第六話 『夢と迷い道 一』
夢を見ていた。幼い頃の夢だった。
三歳年上の兄と、裏庭の奥の林で遊ぶ夢。手先が器用な兄は、遊び道具ならばと何でも作ってみせてくれた。主のいない中三階の屋根裏部屋には、兄が美術展でもらったトロフィーが所狭しと並んでいる。
『貫二ほら!』
まだ小学生の兄が見よう見まねで作ってくれたのは玩具の腕時計だった。それは両親たちが驚くほど精巧にできていた。
並外れた観察力と好奇心、面白いことが大好きだという兄。その兄を見て昔の自分にそっくりだと笑う曾祖父に、家族は皆あいまいに笑い返すだけだった。曾祖父の当時の姿を知る者など誰もいない。
今年で九十六歳になる曾祖父だが、若い頃の写真など無かった。戦時中のドサクサでほとんど紛失したという。曾祖母は祖父とその下の子を何人か産んだのち数年後に亡くなったと聞く。再婚はしなかった。
曾祖父に似ていると言われることを、兄は喜んでいたように見えた。だが五年前のある日を境に、曾祖父と兄との間には深くて大きい溝ができた。
迷子になった奈緒を連れて帰った五年前のあの日。不思議な少年と出会い、まじないの言葉を知ったあの日から──。兄と曾祖父が言葉を交わすことはなくなった。
蔵から出てきた鉄吾の泣き顔、兄の陰りのある顔、見たこともないほど険しい曾祖父の顔。
それらが全て貫二の頭の中で回り、一つの黒い影になっていった。
『この星に、この地に、この家に長く縛られ続けて……ようやく解放されたのだ。相応の報いは受けてもらう』
どこかから響いてくる声。去っていく兄。追えども追えども兄は離れていく。
兄に追いすがる自分の背を突然何かが貫いた。一瞬何が起こったのか分からなかった。熱が、焼けるような熱が背中に集まっていく。
息を呑んだ。
振り返ると黒い天狗の面が、冷たくこちらを見下ろしていた。
※
目が覚めた貫二が最初に見たのは、書庫の高い天井だった。
──あ……俺、いつの間に……?
ソファから起き上がると、背中に冷たい汗が伝った。
「最低な夢だな」
声に出すとより一層、酷さが増した。後ろから刺されるとは。
時計を見ると深夜一時十分過ぎ。
天狗の黒い呪い──不幸の手紙の文言を調べていて、そのまま眠りに落ちていた。あの一文をどこかで読んだ。どこでだったか。夢にまで影響を及ぼし始めたのだから、早くどうにかしたかった。
手紙の送り主であるクラス担任からは、いまのところ何の返信もない。
今更ながら鼻をつく香りに気がついた。線香……?
香が白煙をくゆらせている。壁一面の本棚、その一角に設置された電気香炉を覗いた。中には琥珀色の石がギッシリと隙間なく詰まっていた。
──置きすぎだろ。
タイマーコンセントごと電源を引き抜いた。まだ頭がクラクラする。
「貫兄……! 裏庭で爆発して! 死体と鉄仮面と……あと羽根が!」
血相を変えて飛び込んできた奈緒が、書庫に入ってきた途端にウッと顔を歪めた。
「何これ……ゲホッ……お香……? 焚き過ぎでしょ……」
「俺もそう思う」
書庫の窓を開け放して空気を入れ換えている間、貫二は奈緒から事情を聞いた。
妹の話は、にわかには信じ難いものばかりだった。裏庭の爆音、死体を漁る鉄仮面、だが──。
「貫兄に返すって」
渡されたのは血糊のついた黒い羽根。鉄仮面が探っていたのは女の死体だったという。胸騒ぎがした。
スマートフォンの明かりを頼りにして貫二は裏庭に出た。松の木の下まで行き、付近を照らす。奈緒の話ではこの辺りだと言っていたが……。
「これか……?」
一人呟いた。
焼け焦げた臭い。黒く、細長い物体を拾い上げた。炭化したそれは貫二の手からボロボロとこぼれ落ちていく。
強い突風が貫二の手から黒い羽根を巻き上げた。鉄臭さと煙草の香りが空に舞った。
『私にはきっと幸運のお守りになると思うの』
数時間前に会ったばかりの看護師の言葉が、頭から離れなかった。
※
暗い裏庭で一人、貫二は土を掘った。
集めた炭を穴に入れ、黒い羽根を乗せてから土を被せた。
せめてこれぐらいは──。
真っ暗な空を見上げた。
十日月までに見つけろといっても、その正体がわからなければ……。
闇の中、手探りで進む状態がもどかしかった。
※
「貫兄、どうだった?」
書庫で出迎えた奈緒に貫二は首を振った。
「お前の言ってた身体の一部だけど、消し炭になってたよ」
「な……」
言葉を失う妹に、貫二は慎重に言葉を続けた。
「奈緒、お前が見た死体だけど……俺が病院で会った人なのかもしれない」
「どうして……何で死ななきゃいけないわけ?」
「わからない、でも鉄仮面は何かを探していたんだろ? だから──」
「何かに巻き込まれた?」
貫二は頷いた。何を探して持って行ったのかはわからない。わからないことだらけだ。
「……貫兄、私あの鉄仮面が許せない。うちの庭に入ってあんな……死んだ人にひどいことをして、私のことも脅して」
わなわなと震えている妹に、貫二は同情した。言う通りならば、余程むごいものを見たはずだ。
「それに」奈緒は震える声で続けた。「あいつうちの懐中電灯も取ってったんだよ!」
人の物を取っていくなんて犯罪でしょ! と憤る妹に「そっちかよ」と思わずぼやいた。
「絶対、あの仮面を剥いでやるんだから! それでもって……」
「どうするんだ?」
「ちゃんとごめんなさいをしてもらって、懐中電灯も返してもらう」
「相手はどんな奴かも分からない。殺人鬼かもしれないぞ」
「構わない、正体を見た上で警察につきだしてやる!」
変なところで妹の熱血スイッチが入ってしまったと、貫二は息を吐いた。
「とにかくさ、あと数時間もすれば夜が明けるし──ちょっとだけでも寝た方がいい。眠って金曜を乗り切って、考えるのはそれからだ」
※
奈緒にはそう言ったものの、結局貫二は一睡もできなかった。
明け方から降り始めた雨が、貫二の心を一層憂鬱にした。
夜中の香が響いて、まだ頭の芯が痛む。奈緒以外の家族全員が皆同じ様子だった。
「山津高校の、駅の反対口にね、お香とか売ってるお店があるのよ。お母さんイライラしちゃうことが多いから、テッちゃんのママからそこのお店を教えてもらったの」
他の家族が食卓を去ってから、母は貫二と奈緒に語り始めた。
更年期真っ最中である貫二の母は、湧き上がる衝動や虚無感に対してあらゆる対策を講じようとしているらしい。香を焚くのもその一環なのだろう。店では安眠香として乳香を薦められたとのことだった。
その琥珀色の石のような香を、家中になるべく多く焚くようにと教わってきたという。古い家だと知った店長が、タイマースイッチをおまけしてくれた。嬉しそうに言う母に、貫二と奈緒は眉をひそめた。
「どうみたって量が普通じゃなかった。なるべく多く? 母さんの聞き間違えじゃないの?」
「でもおかげでぐっすり眠れたわよ。そりゃちょっと効き過ぎたけど。二人の部屋にも置けばよかったかしら」
「あーいらないいらない、結構だから」
手を前に向けて振る奈緒に、貫二も同意見だった。
──奈緒がいなきゃ皆ぐっすりで、爆音とやらは誰も気付かなかったわけだ。
進まない朝食を無理矢理掻き込んだ貫二は、濃いめに淹れたコーヒーを飲み干した。香に燻されてソファで数十分うたた寝した程度、ほぼ徹夜の状態だ。カフェインに頼りたかった。
「にしても、やっぱりああいうお店ってお客さん女の子ばっかりなのねえ」
「奈緒、何か知ってるか?」
「それって山津高近くの店なんでしょ? 貫兄が知らないのに私が知るわけないじゃない」
「あらお店のこと知りたいの? 待ってね」
母は財布の中を探しながら言った。「なかなか個性的な名前の店なのよねー、看板も派手で。お母さんが小さい頃にこういうお店、流行ったような気がするんだけど……」
「個性的な名前……」
それに派手な看板。ひょっとして──。
「夢何とか?」
「たぶんそれ、ほら」
尋ねた貫二に、母は名刺サイズのカードを出してきた。
やはりそうだ。駅から見えた雑居ビル二階の店。
『おまじないショップ 夢羅美林巣』
手広くやっていそうな店だと貫二は思った。石や香に開運グッズの販売といったところだろうか。
「ゆめらびりんす? 何かすごい名前だね、この店」
横から覗いた奈緒が感想を述べた。
「私が行ったときは夕方前だったんだけど、山津高校の制服を着た子がいっぱい居たわよ」
「貫兄本当に行ったことないの?」
「全くない」
「こういう話は疎そうだもんね、ごちそうさま!」
奈緒の方が神経が太いのかもしれない。貫二の目に空になった奈緒の茶碗が目に入った。今朝はいつもの倍食べていた。数時間でもしっかりと睡眠を取った妹は、キビキビとした動作で席を立った。昨晩からの勢いが続いている。そう感じた。
「あ、そうだ、すっかり忘れてた」
何だ? 貫二と奈緒は目を合わせた。
急いで奥から紙袋を持ってきた母は、はい、と二人にそれぞれ手渡した。
「貫二は大会近いでしょ、奈緒は高校受験のお守りにと思って」
二人同時に袋を開けた。
「これか……」
「……私も?」
「もちろん、二人によ。今幸運のお守りとして流行ってるんですって、ショップの店長さんお墨付きよ!」
ダメ押しだな。貫二と奈緒は黒い羽根を摘まんで、それから無言でしまった。食堂を去る二人に背後から声が掛かった。
「ちゃんと鞄に入れてね、幸運のお守りなんだから!」