第七話 『夢と迷い道 二』
「何て言うか……効果絶大だな、ある意味」
母から『幸運のお守り』を渡されて、まだ一時間も経っていない。
貫二にとっては二枚目の黒い羽根だが、先ほどから凶兆に拍車がかかっている。
朝、庭から戻ってきた曾祖父の顔は真っ青だった。
『裏庭で……竹の花が咲いとった』
『え、竹って花が咲くの?』
『滅多にないけどなあ。以前咲いたのを見たのは、儂が貫二ぐらいのときだよ』
『じゃ珍しくていいじゃないか』
『……逆だ、悪いことの前触れだよ』
悪いことはもう十分起きている。そう言いたかったが黙っておくことにした。
『曾祖父ちゃんが言うと何か重いな……とにかく俺もう行くから』
『朝練か?』
『うん』
『新人戦か、頑張れよ』
『ありがと──あ』
ブチッと、出掛けに靴の紐が切れた。ぼうっとして土間で傘をさしたところを曾祖父にとがめられた。家の中で傘をさすのは元々タブーだった。災いを招くらしい。しかもその傘には穴が開いていた。
家から駅まで、坂を下るだけの間に霊柩車を見かけること九回、黒猫が前を横切ること八回、道端で運悪く轢かれた小動物に遭遇すること四回、それをつつくカラスも──以下同文。
そして行きの電車、三駅の間の出来事だ。
やたらと空いている先頭車両。向かいに座る五人の高校生が貫二を威嚇していた。
「──何で悪いことって重なるんだろうな」
「おい、何か言ったか?」
「漏らしたって言ったんじゃねえの?」
「マジかよぉ、きったねえな……ギャッハハハハハハッ!」
「お前には用はねえから、さっさと他の車両に消えな。あでも、ケツポケに入れてる財布はよこせよ」
「グヒャヒャヒャヒャ! どうせ大して入ってねえんだろうけど、そっちのネエちゃんと遊ぶのに使ってやるよ」
──蜂高生か。
改造に改造を重ねたらしき制服に校章は見えない。だが今日び、あそこまで柄の悪さを前面に押し出している学校といったら──蜂裂高校しか思い浮かばなかった。
こんな朝早くから絡みに来るとは。
貫二は、自分の隣に座る迫凪映子を見た。制服を折り目正しく着こなし、髪を高く結ったクラスメイト。凜とした横顔はいつも通りだが、今朝はその目が据わっている。
「映子、お前何で朝っぱらから誘われてるんだ?」
「こっちが知りたいわよ、今何時だと思ってるの」
「まだ六時台前半だな」
「この雨で久々の電車通学なのに……ありえない」
「ほんとモテるなお前」
「全っ然望んでないから」
感情を殺した顔で制服のポケットを探っていた映子が、手の中で小さな金属の筒を二つ光らせている。
貫二は慌ててその手を掴んだ。彼女の護身具だが、今は揮うにふさわしい時間と場ではない。手の内は隠したままでいてほしかった。
「おい電車の中だ。目立ち過ぎるし、確実にこっちが加害者になる」
「正当防衛よ」
貫二が電車に乗る前から、彼らは向かいに座る映子に卑猥な言葉を浴びせ続けているようだった。
彼女なりに耐えているのだろうが限界も近そうだ。もう片方の手もポケットに突っ込もうとしている。
──幾つ隠し持ってるんだよ……。
貫二は映子の両手を片手で押さえた。目で『今は堪えろ』と伝えたつもりだが、きちんと伝わっているのかどうかも怪しい。
「いいか、お前がそれを振り回したら」抑えた声で貫二は続けた。「気持ちは晴れても確実に過剰防衛だよ。補導されて、俺とお前で停学食らって」
「来週の新人戦には出られないわね」
「その通り」
手のひらの内側で、彼女の力みが若干緩んだのを感じた。
「……これでも我慢してる方よ、一応」
ぽそっとこぼした映子。その手を握り直して貫二は小さく笑った。「知ってるよ」
「おいゴラァ、さっきから何をコソコソしてるんだ? あ?」
「お前は混ぜてやんねえって言ってんだろ、お手々握ってんじゃねえよ」
「青春だねえ、ブッヒャヒャヒャ……」
蜂高生たちの声が車内に響いた。車掌が来る気配もない。
映子のことを次の駅で一緒に降ろすつもりだろうか。次は新山津駅。蜂裂高の最寄り駅で繁華街。あと五、六分で到着する。
降りる直前のどさくさに紛れて追い払うか。五人だ。よしんば自分一人だとしても、対処できない数ではない。
貫二は立ち上がり、彼らをさり気なく見やった。
辛うじて話が通じそうな男が一名。恐らく彼がリーダーだ。あとの四名は無理だろう。特に一名、モヒカンドレッドの男は目つきからして異常だ。
言うだけ言ってみるか。
貫二はリーダーらしき角刈りの男に話し掛けた。
「なあ、お前らもこんな朝早くから電車に乗ってるんだから朝練か何かだろ? 問題起こしちゃまずいよな、お互い穏便に行こうぜ」
あと少しの辛抱だ、適当に会話してやり過ごそう。
だが角刈り男は下卑た笑いを浮かべて言った。
「その手には乗らねえぜ、お前、新山津に着いたら俺らが降りるとでも思ってるんだろ」
「違うのか?」
モヒカン男が横から割り込んだ。「そこのネエちゃんをコマすように言われてるんだから、捕まえるまで降りねえよ、ブッヒャヒャヒャ!」
──なんだ?
貫二は振り返って映子を見た。立ち上がり、小さく首を振っている。心当たりはないという顔だ。
「……誰に言われたって?」
「ヒャヒャヒャ! んなこと言ったらなーんも貰えねえ、吐くわきゃねーだろ。けど、そうだなあヒントぐらいはだそうかなあ~女だよ女」
「女……?」
「そう、女ってのはほんと怖いねえ、お前だって何も知らないわけじゃ──」
角刈りが制した。
「おい、余計なこと喋んじゃねえ」
小さく舌打ちしたモヒカン男は「ま、いいけどよ」と下がっていく。角刈りに促された四人は車両の端に行った。
そこのヒョロ長、と角刈りが貫二を見上げた。「俺たちが補導されることはない。この車両で何が起ころうともおとがめ無し、そう決まってるんだ」
「言ってることがムチャクチャだろ」
貫二のツッコミを無視して、角刈りは更に続ける。
「いいか、この車両はいわば治外法権、なぜならばぁ──えっーとお前ら、ここが何専用車両か知ってるか?」
貫二も映子もきょとんとした顔で首を振る。
「知らん」
「女性専用車両……じゃないわよね?」
ギャハハハハハ! 五人の笑い声が車両に響いた。「ここは──」
「蜂高専用車両だからだぁ!」
貫二は呆然とした。
「結局誰一人、話が通じるヤツがいねえ……!」
「今更何言ってるのよ!」
動く電車の中で蜂高生たちが一斉に襲いかかってきた。五人は勢いをつけて突っ込んでくる。わざわざこんな狭い場所で……!
もうどうにでもなれ!
「いいよ映子!」
「言われなくても!」琥珀色の瞳が光った。
長い時間のようで一瞬だった。
しなやかな豹のように一人に狙いを定めて、映子がその胸元に入り込む。
「ひッ……?」あまりの素速さに男が言葉を失った。「あ……あ……」
怯んだ相手が再び声を上げる前に、彼女は肘を相手の腹に突き上げた。声もなく崩れ落ちる男。
「くそッ!」映子の背後にいた男が頭を狙って両腕を振り上げる。貫二が叫んだ。「後ろだ!」
映子は振り返ることなく横に避けると、慣性力を利用して男の脛を回し蹴った。「ぐあっ!」
ズテンと大きな身体が倒れる音。そして追撃。これで二人目。
「こ、このアマァ……!」
襲いかかる三人目は、貫二が出した足に引っかかった。「ぶッ!」転ぶ男をそのまま踏みつけ、モヒカン男が貫二に襲いかかる……!
貫二はスクールバッグを抱えたままヒョイヒョイと拳をかわしていった。
「もうやめようぜ、このまま続けてもいいことないって」
「るっせえ! 男のくせに……ハァハァ……逃げんな……ハァハァ」モヒカンは息切れしている。
〈間もなく新山津~新山津~三番線に到着します~、お出口は~左側です〉
アナウンスとモヒカンのキレた声が重なった。懐から出したのは光るナイフ。
「ギャヒィィィィッ! もうめんどくせえ……殺してやるッ!」
角刈りが慌てた。
「おいやめろ! さすがにそこまでやれとは言われて……ブゴッ!」
モヒカンが鼻をへし折った。倒れる角刈り。「ア……アガ……」
「こっちはなあ……ハァハァ……アレが切れていい加減イライラしてんだよッ!」
貫二は内心舌打ちした。ヤク中か。
「ビシャアアアアアアアアアッ……!」
奇声を発したモヒカンが再びナイフを持って突っ込んでくる。ブレーキのかかっている車内だ。今度は慣性に逆らって進むからか、モヒカンの動きは鈍い。
「貫二君!」映子が叫んだ。彼女は倒れた男たちを縛っている最中だ。
バッグのサイドポケットを触った。小刀の硬い感触。お守り代わりの錆びた伝家の宝刀だった。
自分も抜くか。いやダメだ、こんなことには使えない。
迷う貫二の隙をつき、男がその喉めがけてナイフを振りかざす!
〈新山津~新山津~左のドアが開きます~〉
停車してドアが開いた瞬間だった。何かが、モヒカンのこめかみめがけて一直線に飛んでいった。
「アヒ……!?」
モヒカンはそのまま伸びて動かなくなった。
「おはよう貫二、映ちゃん──朝から大変だね」
三番線ホーム最前列。にっこりと笑う長身の男子高校生に、貫二は手を上げた。
「おう、おはよう舞」
ふーっと息を吐く貫二に、映子は驚いた顔を向けた。
「東並君……?」
東並舞。彼こそ山津高校水泳部の現エースだった。
※
新山津駅、駅事務室。
貫二と映子は駅員に状況を説明していた。
「──それで、お嬢さんのことを早朝ナンパしそこねた蜂高生たちが、次々とショックで倒れたってわけ?」
若い駅員が向いた先にはいかつい男子高校生が五名。皆気を失い転がっている。事務室まで運ぶのに、駅員たちも苦労していた。
「どうなんでしょう……でも、そうかもしれませんね。私も皆さんが倒れていくのを見て、気が動転してしまって」
「縛ったのは何で?」
駅員が貫二の方を向く。どう言うかなあ、と目線を上に泳がせていると映子が手を上げた。
「防災用のロープなんです。速やかに駅のホームに運ばなければ、と思いまして」
──そりゃちょっと苦しいな。
とはいえ、虫も殺さないような表情で切々と語る映子は、誰がどう見てもか弱き深窓の令嬢だった。
実際、迫凪家といえばここら辺では日露戦争時に財を成したことで知られている家だ。彼女は本物のお嬢様ともいえる。それを本人に言うと『イヤミかしら?』と冷ややかな言葉が返ってくるだけだが。
「──じゃ、彼らの顔や身体のあざは?」
後ろを親指で指す駅員に、映子は首をかしげた。
「さあ……私にもさっぱり。倒れたときに打ち所が悪かったか、または寝不足ではないでしょうか? 時家君もそう思いません?」
いやどう見たってクマじゃなくて青あざだろう。
同意を求める映子に、貫二は言葉を濁した。
蜂高のヤク中生徒が全部やったとも言い切れない。得物こそ出さなかったが、先ほどの二人目は映子がえげつない足技でしっかり落としていた。
「ふむ……ま、いいか」
「はは……」
「それじゃ、もういいよ。あとはこちらで処理しますから」
「ではぼくらはこれで」
出ようとする二人に、「あ、そうそう」と若い駅員が声を掛けてきた。
「はい忘れ物。モヒカンドレッドの子のそばに落ちてたよ」
軽くウインクをして駅員が言った。
「何にしても彼らもこれでしばらく懲りるだろ。なにせ勘違いしてる子ばかりでね、助かったよ」
なんだ、結局全部気付かれていたのか。
貫二は「どうも」と乾いた笑いで、黒い小さな物体を受け取った。
※
「貫二、映ちゃん、大丈夫だった?」
再び駅のホームへ出てきた二人を舞が出迎えた。
百八十を越える身長に彫りの深い顔立ちの舞は、貫二から見ても目立つ存在だった。モデルのような容姿はイギリス人の父の血が強く影響しているのだろう。その父も、日本人の母も現在海外勤務中だという。新山津駅近くのマンションで一人暮らしをしている彼を、あの手この手で女子が訪問しようとしてはセキュリティに阻まれて失敗しているらしいと守が面白可笑しく語っていた。
制服を適度に着崩し、スマートフォンを操作している彼を、女子高生やOLが振り返り眺めている。
「ありがとな舞、平気だよ」
駅の方もあのメンツに手を焼いていたみたいだと、貫二は舞に説明してから隣を覗き見た。ほんの少し頬を膨らませた映子と目が合う。
「お疲れさん、朝から大変だったな」
「……あの電車の中のことよりも、駅員さんへの説明が大変だったわよ。貫二君黙りっぱなしなんだもの」
「いや、お前が言ってくれてよかった」
それは本当のことだった。あの駅員もまさか彼女が蹴散らしたとは思うまい。
「どうだか──それより東並君」
貫二の手から先ほどの小さな物体を取った映子は、人差し指に嵌めて言った。
「これ、指ぬきみたいに見えるけど……何かしら?」
指の第一関節まですっぽりと覆うペンキャップのような物体。
映子は初めて目にするのか。貫二は舞の顔を見た。
「うん、そう。指ぬき。ていうかよく知ってるね映ちゃん」
「あ、本当に指ぬきなんだ……家の裁縫箱の中にあるのよ、このタイプのものが。でもこれ、すごく重いわよね、何でできてるの……?」
映子は指に嵌めては外しを繰り返している。「当たったら痛そうね」
事実、モヒカンが一発で沈んだ。陶器でも、プラスチックでもないずっしりとした重金属。
「タングステン製。このシンブルはね、僕の『幸運のお守り』なんだ」
ちゃんと針と糸も持ってるよ。そう言って映子から指ぬきを受け取った舞は、左から右に飛ばすような仕草をしてポケットにしまった。
※ ※ ※
貫二たちが電車に乗ってから十五分後──。
「私も忙しいんだから、こんなことで呼ばないでよ」
駅事務室を訪れた女が一人。
「こっちはなぁ、こいつらのことで元々迷惑してたんだ。早く連れて出てってくれ」
若い駅員が足先でモヒカン男を転がした。「起きろ、お迎えだ」
「う……あ……あ……」
モヒカン男はろれつが回らない様子だった。
他四名はいまだ気を失ったまま、ピクリともしない。
「情けないわねえ、たかが生娘一人に手こずって」
「え、男の子の方じゃないのか?」
「娘の方よ、やったのは。あの少年は前に出るタイプじゃない」
「へえ、あのお嬢様がねえ……」
二人の男女の傍で、モヒカンが突然笑い始めた。
「あ……クス……クスリ……ギャ、ギャハハハハハハハハ……!」
「……もうダメねこいつ」
「どうするんだ?」
「ここ駅だし、マグロにしちゃえばいいんじゃない」
事もなげに言う女。
「おいふざけんな、ただでさえ最近多いんだから、こっちの身にもなれっての」
余計な仕事を増やしてほしくはない、駅員は女を睨んだ。
「お前の管轄だろ、責任持って処分しろ」
「しょうがないわね……じゃあ今晩また使おうかしら」
「何に?」
「ふふっ」女は笑みを浮かべてモヒカン男を一瞥した。
「天狗を呼ぶ餌」
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