E9-2:終末ノ場所Ⅱ
丑の刻。
人気のない高校の校舎は、無機質さを主張し黒く佇んでいた。
それを望むグラウンドに1人、少女はやってきた。
「…………」
何の跡もない。当然だ。
出来事は2カ月も前のこと。
それに、亡骸はあの女に持っていかれているのだ。
「……レイ……」
今はなき妹の名を口にする。
すると、抑えていたはずの涙が自然とこぼれてきた。
彼女はつい先刻、標の回復を促すために力を彼に分け与えた際、夢の中の彼の記憶を垣間見て、すべてを悟った。
禍々しい春の夜、おびただしい数の心鬼と邪鬼に呑みこまれここで悪霊となったのは、妹のレイだったのだ。
「……どうして……、こんなことに……」
標の記憶だけでは、どうして彼女が悪霊なんてものになってしまったのかは分からない。
悪霊となった妹を滅した彼を、恨むつもりは決してない。
ただ、悔しいのだ。
妹の気持ちを救済できなかったことが。
「――嬢ちゃん」
いつの間にか、背後に男が立っていた。
この学校に棲んでいるタローだ。
「……貴方は、妹を知っていたんですよね。……ここで、どうなったかも」
セキはタローに尋ねる。
タローは、神妙な面持ちでうなずいた。
「あの嬢ちゃんと俺が最初に会ったのは3年前だ。後で聞いた話だが、神木が焼けたあの災厄の日のあとぐらいにここにふらっとやってきて、しばらく眠ってたって。数十年眠り続けて、目が覚めたのが3年前だったそうだ」
御神木が落雷で折れたのは約60年前のある日。
その日は、それまで神木の結界によって町に入れなかった多くの鬼たちが町になだれ込んだことによって、天災的な百鬼夜行が起こりかけた災厄の日だ。
セキが精霊としての命を落とした日でもある。
「長いこと眠ってたせいか、あの子は記憶が随分曖昧になってたみたいでさ。俺よりずっと格が上の精霊様だってことは分かってたんだが、妹分みたいにいろいろ世話してたんだ」
タローは懐かしむように少し目を細めた。
「けどある日よ、あの子は自分の素性を思い出したんだ。姉がいるってことも。で、あんたのこと、町中探しにいってたよ」
「……僕はもう、死んでいたのに」
セキが俯く。タローも辛そうに拳を握った。
「……それからしばらく、あの子には会ってなかったんだ。……次に再会したのが、あの日だった」
春のあの夜。
レイはひどく肩を落としてタローの前に現れた。
町を放浪するうち、レイはようやくすべて思い出したのだ。
鬼が百、千と連なり雪崩となって押し寄せたあの日。
つまらぬことで姉妹喧嘩し周りが見えていなかった自分の後を追おうとして、鬼に身を裂かれた姉のことを。
「――ごめんな。俺の言葉じゃあいつに届かなかったんだ。あの子、あんたのこと、相当好きだったんだなあ。『もう会えない』って泣き始めて、……それで……」
心の隙をつかれて、鬼たちに依代にされてしまったのだ。
魂を穢され、そして悪霊になってしまった。
「…………レイ……っ」
少女の瞳からぼたぼたと大粒の涙がこぼれ落ちていく。
タローは慌てて言った。
「でもな! あの坊主が穢れを祓ったんだ! あの子は地獄になんて行ってないよ、きっと……!」
「…………」
セキはその言葉ではっとする。
……ああ、そうか。
悪霊の最期はきまって悲惨なものだが、穢れを祓ってくれたというならば、魂は転生できる。
未練にとりつかれここにとどまっている自分と違い、妹はちゃんと、成仏したのだ。
「……それが、救いですね。……ありがとう、タローさん。妹の面倒を見てくれて。最期をちゃんと見届けてくれて」
セキの言葉に、タローも涙ぐむ。
そして、セキは再び歩き始めた。
「? どこ行くんだ、あんた!」
タローの問いかけに、彼女は答える。
「やり残したことをやり遂げに。僕が成仏するのは、それからです」
** *
真夜中。
闇里の言葉を頼りに街を駆ける。が
「……っ、遠い……!!」
闇里の力で身体は満足に動くようになったとはいえ、体力の限界はある。
全速力で走ったところで、目的地まではまだ随分距離がある。
それまでにへばってしまいそうなのも認めたくはないが確かだ。
「くそッ」
そう吐き捨てた時、後ろからけたたましいエンジン音が聞こえてきた。
「……?」
立ち止り振り返ると、眩しいヘッドライトが自分を目がけて迫ってくる。
そのオートバイとライダーのメットのフォルムに見覚えがあった。
「……倉井……?」
ブレーキ音を派手に響かせ、俺の隣でそいつは止まった。
倉井は止まるや否や、予備のメットを俺に投げてよこす。
「オオカミ! 急いでんだろ? とっとと乗りな!!」
「え、……い、いいのか? でもなんで?」
なんで倉井がここにいて、俺を乗せてくれるのか。
「詳しい話はなし! ほら、乗れ!」
倉井に促されるままタンデムシートにまたがる。
倉井は何も言わず、ただ俺の指示通りの道をギリギリまでスピードを上げて走ってくれた。
「……倉井! なんでここまでしてくれるんだ? お前、何か知ってるのか?」
エンジン音と風を切る音に邪魔されながらもハンドルを切る倉井に尋ねる。
「詳しくはほんとに知らないよ! けどあんたが必死に走ってる理由はなんとなく分かってる。……私、あんたが女に担がれて郊外の廃墟から出てくるの見てたんだ」
「え?」
なんで倉井はそんなところにいたのか。
いやそれ以前に、そこにいたってことは。
「私、よくわかんないけど……ほんとになんでこんなことになってんのか分かんないんだけど、あんたはあの子を助けにいくんだろ?」
倉井は混乱を必死に振り払うようにそう尋ねてきた。
――やっぱり、彼女は見ていたのだ。
鬼が……瑞葉があの廃墟から逃げていったのを。
「ああ。俺、絶対あいつのこと助けるから」
直線道路に入って、倉井は一層スピードを上げた。
風を切る音がより強くなる。
その風に乗って、倉井の言葉が微かに聞こえた。
「……私、あんたのそういうとこ、尊敬してるよ。昔から」
その言葉を聞いて、俺の中学時代の武勇伝を聞いて目を輝かせていた倉井の顔を思い出す。
目的地の少し手前、俺は倉井に合図した。
「倉井! ここでいい、ありがとう!」
降ろしてもらい、メットを返す。
「気をつけて」
その言葉にうなずく。
「……俺も、倉井のこういうとこ、尊敬するよ。事情とか、深く聞かないまま助けてくれてありがとう」
すると彼女は微笑んだ。
「友達想いだかんね、私は。……じゃあ、しっかりね」
そうして倉井は引き返して行った。
『良いお友達をお持ちなんですね』
闇里が言う。
「あいつは良い奴だよ、ほんとに。きっと瑞葉のことも分かってくれてる」
あと少しで、瑞葉のもとに辿りつく。
「急ごう」
――どうか、間に合ってくれ。
** *
夜風に、潮の匂いが乗って流れてくる。
山のふもとにある、小規模なグラウンドほどの面積の土地。
木々の隙間から海を望むこの閑散とした土地は、かつて神木町のシンボルだった御神木があった場所だ。
以前はここに小さな社もあったが、御神木が落雷で焼けてからは世話する者がいなくなり、半壊状態で朽ちている。
こんな場所だからか、今では誰も近づかない場所になっていた。
「こんなところを最期の場所に選ぶなんて、あんたも変わってるわね」
吹く夜風に銀髪をなびかせ、和装の女は裸足のまま、ひたりひたりとその朽ちかけた社に近づいた。
「……、……」
返事はない。
ただ、ゼーゼーと苦しげに呼吸をする音だけが返ってくる。
「……もう言葉も失ったの? 遺言くらいは聞いてあげるつもりだったんだけど……無理そうねッ」
そう言って、小夜は社の柱を派手に蹴飛ばした。
その一撃だけで、社は木が崩れる音と土煙を上げて倒壊した。
上がった土煙の影から、鋭利なシルエットが浮き上がる。
刺すような棘が幾つも伸びる腕。
いかにも堅牢な黒い外皮に覆われた肢体。
そして鬼であることを誇示する2本の角。
すでに、人間の形はほとんど残っていない。
あれが鬼に成り切っていないと分かるのは、まだ左の眼の色が、鬼特有の闘争の色に燃えていないからだ。
その姿を見て小夜は嘆息をこぼす。
「……哀れね。そんな姿になる前に、もっと早く殺してあげればよかった」
そして、小夜の手に一振りの短刀が現れる。
「一瞬で楽にしてあげる」
目にもとまらぬ速さで、小夜は鬼との間合いを詰める。
狙うは首。
いかに強大な土鬼といえど、頭を落とせば致命傷となる。
が
「!」
刀は硬い鬼の腕に阻まれた。
「ち」
一撃を防がれ、小夜は一旦後退する。
「この期に及んで抵抗する気? それとも防衛本能?」
既に言葉を失った相手からは、感情が読み取れない。
小夜はそのことにもどかしさを感じた。
が
「…………馬鹿らしい」
今更彼女の感情を聞いたところで、刀を納めるつもりはない。
自分はそのために、ここにいるのだ。
だというのに、さっきから感じるこのもどかしさは何だ。
「闇里の情が移ったか」
懊悩を振り払うべく再び小夜は鬼に挑む。
刀だけでは勝ちはとれない。
ならば
「溺れてもらうわ」
小夜の指先から、凝縮された水弾が発される。
銃弾のようなそれは、鬼に命中すると巨大な水柱となった。
「――――」
鬼を覆う多量の水。
苦しげに鬼は悶えはじめた。
しばらくすれば息が切れて大人しくなるだろう。
小夜は冷静に、呻く鬼を見守った。
小夜とて、思い出がないわけではない。
闇里ほどではないが、彼女とは封印時代から言葉を交わす付き合いだ。
『――あなたはどうしてそんなところにいるの?』
まだ幼い茨乃が、封印の鏡越しに声を掛けてきたときのことを、彼女は今でも鮮明に覚えている。
あの時は腹が煮えくり返ったものだ。
『あんたの親父が閉じ込めてんのよ馬鹿。とっととガキは失せな』
そのまま泣いて逃げ帰るのかと思いきや、茨乃はそのまま鏡の前に居座った。
『うせなって何?』
『消えろって意味よわかんないの!? これだからお嬢様は!』
……今になって思えば、茨乃の口が悪くなったのは自分にも原因があるのかもしれないと小夜は心の中で嗤った。
彼女が初めての鬼の討伐に出かける前も、そう言えば他愛もない言葉を交わした。
『正直、あんまり実戦に自信ない。鬼とか、間近で見ると怖そうだし』
『んなこと私に言ってどうすんのよ。私をここから出してくれるっていうなら話は別だけど』
『小夜が手伝ってくれるなら出してあげてもいいと私は思ってる。闇里も多分喜ぶし』
『はは、馬鹿? 私が手伝うなんてめんどくさいことするはずないでしょ。いいからとっとと行ってきな。失敗して死んだらそれがあんたの運命ってことよ』
『……まだ死にたくないし』
『へえ? クソ真面目に親の言いなりで生きてるだけのあんたに未練なんてあるんだ? 意外』
『……あるよ。多分』
『ふうん? 何よ、まさか一端の女みたいに「私だけの王子様と恋に落ちてみたいの~」とか言うんじゃないんでしょうね』
『……! そこまでメルヘンなこと考えてないし』
『その割には赤くなってるじゃない。あんたってほんとわかりやすーい』
『う、うるさい! 大体そういう思考に至ってる時点で小夜だって似たようなこと考えたことあるんじゃないの!?』
『は、はあ!? んなわけないでしょ! 誰がそんなアホみたいなこと考えるもんですか! いい? 恋に恋する時間なんてあっという間で、その後は泥沼みたいなことになるんだから、そんな甘い考え早いうちに捨てたほうがいいわ。ほら、とっとと鬼退治にでも何でも行って、血なまぐさい世界にどっぷり浸かるがいいわバカ娘!』
……まさかあの後あんな事態になるなんて、小夜も予想はしなかったのだが。
鬼の膝が地に着く。
水柱が自然と消えた。
小夜は、力なくうずくまる鬼にゆっくりと近づく。
「……茨乃。良い恋はできた?」
鬼となった彼女にそう投げかける小夜の顔は、ある時は姉のような存在だった、鏡の中の精そのものだった。
「綺麗な思い出だけ持って逝きなさい。あんたの汚点は私が引き受けてあげる」
再び小夜は刀を手に取る。
そして、それを振りかざした。