第一話 『黒い羽根』(※)
八月三十一日、午後二時前──集中力を切らした時家奈緒があくびをかみ殺し始めたころだった。
屋敷全体にチャイムが鳴り響いた。来客の対応は奈緒にとって億劫なものでしかなかった。だが留守を預かる身としては表玄関まで出て行かねばならない。二〇二七年になっても未だにモニターホンが導入されないのは、家長である曾祖父が、頑として首を縦に振らないからだ。
奈緒の家はとにかく広く、そして古かった。遊びに来た友人たちに家のことを聞かれたら、取りあえず親たちが語る先祖の話を出していた。先祖は元々はとある戦国大名に仕えていた武将で、この家は江戸時代、藩主の参勤交代時に休み処になっていたのだと。
眉にしわを寄せて、内土間の高い天井を見上げたときだった。大きな黒い羽根が一枚、奈緒の頭に落ちてきた。三階ほどの高さにある曲がった梁に目を凝らしても、鳥の姿は見られない。
──カラス……?
だが羽音も聞こえない。黒く光る何かの羽根をクルクルと回しながら思案していると、再びチャイムが鳴り響いた。
「はいはい、今お断りに行きますって。どうせ押し売りでしょ」言いつつ、土間の上がりに羽根を置いた。
気を取り直して再びしかめ面になった奈緒は外土間への引き戸を開けた。怖い顔の効果は微々たるものかもしれないが、少しでも対抗するためだ。
最近は訳の分からないセールスがやってくる。先日は『姿の見えなくなる雨合羽はいかがっすかあ』と言いながら家の中に入ろうとしてきた不審者がいた。自称セールスマンはそのとき居合わせた次兄が追い払っていた。高校二年生とはいえ、次兄の睨みは迫力がある。実は長兄だとこうもいかない。怪しさ大爆発の人物だとしても面白がって、積極的に敷地内に入れてしまうからだった。
兄たちもいないし、とにかく今はアポなし営業マンを追い払えるのは自分だけだ──。
奈緒は肩を怒らせて重い表門を開けた。いざとなれば閂を振り回してから、掛けてしまえばいいのだ。
「うちはぜーんぶ、間に合ってますから!」
開口一番、その言葉を受けた人物があっけにとられた顔をしていた。
「あー、陣中見舞いなんだけど……奈緒、ひょっとしてダイエット中?」
次兄の幼なじみの、春海鉄吾だった。
※
「ねえテッちゃん、ごめんって言ってるでしょ……だから!」
「間に合ってるんだろ? 残念だなあ~せっかく買ってきたのに」
「やだ、ちゃんともらうから! 中身がダメになる前に早く冷蔵庫に入れようよ!」
「いや大変だなあって思ってさあ、こういう家の留守番も」
何度か手が空を切った後にようやく紙袋を渡してもらえた。中身を指さし確認してから箱を冷蔵庫にしまう。
「七個か、よし。ねえここのシュークリームって高いし、並んでも売り切れるでしょ」
よく買えたね、と言いながら奈緒は麦茶を注いだコップを鉄吾に渡した。
「うん、おれ昨日友達ん家に泊まったんだけどさ、それで帰りに寄ったんだ。そいつの住んでるマンション、すぐ隣がこのケーキ屋が入ってるビルなんだよ」
奈緒は『行列のできるシュークリーム』を売っているケーキ店を思い浮かべた。中学生の自分では全く手が届かない、高級店が並ぶ一画にある。都心でもないのに随分お高くとまっているビルだなと奈緒は常々思っていた。オープンして三年経つが、こんな商売はいつまでも続かないだろうと地元市民の間では専らの噂だった。
まあそんなビルの中にある店だから、たとえただのケーキ屋だとしても少し澄ましている感じはする。その隣のマンションといえば……。
「ひょっとして、あの四十五階建ての……?」
都内の複合施設を模して作ったと聞く、地方には珍しい高級マンションだった。
「そう、そこの三十三階。おれも初めて遊びに行ったんだ」
「すごーい、ご両親が何か会社でもやってるの? その友達」
「よくわかんないけど、共働きで両方とも今海外にいるんだってさ」
「ん? 高二で一人暮らしってこと? それって大丈夫なの……家事もするの大変じゃない?」
麦茶を飲み干した鉄吾は何ともつかないような表情を浮かべた。
「まあ、とても男の一人暮らしとは思えないキレイな空間だったよ」
「えーと、つまり?」
「常に身の回りを整頓してくれる女がいるってこと、多分な」
「なるほど、じゃあ彼女さんもいたの?」
「いんや、あいつしかいなかったよ。きっと遠慮してどっか行ってたんじゃね?」
首をふるふると振る鉄吾を見て奈緒はこっそりと笑った。いちいち仕草が可愛い。これを本人に言うと絶対に機嫌を損ねることになるのだが。
「にしても、テッちゃんに遠慮することなんてないのにね」
「お前なあ」
奈緒は鉄吾に土産話を催促した。いったいどんな部屋なのか、そこから見える景色も気になった。
だが鉄吾の答えは味気なかった。景色は暗いから覚えていない。それからすぐに言葉を続けた。
「何やったかって、もちろんゲームにきまってんだろ。おれたち最近妖怪のコイン集めてんの。え、夕飯? 適当だよ。あでも何かそいつ下の中華屋の常連みたいで、フカヒレチャーハン出前で頼んでたよ。すっげーうまかった」
中華屋と言ったが、そんなに気軽な店でもないはずだ。世界が違うな、と息を吐いてから奈緒は背伸びをした。
「シュークリーム、せっかくだからテッちゃんも食べてってよ。さすがの私でも三つは無理かも」
「いやおれ、奈緒だけじゃなくて貫二やおばさんたち用に買ってきたんだけど。ちゃんと一人一個で」
だから七個かと奈緒は納得した。
夏休みの最終日だし、長兄以外の家族全員いると思ったのだろう。
「ごめんテッちゃん、てっきり貫兄から聞いてると思ったんだけど」
「何を?」
「うち今いないんだー、誰も。親戚に不幸があってね、今そっちに行ってる」
「じゃあ貫二は?」
「今日はお見舞い行くって。明日から学校だし」
「あーなるほど。おれの父親も今日病院に行ってるんだ。多分同じ所だな」
「ふーん、何で病院に? おじさん病気なの?」
「いや、お見舞い……かな、一応」
「一応ってどういうこと?」
鉄吾は声の調子を少し落として言った。
「何か、いきなり倒れたらしいんだ。父親の行ってる会社で、すぐ近くに座ってる人だって」
しかも、と鉄吾は深刻な顔で一層暗い声を出した。
「八月だけで、これで四人目──そして全員、まだ意識が戻ってない」
※
「何でも仕事帰りに、スーパーで倒れたらしくって」
「年は?」
「まだ新卒、二十二歳の女の人。一人暮らしで、たまたま出先だったからすぐに救急車を呼んでもらえたみたいだけど。倒れたのが家だったりしたらと思うと……ゾッとするよなあ」
思いの外深刻な世間話に、奈緒は身につまされる思いになった。
「教育実習で来た先生たちと同じぐらいだなあ年齢──何か全然他人事じゃないねそれ」
実際、鉄吾の次の言葉をきっかけとして、この話は全く人事ではなくなるのだった。
「それでさあ、この話続きがあってさ。まあちょっと不吉なんだけど……四人とも若い女性で、皆意識を失う大体十日前に変なことを言ってたらしいんだ。四人が四人、皆同じことを言うんだぜ」
「変なことって……?」
「家の中にいるはずなのに──突然黒い、大きな羽根が落ちてきたんだって」
「あ、ウソ……」
奈緒は心臓を掴まれたような気分になった。
主人公は二人、時家奈緒(14歳)とその兄貫二(17歳)です。
二人の視点で話が進んでいきます。