E9-10:夢の終わり
樹は身体のみならず、精神をも侵食していく。
薄れていく意識の中で、走馬灯のようにこれまでの出来事が流れていった。
瑞葉と初めて出逢った日のこと。
彼女と探索した夜の学校でのこと。
俺の記憶を消していながら、なんだかんだで瑞葉がいつも見守り助けてくれたこと。
星の下で彼女を救うと誓ったこと。
そして、白い世界でのこと。
『俺は瑞葉と生きたいなあ』
『生きるよ、私は』
……ああ、そうだ。
あの時、彼女は既に『目が覚めていた』。
それでも、俺の手をとってくれたんだ。
だったら。
例えこれが神様の掌の上の出来事だとしても。
理屈抜きで、俺は彼女ともう一度逢いたい。
「……何の真似だ」
精霊の声が静かに強張る。
やっぱりこのまま黙って樹になるなんて嫌だ。
もう一度瑞葉と逢いたい。
同じ時を生きていたい。
――俺は、生きるんだ……!
「……!?」
最後の抵抗。
心で抗う。
血の通わない身体に血を回す。
――息吹け、俺の命。
運命だって乗り越えよう。
この身体が木偶になるのはまだはやい。
たとえ記憶を消されても、必ず彼女に逢いに行ったように。
例え心が樹に侵されかけても、俺は何度でもそれを打ち破ろう。
そしてまた彼女に逢いに行く。
――それが、俺の意志だ……!
「まさか……!?」
精霊の声が不自然に掻き消える。
そして、視界が開けた。
弾ける茨。
呪いから解放される身体。
黒い世界に光が灯り始める。そして。
唇が、塞がれた。
いつの間にか、彼女が目の前にいる。
俺を迎えに来てくれたようだ。
そう、まるで、童話の王子ように。
「……オハヨウ」
彼女が不敵な笑みでそう呟くと、途端にガラガラと、黒い壁が崩落していく。
白い世界に変わっていく。
「瑞葉……」
彼女は俺の言葉を指で遮り、背後を振り返った。
そこには、人のような輪郭を持つ影がいた。
おそらく、あの声の主――精霊だろう。
「こいつ自身を御神木にするつもりなら私はお前の敵に回るぞ、風の精霊。お前が今みたいにこいつを何度けし掛けても、私がその度にこいつの眠りを醒ましに行く」
すると精霊は冷ややかに言った。
「その男が眠りにつけば、お前は瑞葉家の責から解かれる。白蛇がお前の記憶を奪えば、お前の悲しみは残らないというのに?」
しかし瑞葉ははっきりと断言する。
「記憶を失っても、私は何度でも久城を思い出す。何度でもだ」
……同じ気持ちだ。
瑞葉も、俺と同じ気持ちでいてくれた。
そのことに涙がこぼれる。
「――ほかでもないお前がそう言うのなら……天は今ごろ呆れかえっている頃だろうよ」
嘆息気味に――その精霊は初めて人間味を帯びた声を発した。
「命を拾ったな、神木の申し子。だがお前の務めは変わらない。その娘のもとでせいぜい精進することだ」
少し皮肉っぽく、しかし激励の言葉を残してそいつは消えた。
黒が剥がれ、白い世界すらも薄れていく。
もうすぐ完全に意識が浮上する頃合いだ。
「お前はやっぱり災難な奴だな」
隣にいる瑞葉が呆れるようにそうこぼす。
「……そうでもないよ」
俺は涙を手で拭って、瑞葉の手をとった。
「ありがとう瑞葉。大好きだ」
彼女が目を丸くして頬を朱に染めたとき、周りの景色ががらりと変わった。
** *
風の流れを感じて目が覚めた。
視界に広がったのは薄いブルーの空。
夜明けが来たらしい。
身体に痛みは感じない。
むしろ怪我など最初からしていなかったかのような身の軽さ。
意識すれば、指もちゃんと動いた。
ゆっくりと身体を起こすと、瑞葉が目の前にしゃがみこんでいた。
つい先刻の赤面を引きずっているようで、複雑な表情をしているのが可笑しかった。
「! 何笑ってんだよこの野郎、お前ほんとに死ぬとこだったんだからな!?」
そう吠える彼女に自然と手を伸ばす。
きゅっと彼女の頭を胸に引き寄せた。
「!?」
「……よかった。またちゃんと逢えて」
手に、胸に感じる確かな温度。
幻じゃない。
俺はちゃんと戻って来たんだと安心できた。
「……お前が死んでたその時は奈落の底までお前を殺しに行ってたから安心しろ」
あくまで物騒な言葉をこぼす彼女に苦笑する。
「それ、今死ぬほど嬉しいってことでいい?」
「……ばか」
そして、彼女の手が俺の背中に回る。
腕の中で彼女が顔を上げる。
自然と、距離が近くなる。
そして――
「はいストップ、それ以上はよそでやれ」
「ちょ、姉さん!」
「「!」」
背後から小夜と闇里の声がして思わずぱっと距離をとった。
「いいとこだったのに! いいとこだったのに!」
ぽかぽかと小夜に殴りかかる闇里の拳を小夜はべしべしと払っていく。
「知るか! 目が焼けるっつーの!」
……目が焼けるんだったら逸らしてくれたらよかったのに……なんて言ったら蹴られそうだからやめよう。
ふと視線を前方にやると、そこには気を失っている女を抱きかかえている土耶の姿があった。
「……あいつ、助かったんだな。よかった」
すると、一羽の小鳥が俺の肩に舞い降りた。
「レイが守った命です。妹はきっと、彼女の苦悩を理解し見守っていたんでしょう」
セキはどこか誇らしげに言った。
……ていうか
「……お前、成仏するんじゃなかったのか?」
セキは一瞬固まったように目を丸くした。
そして
「ハア!? 誰のせいでし損ねたと!? 貴方が無茶をしたせいでうっかりタイミングを逃したんです!! それとも貴方はこの僕にはやく成仏しろとでも!?」
ピーピーと吠えるセキの小さな頭を、指先で撫でた。
指先に覚える確かな感覚にまた少し涙腺がゆるむ。
「冗談だよ。お前とまた逢えてうれしい」
すると、セキはピイと大人しくなった。
そして
「おーい!」
後ろから、ぱたぱたと駆けてくる足音が響く。
「全部片付いたのね! さっすが!」
息を切らして走って来た手鞠先生が、がばっと俺と瑞葉の肩を抱える。
「よかったぁー。2人ともほんとよかったぁー」
先生はおいおいとひとりでに泣き始めた。
自然と先生の腕に入る力が強まってぎゅうと圧迫される。
「……わかったから、その胸、どっかに、しまえ……」
瑞葉が俺の言いたくても言えないところを口にしてくれた。
「ああ、ごめん」
先生はそっと腕を離した。
「手鞠先生、月子先生は?」
「ん? あそこにいるわよ」
手鞠先生が指をさしたのは、広場の入り口に停めてある車だった。
「あれ?」
しかし、そこには人影はない。
視線をその横に移すと、月子先生らしき人の後ろ姿が、背中越しにひらひらと手を振りながら道を下っていくのが見えた。
「……月子先生……」
「ほんと不器用ね、あのひと」
手鞠先生は腕を組んで苦笑し、瑞葉のほうをちらりと覗った。
「誰かさんとそっくり」
「…………似てない。断じて」
瑞葉が低い声で言った。
「へ?」
瑞葉、月子先生のこと知ってるんだろうか。
確かに月子先生は闇里とも知り合いみたいだったけど。
「あら、久城君気づいてないのね。あの人、瑞葉さんのお姉さんよ」
――へ?
「嘘ぉ!?」
思わず大声で叫ぶ。
「いや、でもそれはさすがに……」
だって、顔とか全然似てない、ぞ?
「迦具夜様、お顔変えてましたね」
そこに闇里がぬっと出てくる。
「かぐや?」
「アレの名前よ。しかもあの女、滝行もいじってるわね。瑞葉の先祖が苦労して結実した属まで改変するとか、どこまで異端なのかしら」
小夜が言った。
「でもいいの? 瑞葉さん。あの人に何か言いたいこととかあるんじゃないの?」
手鞠先生が瑞葉にそう声を掛けるが
「……いいよ。あいつがやりたかったことは全部わかった」
瑞葉はハアと頭を抱えた。
それから
「――この馬鹿姉貴ッ!!」
その場にいた全員がびっくりするほどの大声で、瑞葉は彼女の背中にそう叫んだ。
月子先生は歩みを止めて、こちらを振り返る。
そして
「バーカ! 馬鹿って言ったほうが馬鹿なんだよ馬鹿茨乃!」
笑顔でそう叫ぶと、彼女は大きく手を振り去って行った。
「…………むかつく」
瑞葉がそう吐き捨てて俯く。
もしかして、泣いてるんだろうか。
「瑞葉」
自然と、ぽんぽんと彼女の頭を撫でる。
「また逢えるよ」
「…………あんな姉貴もう逢えなくていい」
「はいはい。泣くほど逢いたいんだな」
今度はとんとんと彼女の背中に手を回しなだめる。
「久城のくせに生意気」
「瑞葉が天邪鬼なだけ」
そんな様子を見て、セキは空気を読んでチンと黙っているし、手鞠先生はニヤニヤしだすし、闇里は興奮してバシバシと小夜の背中を叩いて逆に張り倒された。
太陽が昇り、温かい日が背中を温める。
こうして太陽の光の温かさを感じると、いよいよ心身ともにほっとする。
「……おい久城、ここで寝るなよ」
瞼が重くなっていることを瑞葉に悟られてしまった。
「眠っても瑞葉が起こしてくれるんだよな?」
目覚めのキスで、と伝えると
「あれは一回きりだ。次からは叩き起こす」
瑞葉が拳を握って見せる。ぐうだ。
「ちぇー……」
「眠り姫ごっこは終わりだぞ久城。お前はまだ完全にその樹の呪いを断ち切ったわけじゃない。これからもっと鍛錬して……」
つらつらと説教を始めた瑞葉の手をとる。
まるで誓いを立てる騎士のように、俺は身をかがめて彼女の目を覗き込んだ。
彼女は驚いて口をつぐむ。
「強くなってみせるから。その時は俺からちゃんとキスさせて」
「…………!?」
瑞葉の顔が真っ赤になる。
「し、るかッ!!」
顔を赤くしたまま吠える彼女を見て、俺は笑う。
黎明の朝。
すべての懸念が消え失せたわけではないけれど、この日、確かに俺たちはひとつの悪夢を終わらせた。