ、一つ一つ修正テープ貼って上から手書きするか? かなりの手間だぞ」
「でも、手書きだと作品のデザインがそこだけ崩れちゃうし……。ちょっと美しくないよねえ」
「……まさか……」
自分の出した提案がことごとく否定されたナオは、ゆっくりとタケの傍へと歩み寄る。タケの座っていた椅子の傍にある机に片手を置くと、タケへと顔を近付けた。
「そこのページ刷りなおして、最初から作り直すとか言うんじゃないだろうな」
「んふ。ご名答」
ナオの睨みつけるような眼差しにやや怯みながらも、タケは負けていなかった。
ナオの震える言葉に、弾む声を返す。
──バンッ!──
ナオは思わず手を置いていた机を叩いた。
「何考えてんだ! 文化祭明日だぞ! 製本作業だって今までやって、漸く終わりが見えて来たんだろ!」
「まあまあ、そう声を荒げなくても……血圧上がるよ?」
「茶化すな!」
自分の言葉の大変さが分かっていないようなタケに、ナオは今にも殴りかかりそうな勢いだ。
慌てて、シンが間に入った。
「先輩……落ち着いてください」
「落ち着けるか! そもそもお前が締切間に合わせなかったから、いけないんだろ。印刷室の利用も、お前の為に最後に回してもらって……挙句にこれかよ!」
「いやほら。俺って完璧主義者だろ? しかも俺達二年生だし、この文化祭で事実上の引退じゃん。だったら、中途半端なものは出せないっていうか……」
「そんなもん言い訳になるか! 俺もリンもユカも、立場はお前と一緒だ! お前だけ……!」
タケへのナオの言葉は止まらない。
必死に間に入るシンも、ナオの勢いに押されている。
ユカとアユは遠巻きにその様子を見守っていた。
──けれど。
「ナオ。ストップ」
ナオの腕を強く引っ張って、言葉を止めたのはリン。
ナオが、言葉を発する前に、自ら声を上げた。
「タケは原稿の訂正を。終わったら皆と一緒に、止めたホッチキスの針……全部外して。私は三原んとこ行って、印刷室使えるかどうか聞いてみる。」
「……リン……」
思いがけない言葉だった。その台詞に、誰もが驚いたように表情を固める。
ぎこちない声で、リンの名前を呼ぶ……。ナオですら、それが精一杯だ。
リンはナオを見上げると
「……良いものを作りたい。それは、皆一緒でしょ? まあ、だからと言ってタケの事を許せるわけじゃないけど……」
言いながら、リンはタケへと視線を流す。
タケはビクリと肩を震わせた後、申し訳なさげに笑みを浮かべる。
リンは肩を竦めた。
「──時間が無いわ。ユカ、アユ、手を動かして。……そっちの男子も」
「りょうかいっ。やっぱ、リンはイケメンだねえ」
「イケメンやめろ」
ウキウキとした表情で、ユカがリンに敬礼のポーズを。
弾むその声にリンは大きく肩を落とし、言葉を制止する。
アユは既に作業に取り掛かっていた。
その姿を視界に入れたリンは満足気に瞳を細め……歩き出した。
「待て」
その動きを止める声が一つ。
リンは、立ち止まり振り返る……と、ナオがリンの元へと歩み寄っていた。
「──俺も行く。……タケ、サボるなよ」
「まあ、此処に来てそれは無いっしょ」
ナオが振り返るのと、タケの返答は同時。タケは既にパソコンに向かっていた。その様子に、ナオが小さく笑う。
慌ただしく作業が始まる中、ナオとリンは足早に部室を後にした。