E9-5:イバラヒメ
白い、白い空間。
それ以外のなにもない。
そこにあるのはひとつだけ。
そこにいるのはひとりだけ。
ここは、きっと彼女だけの空間だった。
歩を進める。
しばらくも歩かないうちに、すぐそこに彼女はうずくまっていた。
「――瑞葉」
膝を抱えて俯いていた彼女は、俺の声にゆっくりと顔を上げる。
「……久城。こんなとこまで来たのか」
彼女は呆れた顔をした。
俺は黙って手を差し伸べる。
けれど、彼女はその手をとらなかった。
そのまま、動こうとしない。
「私は幸せだったよ、お前のおかげで」
本当に、幸せそうな顔で彼女は目を閉じる。
まるで、温かい火の前でまどろむように。
なんだかその完結した仕草に少し腹が立った。
「俺、お前にまだ何もしてやれてないんだけど」
分かりやすく、刺々しく言ったのに、彼女は軽く笑ってかわす。
「そんなことないよ。お前は私の最初で最後の恋だったんだから」
……こんな空間だからか、瑞葉はさらりとそんなことを言ってのけた。
「こんなこと、誰にも言ってなかったけど、ちょっとだけ、夢だったんだ。けど私、こんなだったから諦めてた。だから、お前と出逢えてよかったと思ってる。ほんとだよ」
瑞葉は少しだけはにかみながら、重い言葉をいとも容易く口にする。
しばらく、返す言葉が見つからなかった。
だって……、
……落ち着けよ俺。
ちょっと落ち着け。
軽く深呼吸して彼女に尋ねる。
「……なあ、瑞葉。それってさ、お前、もしかして」
いざとなると言葉が出てこない。
怖いのだ。次の言葉を口に出してしまうのが。
「もしかして私は、『夢物語みたいな恋』に、恋してたのかな」
しかし、瑞葉はそれすらもさらりと、言ってしまった。
「お前ってさ、記憶消してもなんかいつも私の前に現れるし、おまけに属は土と相克する木だし。闇里がさ、こういう偶然の重なりを『運命』だって言うんだよ。で、なんかそんな感じがしないでもなくて、ちょっと期待もしてたんだけど、やっぱこういう結果になったっていう」
「…………」
何も言い返せない。
頭をハンマーで殴られた気分だ。
「そんな顔するなよ久城。別にお前を責めてるわけじゃない。それに、こういうのは有りがちな話だぜ? あの小夜でさえそんなこと言ってたぐらいだしな」
自嘲気味に、けれど可笑しそうに彼女は笑う。
このときばかりは、本当にイラッとした。
「……じゃあ、瑞葉はもう満足で、後悔しないんだな?」
思わず低い声が出る。
しかし
「しないよ。だからお前、さっさと戻れよ。こんなところに長いこといたらお前まで溶けるぞ」
そう言ってのけた挙句、彼女は犬でも追い払うようにしっしと手を払った。
「…………ッ」
怒りを通り越してすべてを取りこぼした気分だ。
駄目だ。なんだよこれ。
俺、……くそ、なんか惨めじゃないかよ。
あんなに必死に彼女のために頑張ったのに、その瑞葉が俺の手をとってくれない。
今になって、必要としてくれない。
彼女が結局欲しかったのは、『俺』じゃなくて、『俺との思い出』だったのか。
「…………」
目頭が熱くなる。
痛いぐらいに。
「……久城、泣いてんのか?」
「泣いてねえよ瑞葉の馬鹿!! もう知らねッ!!」
俺は慌てて顔を隠すように後ろを向いた。
間違いなく、みっともないくらいに涙はぼろぼろとこぼれていた。
くそ、なんだよ、なんでこんなに悔しいんだよ!
なんで命賭けてここまで来て失恋してんだよ俺!
瑞葉の馬鹿! 俺の馬鹿!
「ほら、泣いてないでさっさと行けよ」
追い打ちをかけるように、瑞葉が言う。
「……、わかってんよ馬鹿野郎!」
上ずった声をごまかすように、ごしごしと涙を手でこする。
気が付けば、手の先が白く、曖昧な形になっていた。
溶ける、とはこういう意味なのか。
とん、と背中を軽く押される。
はやくいけという合図なんだろう。
「……」
――ああ、でも。
ちょっと、待った。
「…………瑞葉」
振り返らないで言う。
彼女の返事はない。
「……お前今、泣いてないか?」
返事はない。
思わず振り返る。
すると
「……ほら」
そこには、必死に涙を眼に溜めてこらえている彼女の顔があった。
今にも溶けそうな手で、彼女の頬に触れる。
彼女は嗚咽を必死に耐えるように、固く唇を結んでいた。
その顔を見て思わず笑ってしまう。
「ほんと、天邪鬼」
彼女が俺の背中を押したとき、少しだけ指先の震えを感じたのだ。
「……るさっ、だからさっさといけって言ってるんだよ馬鹿久城!」
上ずった声でそう叫ぶ彼女が愛おしい。
「いかないよ。お前を連れ出しに来たんだから」
「いまさらここから出られるわけないだろ!! 恥ずかしくて死ぬわ!!」
……なんだそれ。
そういう問題かよ。
それだけのことで、俺にあんなひどいこと言ったのかこいつ?
「……恥ずかしいって、さっきまで言ってたことが?」
「全部だよ全部!! ここで言ったことも、あっちで言ったことも! どうせお前全部思い出したんだろ!?」
彼女が真っ赤な顔で叫ぶ。
「ああ、全部思い出した」
笑顔で言うと、彼女の顔はさらに赤くなった。
「死にたくなるからやめろ、思い出すな」
「『私が死ぬまでお前は私のもの』?」
「だから言うな!」
「瑞葉からキスしたのに?」
「ッ、ちが、あれは契約……」
言いかけた彼女の唇をふさぐ。
「、……!?」
微かな息と、甘い声がこぼれる。
この世界が溶けかけていて感覚は少し曖昧だったけど、確かに彼女の熱を感じた。
「……、ッ」
唇を離すと、驚きと羞恥と非難の眼で瑞葉が俺を睨んできた。
けど、それすらも
「……かわいい」
「は!?」
彼女がぽかんと口を開けている。
「ここだから言う。瑞葉、かわいい。好きだ。愛してる」
「!?」
立て続けの歯が浮くセリフに、俺自身もおかしくなりそうだった。
「……確かに死ねるかも」
言った後で顔が熱くなる。
「だから言ってんだよ! ちょっとは分かったか!?」
瑞葉はどんと俺の胸を叩いた。
白い世界が、がらがらと崩れていく。
眠り姫の夢現が、終わりを告げるように。
「でも俺は瑞葉と生きたいなあ」
もう一度、彼女に手を差し出す。
彼女はじっと、その手を見た。
「……瑞葉は?」
促すように、優しく言う。
彼女は覚悟を決めたように、俺に向き直った。
その眼は、いつか俺を魅せたときと同じ、澄んだ夜色。
しかしそこにもう怠惰の色はなく、夜明けを待つ光が宿っていた。
「生きるよ、私は」
そう言って、彼女は俺の手をとる。
茨姫は、もうとっくに目が覚めていたようだ。