公爵夫人は夫を愛している
エスメラ・デュナ・ハイラス=フィズ公爵夫人。
この名前を耳にした者はおそらく10人中7人は彼女を悪女だと眉を顰め、声を潜め悪しざまに誹り、残りの3人の内2人は無関心であり、残りの1人は何か夫人には事情があるのだと、涙ながらに庇うだろう。
だが、彼女は他人からどうこう思われようが痛くも痒くもないらしく、却って煩わしいとしか感じない人物のようだ。
とかく身体の弱い妹からの評価など、塵芥と同じかそれ以下だと思っているのは、公爵家に仕える人間であれば誰もが知りうる暗黙の事実である。
こんな彼女に誰が好意を寄せようか。
そんな奇特な人間は少なからずこの王都にはいないと断言できるが、残念なことに彼女ほど貴族らしい貴族女性はおらず、また、才もなく、若くして公爵位に就いたフィズ公爵は己が恋情よりも政治家としての立場を選び、エスメラを妻に迎え、ある程度の享楽や遊興には目を瞑ったっていた。
が、いくらなんでも、例え宮廷一彼が穏やかで優しいと噂されはしても、彼も人間であるがゆえに到底許せない妻の振舞いがあった。
それは何かと言えば。
ほろほろと、フィズ公爵位にある青年――ミハエル・ジュリ・ランサー=フィズ の前で宝石のような透明な雫を流す、レーニャ伯爵令嬢。
彼女は、若き公爵、つまりミハエルの秘かな想い人であると同時に、妻たる女性の異母妹に当たり、ミハエルはこと義妹のこととなると、誰よりも己が妻であるエスメラを烈火の如く叱責する。
恋は盲目である。
如何に名君と噂されよう賢王でも、恋に我を失えば一瞬にして愚王となりうる。
つまるところ、彼はエスメラの妹が異母姉であるエスメラに苛められたと愛らしく訴えれば、簡単に愚者となるのだ。
この日は、以前土産で買ってきてもらったバレッタをエスメラに奪われた上に壊されたのだと、切々と涙ながらにエスメラの妹、アンジェラは瞳を潤ませ、ミハエルに訴えていた。
「お姉様は私のことが嫌いなんです。憎んでるんです。だから公爵様から戴いたお土産を取り上げて、っこんな風に、」
義妹の小さな両手の上に、ハンカチーフで包まれた自分が送ったモノが無残なものとなり果て、露わになるや否やミハエルは美しい顔を醜悪に歪め、唇を噛んだ。
だが、ここで感情のままに自分が行動してしまえばこの心優しい少女は悲しむだろうと思い直し、ミハエルは理性を総動員していつものように笑って見せた。
「形あるものはいつか壊れる。そのバレッタはその時に寿命を迎えたんだろう。今度は決して奪われることなく、壊れないものを贈ろう」
そんな優しくて切ない二人の儚い触れ合いは、エスメラを溺愛する使用人らによって瞬く間の内に姿勢に広まった。
公爵夫人であるエスメラの卑劣で強欲、醜悪な噂と共に。
☆
「本当、頭が緩いのね。あの子ったら。それにしても旦那様はあいも変わらずあの子の前では愚かな道化になってしまうのね」
琥珀色の液体を喉の奥に流し込みながら、手のひらの上で弄ぶそれは件の妹が姉によって壊されたと涙を流してミハエルに見せた髪飾りの本物である。
これはいつものようにエスメラが賭け事をする館まで出向いた先に有ったモノで、なぜそれがここにあるのだと不審に思ったエスメラが子飼いの間諜に調べさせたところ、何ともまあ信じ難いことに、あの愚昧が売りに来たと言うではないか。
エスメラはその情報をもとに法外な裏金と心付けを上乗せした上で、本物と違わぬ模造品を作らせたうえで買い取り、店の主には忘れるようにと命じ、約束させ、思いだしては机の引き出しから取り出し、くつくつと嗤う。
「あのヒトは本当に仕方ないヒト。だから今は好きにさせてアゲてるのよ。この私がね」
浮気も男の甲斐性だと言うし、何より女性からアプローチも受けないような殿方なんて私には相応しくないでしょ?と、傍付きの侍女に問えば、侍女は恭しく頷いて見せた。
エスメラはこの侍女を特に寵愛していた。
この侍女は長い物には巻かれろ主義で、風見鶏的な所があるが、それは人としての本能に従っているだけであって、忠誠心がないというわけではないのだ。
ゆえに他の使用人らとは異なり、主が不利となる様なくだらない囀りはしない彼女を、エスメラはある種信頼している。
この娘ならば夫の愛妾に迎えてもいいのに、と思うほど。
が、当の本人である侍女の意見はと言えば。
「お断りします。わたしは奥さまみたいにあんな独りよがりな自己陶酔型の男性は愛せません。50リベラ払われたって絶対に愛妾なんかなったりしません」
「あらあら、あれでも結構宮廷では他のご令嬢方にも熱視線を浴びているのに?」
「それは奥さまが選び抜かれた贅を凝らした装飾品や衣装、そして王家と言う血筋があるからだと愚考します」
「ふふふ、あなたも結構辛辣ね。でもそこが貴女のいいところよ。でもね、そろそろあの人には夢から覚めて頂かないと、このままではあのボンクラ共と共にゆくゆくは破滅しておしまいになるわ。それだけは避けなければね?」
クイッと、グラスを傾け、最後の一口を飲み干したエスメラこと公爵夫人は、鈴を鳴らし幾人かの私兵を呼び寄せ、密命を与えた。
後日、王都では数人の貴族の子息が廃嫡され、王太子に至っては廃位され、新たな太子には幼いながらに聡いと噂されていた弟王子に決まり、レーニャ家のもう一人の娘については種違いということが判明し、母親と共に貴族を謀ったと言う罪で、王城の前において200以上の鞭打ちの刑がなされた後、平民より暮らしが貧しい奴隷へと身分が落とされた。
その処罰を受けている際、愛くるしかった元異母妹はこう叫んでいたという。
「絶対あの女よ!!あの女も転生者なんだわ!!悪役のクセに!!私がこの世界のヒロインなのよ!!」
それを侍女から渡された新聞から読み取った公爵夫人ことエスメラは。
「まあ、この方、気でも触れていたのかしらね。自分が世界の主だなんて。なんて恐ろしい思考を持ってたのかしら。女神さまがお怒りになり、罰が与えられたのも解るような気がするわ」
ゆったりと、完璧な温度で淹れられた紅茶を飲みながら、途惑いの笑みを浮かべつつ、落ち込み、戸惑いの表情を隠さない夫である男を見て、たった今思い出したと言わんばかりに、ぱちっと、胸の前で両手を合わせ、化粧台の引き出しの中から例のモノを出した。
「旦那様、わたくし、先日これを見つけて気に入って買ってしまいましたんですが、わたくしの髪の色と似合わなくて...、侍女のラランに下げ渡しても良いのか迷ってしまって」
ミハエルはエスメラが差し出した赤い布に包まれているバレッタを見るなり大きく目を見開き、何度か口を開閉させた後、深々と溜息を吐き。
「いや、ララナには確かに似合うかもしれないが、身分相応のモノでなければ与えられたララナも不幸になってしまう。それは装飾を取り除き、作り直すなり売り払えばいい」
「そうですか、せっかくいい買い物が出来たと思いましたのに、残念ですわ」
しんみりとエスメラが珍しく落ち込んでみれば、寸の間際で今回の騒動から救い上げられた公爵は苦笑しながらも、己が妻たる女性を見つめ直した。
確かにエスメラは傲慢で金使いが荒いところはあるが、基本は人のモノを羨んだりしない。羨んだりするくらいならば、それ以上に美しい何かを探し出す人格だ。
今となっては恥辱の過去となった少女の言葉を信じていた自分が愚かしい。
エスメラは夫であるミハエルのそんな思考さえも、心理の内で見ぬきつつも今日も艶やかに、そして傲慢で容赦なく湯水のように金を使い、社交界と言う醜くも誉れ高い世界を悠遊と泳ぎ、愛を囁き、嘯く。
愚かな子。
転生者としての知識を使わなければわたくしの敵になることもなかったのに。
わたくしのものに手を出すからこうなるのよ。
怨むのなら自分を怨むのね―――?
エスメラは膨らみ始めた腹を撫でながら、つかの間の一時を愛する夫と堪能した。
エスメラ:転生者だったけれど、前世の生き方を片っ端から否定し、貴族として生きた女性
ララナ:長い物には巻かれろ気質な侍女。エスメラに寵愛されてるがゆえ、逃げられない
妹:エスメラに勝てると思い上がった少女
ミハエル:罪を犯す前に何者かによってギリギリで免れた、実は国王の年の離れた弟