E9-8:零Ⅲ
――あのとき、弟の手を離すべきではなかったと、ずっと私は後悔していた。
弟が殿田家を離れるきっかけになったのは、殿田家のまわりで頻繁に不吉な出来事が起こるからだった。
両親も、里の者も、皆弟のせいだと言っていたけれど、本当のところは違った。
すべて、霊的なものを呼び寄せ――取り込む力がある私が原因だったのだ。
けれど幼く愚かな私は、それを言い出すことができなかった。
全部、弟のせいにしたまま、私は弟の手を離した。
10年ぶりに再会した弟は、ひどく大人びた顔をしていた。
昔はあんなにおどおどとして、私の後ろをついてくるような子だったのに、そんな素振りはひとつとして見せない。
また、ひどい裏切りを経験したのか、人を信頼することをやめたような、そんな目になっていた。
彼は私の素性を、恐らく分かっていただろう。
それでも何も言わないのは、やはり私を――彼を見放した殿田家そのものを恨んでいるからだ。
綴が何を求めているのか、私にはよく分かっていた。
居場所がないのは私も同じだったから。
綴が居場所を求めるなら、それを助けるのが私の務め。
それこそが、私の存在価値。
たったひとりの、私の半身。
そのためなら痛みも感情も忘れよう。
ひどく醜い鬼にもなろう。
――私には、他にもう何も、残っていないのだから。
** *
真っ黒で何も見えない。
ただ聞こえてくるのは、寂しげな決意。
ここはあの女の心の中。
既に目覚めを知っていた瑞葉の世界とは真逆の、真っ黒な世界だった。
『……ひどい混沌です。あの女、レイ以外にももっとたくさんのものをあの手で取りこんでいたのでしょう。……道理で人間らしくないと思いましたが』
セキの声が聞こえて少しほっとする。
「セキ、あの女がどこにいるか分かるか? ここは真っ暗で俺には何も見えない」
『我々は闖入者です。きっと彼女のほうから仕掛けて……』
「!!」
セキが言いきる前に、気配を感じて横に避けた。
見ればそこに、女の拳があった。
「……いきなり殴りにくるとは節操ねえな」
俺が苦笑を見せても、闇の中に佇む女は決して笑わなかった。
「貴方は、邪魔だ。とても」
女はそれだけ言うと、容赦なく俺に蹴りを入れてきた。
「ッこいつ、こんなとこでもこんなかよ!?」
俺は精一杯その蹴りを避けたが、相手の動きが速すぎて二発目の蹴りを腹に食らってしまった。
「ッ」
――いてえ。
こんな世界だっていうのに身体が痛い。
『少年、油断は禁物です! ここで負ければ貴方はここで溶けてしまいます!』
セキの忠告を受け奮起する。
こんなとこで負けるわけにいかない。
俺には、あっちに戻ってやらなくちゃならないことがあるんだ。
「お前ッ、後悔してんだかなんだか知らねえけど! 鬼になってどうすんだよ! 何ができるっていうんだ!」
「黙れ。私はあの子にとって必要な存在になるんだ。それ以外に目的などない」
「そんなの、あんたの自己満足だろ!! 結局あんたはあいつのこととか考えてねえんだよ!!」
「――黙れ!」
女は叫び、俺の顔に向かって拳を打つ。
腕で覆い、なんとか防ぐが、それでも腕の骨が砕けたかと思うほど軋んだ。
「……私はあの子に罪を押し付けた酷い姉だ。いまさら許されるつもりはない。だから、あの子の未来を築くのが私の役目なんだ」
女は懺悔するかのように、ぽつりとそう言った。
「……土耶がそれで喜ぶとは思わねえな」
「許されるつもりはないと言っている」
頑なにそういう女に、俺は言った。
「じゃあお前は何がしたいんだよ!? 意味わかんねえよお前! あいつのためなのか自分のためなのか、ほんとはどっちもなんだろ!? お前、ほんとはあいつに……」
「……うるさい。うるさいうるさいうるさいッ!!」
女が激昂し、叫ぶ。
すると
「!?」
女の後ろから、ごそりと黒い手が伸びて彼女の身体を包んだ。
完全に闇に溶けきった無貌のソレは、彼女をあやすかのように優しくその身体を撫で、彼女を浸食していく。
「ま、」
まずい。
あれはまずいものだ。
あのまま彼女がアレに呑まれてしまえば、恐らくこの世界そのものが崩壊する。
彼女の心が潰えるのだ。
「――待ちなさい!」
セキが俺の前に姿を現す。
長い髪を揺らし、彼女は闇を恐れることなくそれに近づいた。
「逃げるのですか?」
セキの言葉に、女が顔を上げた。
「……貴女は責任から逃げている。僕も、妹を悪霊にしてしまったことを悔やんでいます。けれどそのことから逃げるつもりはない」
そっと、セキが女に手を伸ばす。
「僕の妹はもういないけど、貴女にはまだいるでしょう? 何を恐れる必要がありますか。何を恥じることがありますか。貴女はまだ、彼に何も言っていない。言葉にしなければ、伝わらないのですよ、この世は」
セキの言葉に、女が一筋の涙を流す。
「……わたし、は……」
――謝りたかった。
許されないのかもしれないけれど、ただごめんなさいと。
皆が貴方を見捨てても、私は貴方を想っていると。
そばにいると、伝えたかった。
何も口にしなかったのは、怖かっただけ。
たったひとりの弟に、嫌われるのが怖かっただけ。
痛みを忘れたのは、傷つくのが怖かっただけ。
本当は一緒にいたい。
鬼としてではなく人間として。
姉として――。
女の心の声が真っ暗な空間に響き渡る。
「遅くないですよ。今からでも」
女が、差し出されたセキの手を取ろうと腕を動かす。
しかし、黒いソレは逃すまいと女を囲った。
「!」
それだけにとどまらず、ソレはセキに向かって黒い触手をいくつも伸ばす。
「セキっ!」
間に合わない。
セキが闇に呑まれる。
息が詰まった。
しかし
「――!」
セキが闇に呑まれる寸でのところで、ひとつの光が現れ闇を弾く。
それは
「……レイ?」
眩しい光で輪郭はぼやけていたが、セキと瓜二つの精霊の姿が、そこに見えた。
「……レイ!」
セキの声が上ずる。
しかし彼女は声を発さず、そのまま微笑んだ。
きっと声すら発せぬ微かな霊体なのだろう。
セキの目から涙が溢れた。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ! 貴女をひとりにしてごめんなさい、寂しい思いをさせて、ごめんなさい……!」
それでもセキは彼女に謝り続けた。
そんな彼女を、レイは優しく見守る。
精霊の光が眩しすぎるのか、顔のない闇はずるりと後退した。
支えを失った女の身体がぐらりと倒れこむのを見て、俺は慌ててそれを抱きかかえた。
「……この真っ暗な世界で、この人がまだ意識を保っていられたのは、レイが、守ってくれていたからなんですね」
セキの言葉に、レイは頷く。
「ありがとう、レイ。この人をひとりにしないでくれて」
するとレイは微笑み、星屑のような光となって闇に消えていった。
徐々に、黒い世界が白んでくる。
もうすぐこの世界も目覚めを迎える。
しかし
「……、」
あの顔のない闇は消えることなく、しっかりとそこに佇んでいた。
「……消えない……。あれは実体があるのか?」
「この人が取り込んできたものたちの悪意が形となっているのかもしれません。……いや、むしろあれは……」
セキが言いきる前に、それは言葉を発した。
『逃ガ、サヌ……!』
鬼の声。
そう、土鬼の声だ。
『逃ガサヌ!!』
すがるように、闇がこちらに腕を伸ばし向かってくる。
俺はとっさに、抱えていた女をセキに預け前に出た。
「少年!!」
次の瞬間、俺は闇に呑みこまれた。