第二話 『呪い 一』
九月二日。新学期が始まって早々、時家貫二の忙しさは拍車がかかっていた。
「実行委員は今日から毎日放課後、化学実験室だからね」
新学期の二日目──昼休みにクラスの女子ボスからそう声を掛けられたとき、貫二はなぜ自分が文化祭の実行委員に加わっているのかを尋ねた。
文化祭の二日前は水泳部の新人戦がある。三年生も完全に引退し、一・二年だけで出る試合だ。新部長をやるはずだった相方が入院してしまった今は、自分が他の部員の練習も見る必要がある。学校行事も大事だが、シーズン中は部活の方に時間を割きたかった。
「だって、他の男子は皆面倒くさがっちゃって。時家君ならそういうの引き受けてくれそうだなと思って、私が追加メンバーの中に加えちゃった」
ボスは上目遣いに若干ドスの利いた声で「てへ」と言った。貫二はそれを見なかったことにして何とか交渉を試みた。
「でも、俺に確認しないで勝手に決められても困るよ。他にやってくれそうな奴はいないのか?」
周辺を見回すが、学食から一緒に戻ってきたはずの友人たちは見当たらない。
──そういえば、あいつら図書室に行くっていってたな。
口を開けば女の話題ばかりの友人たちが一体どういう風の吹き回しだと思ったが、とにかく他に代わってくれそうな男子はいなさそうだ。
「ねえ……私と一緒にやってくれるよね……?」
「いや俺今、水泳部の大会も近いし。守が戻ってくるまではそっちを見たいんだよ」
日野森守の名前を出した途端にボスの顔が歪んだ。
ああそういえばこの子、守の元カノだったなと貫二が思い出した瞬間、ボスの目から大粒の涙が溢れ始めた。
「ああ……ひどい、ひどいよ時家君」
「え?」
「わ、私……時家君のことだけ考えてたのに……私と部活どっちが大事なの?」
「はあ?」
クラス中の視線が貫二とボスに集中した。何かを盛大に勘違いされそうな状況だ。案の定、コソコソとした話声が聞こえてきた。
「うっそお、あの二人ってそういう仲だったの?」
「あれ、でも弥生って日野森君と付き合ってたよね?」
「じゃあ時家君が取ったってこと? 無くない? だって親友の彼女だよ?」
「何か日野森君が事故る前に別れたっぽいから、もう関係ないんじゃない?」
「そうなんだ、時家君ってそういうの気にしないのかなあ……あーあ、一部の女子が荒れそう」
待て待て待て。
耳に入ってくる無責任な会話にツッコミを入れようとしたが、まずは目の前のボスをなだめるのが先だと思い直した。
「あー古左和さんわかった、わかったから泣かないでくれ」
「よかった、付き合ってくれるのね」
ぴたりと涙を止めたボスを見て貫二はたじろいだ。
「あ、ああ……新人戦が来週火・水であるから、そのときは絶対に出られないけど。それでもよければ」
「別に部活のことは映子に任せておけばいいじゃない、放課後は一緒に行こうねっ! 検便も皆から集めたし、あとは模擬店の内容を今日中に固めなきゃ」
──なんてこった。
天を仰いでも、古めかしい天井が見えるばかりだった。
※
「ごめん。お前が今月は図書当番だったなんて知らなくてさ」
「もういいわよ別に。さっきB組に行って、春海君に一年生の練習をみてもらうようにお願いしてきたから」
放課後──迫りくる女子ボスを撒いた貫二は、図書室のカウンターと棚をいったり来たりしている迫凪映子を眺めていた。
『本返してから行くから、先に行ってて』とボスには一応断ってから来た。それに実行委員会の集合時間まではまだ少し時間がある。
夏休み明けだからか、カウンターには大量の返却本が積まれている。そのうち何冊かは背の部分が綻び、ページが破けているようだった。
「小学生でもあるまいし、こんな本の扱いをする奴がいるんだな」
「そうね、でもひょっとしたら小さな弟さんがいるのかもしれないじゃない?」
はい、と本を何冊か渡された貫二は、映子と並んで『民俗』の書架に向かった。
「係はお前一人なのか? こんなに本があるのに」
「もう一人の図書委員は誰だったか……貫二君はよく知ってるでしょ」
「守か」
「そう。それにちゃんと司書の先生もいらっしゃるわよ」
両手が塞がっている映子は、カウンターの向こう側を顎で指した。
「奥に?」
「ええ、今はノドの補修中」
「のどねえ」
自分の喉を指さす貫二に、映子はクスリと笑った。「貫二君、知っててやってるでしょ」
「本の内側のところだろ、でも俺の喉も実際よく潰れるから」
「そうよね……ちゃんと気を付けて」
「わかってるよ」
映子が持つ本を一冊取り上げて、貫二は自分の背の高さにある棚にしまった。
『呪いと山津の民俗』というけったいな題名に、貫二は既視感を覚えた。
「これ、映子が借りたのか?」
「と思うでしょ、でも違うの。返却手続きは司書の先生がやったと思うけど……誰が借りたか知りたいの?」
「いや、そこまでしなくていいよ。でもこういうのが好きな人間って映子しか思い浮かばなかったから」
「好きっていうか……ほら、私の場合」
彼女の琥珀色の瞳が少し曇ったのを見て、貫二は慌てて話題を変えた。
「あ、ああそういえば文化祭の出し物、今日決めてくるから」
「大体何になるのかは聞いてるわよ、昼休みにうちのクラスの、貫二君がいま一緒にお昼食べてる──」
「ああ、あいつら?」
「そう、おでん屋さんをやるのよね。彼らが図書室に来て手伝ってくれたとき、そう言ってたから」
そういうことか。貫二は昼休み終了直前に図書室から帰ってきた友人たちを思い出した。皆一様に顔が緩んでいた。
「あいつらが何を手伝ったって?」
「ポスターの張り替え。脚立を押さえててくれたのよ」
おいおい、あからさますぎるだろ。
貫二は映子の無防備さにいら立った。
「そういうのは、手伝うって言った方にさせるんだよ。お前がやる必要はない」
「なぜよ、私の仕事なんだから私がやらないと」
「じゃあせめて誰もいないところで替えろよ」
「人の善意を無下にはできないでしょ」
「バカ、善意のはずないだろ。前から思ってたけどお前は隙だらけなんだよ。そんなんだから──」
うっかり出しかけた言葉を、貫二はそのまま飲み込んだ。目の前の女子は冷たい眼で見上げてきている。
「そんなんだから、何?」
静かに聞いてきた。
「いや、ごめん。気にしてるのにな」
「……よくお分かりで」
無自覚なフェロモンを放出して周りの異性を刺激しているというのは、彼女本人も悩んでいることなのに。
花の蜜に引き寄せられるように彼女に惹かれ、思い余って告白し玉砕する。そんな光景を何度も貫二は目の当たりにしてきた。たまたま遭遇しただけで十は行く。実際はもっと多いはずだ。そして酷いことに、情欲を抑えきれずに集団で襲う男たちもいた。逆恨みしている男も多い。全て彼女自身が返り討ちにしてきたわけだが。
男が寄ってくるのは憑いている獣の『呪い』のせいだ。彼女は親戚からそう言われ続けて育ってきたらしい。気にしつつも心を折らずにいられる映子の精神力に、貫二は尊敬の念を抱いていた。
クラスでも一見誰とでも打ち解けているように見えて、実は誰にも心を許していない──そんな彼女のすぐ近くにいるという傲りが、どこかにあったのかもしれない。
「まあ、お前の『呪い』の件は……俺もずっと気になっててさ」
貫二は小さく、映子にだけ聞こえるようにして言った。
「……それで?」
まだふて腐れている映子の肩を軽く叩いて、貫二が笑った。
「実は先日、家の……蔵の掃除をしてたらさ、結構古い本が出てきたんだよ」
「え、古書……?」
映子の纏う空気がぱっと変わったことに心の中で苦笑しつつ、貫二は「そう、お前の好きな」と付け足した。
「保存状態はかなりいいよ、当然虫喰いもあるけど。民俗学の本もあった」
「み、見せてもらってもいいの……?」
「ああもちろん、念のため曾祖父ちゃんに確認してみるけど。きっとOKだと思うよ」
「あ……そうよね、貫二君の曾お爺様が所有してる物なのよね」
「いや所有っていうか、曾祖父ちゃんよりも更に前の世代が集めた本が、そのまま置かれてるだけだからさ」
「──ひょっとして和綴じも?」
「それもあるよ。家に見に来る?」
「あ、うん是非……!」
切れ長の瞳をキラキラと輝かせている映子の顔を見て、貫二は勘違いしそうになるのをぐっと堪えた。
「あのー、ちょっとお二人さん?」
気配すら感じさせなかった。
振り返ると、眼鏡を掛けた年配の女性が立っていた。にこやかに笑っている女性は白髪交じりの髪を一つにまとめて、冷房がきついのだろうか──長袖のカーディガンを着込んでいる。
「あ、すいません鈴木先生。私ったら」
「鈴木先生……?」
──司書の先生か……。
図書室は頻繁に通っているつもりだったが、こんな先生は見たことがなかった。
「時家君、私の顔に何かついてる?」
「え、あ、いや……すいません。その、あまりお見かけしないものだから、つい」
「そう、ふだんは奥にいることも多いし、それでかしら」
貸し出しと返却作業は、主に図書委員の子たちがやってるからね──そう言って鈴木はにこやかに笑った。
「それでね、時家君」
「あ、はい」
「すぐそこに二年A組の女の子が来ていてね」
「あ」
殺気を感じた。実に分かりやすい、ピリピリとした女の殺気だ。
「時家君……?」
「あ、弥生ごめん、私が無理言って貫二君に手伝いしてもらっちゃってたのよ」
ボスは映子を無視して貫二の方にズカズカと近寄り──そして腕を掴むとそのまま引っ張っていった。
「ごめんねえ映子、うちの彼氏が邪魔しちゃってえ」
「おい彼氏じゃないって、なんだよそれ」
「はあ……それはそれは、お引き留めして大変申し訳ございません」
「違うんだよ聞いてくれって……うわっ」
次の言葉が映子に届くことはなかった。女子とは思えない力に引きずられて、貫二は図書室を後にした。
9/21:一部修正、内容変更無し