E8-6:廃墟にてⅢ
土耶の低い声とともに、地響きが鳴る。
「……!?」
床に亀裂が入りだして、瑞葉が俺を突き飛ばした。
「お、おい!」
そしてそいつは地を割って現れた。
「!!」
土色の巨腕が地から這い出る。
形が定まっていないのか、それの外皮は空気に溶けるような黒い影で覆われていた。
次に現れたのは、鋭いふたつの角、真っ赤な眼。
睨みつけた相手を委縮させる、凶悪な眼だ。
そして、奴が纏う禍々しい空気。
以前学校に現れた化け物のような、負の感情の塊だ。
動悸が止まらない。
得体のしれない相手への恐怖もある。
けどもっと怖いのは
「…………ッ」
その鬼の出現と同時に、瑞葉が苦しみだしたことだ。
「……さあどうだ。町の心鬼をいくつも食らって成長させた鬼に、俺の土の力を存分に流し込んだ。これでも土鬼とは到底呼べぬモノだが、お前の中の土鬼を呼び覚ますには十分だろう」
瑞葉は声を発する余裕もないのか、ただ腕を抑えてその場にうずくまった。
「……貴様ッ!!」
まだ呪いのせいで足が立たず、這いずって瑞葉のもとへ向かおうとするも、鬼の出現で隆起した足場と、粘土の子鬼が邪魔をする。
「邪魔すんな!!」
子鬼を腕で薙ぎ払うと、砕けるもののすぐに再生して俺の腕や服の裾、足を引っ張る。それが何体もわらわらと寄ってくるので、まるで地獄にでも落ちた気分だ。
そうこうしている間にも、土耶が瑞葉の前に立った。
片膝をつき、その手で彼女の顔を引き寄せる。
「……少し感心するよ。君はこの状況でも涙は見せないんだな」
瑞葉は奴の手を腕で振り払おうとしたが、その腕すら土耶に掴まれた。
「覚悟はとうにできているんだろ? 大丈夫だ。悪いようにはしない」
土耶の言葉とともに、瑞葉の腕の鬼の顕現が徐々に広がっていく。
「……ックソ野郎!! 瑞葉を離せッ!」
怒りで足に力が入る。正確に言えば、気の力が脚に流れ込んだらしい。
そのままの勢いで跳躍し、土耶に殴りかかろうとしたら
「!」
寸でのところで拳を止められた。
俺の拳を受け止めたのは、女。
以前、俺を容赦なく殴り飛ばしたあの黒スーツの女だった。
「ッお前、土耶の!?」
「……」
女は何も言わず、俺を投げ飛ばす。
腕一本の力とは信じられない怪力で投げ飛ばされた俺の身体は、立ちはだかっていた巨大な鬼に容赦なくぶつかった。
「がはッ!?」
倒れこんだ俺の身体を、今度は鬼の冷たい手が地に抑えつけるように覆う。
「!!」
視界が暗転するかのような悪寒。
気持ち、悪い。
なんだこれは。
負の力が身体に染み込んでいく。
「……、久城!」
「!」
瑞葉が土耶の腕を振り払う。
鬼の腕を肥大化させて、俺を捕らえていた鬼の手を払った。
「……ッは」
反射的に飛び起きて、瑞葉の傍らに寄る。
瑞葉の鬼の顕現は、既に首筋を超えて頬にかかろうとしていた。
「……ッ」
逃げないと。
このままじゃ瑞葉が……。
そう思ってから絶望した。
結局俺は、こいつら相手にまだ勝てないのだ。
……何にも、変わってない。
「……くそ!」
瑞葉の手を取る。リネン室に窓はない。
出口はひとつだけ。土耶とあの女を振り切らないと逃げられない。
瑞葉の手を引いて走り出す。
すると
「逃げられると思っているのですか?」
あの女の声が耳元で聞こえた。
「!!」
すぐ脇から蹴飛ばされる。
繋いでいた手が簡単にほどけた。
――ざけんなッ!!
必死になって受け身をとる。そのまま間髪入れず拳を固めた。
あの女の動きを止めるなら、俺だけの力じゃまだ無理だ。
「セキッ! 頼む、もう一度だ!!」
「しかし……!」
セキは躊躇していた。
彼女の、精霊としての力を俺の拳に宿すのは危険な行為だという。
ごく一部の、力を呑みこめる体質の人間ならまだしも、一般的な体質の俺が実行するとしたら、せいぜい1日1回が限度だ。
「頼む!!」
懇願を受け入れてくれたのか、セキは再び俺の拳に舞い降りた。
途端、体内が発火するかのような熱さを覚えたが、歯を食いしばって耐える。
「そこを退けッ!!」
無理を承知で脚にも気を流す。脚力を上昇させて、一気に相手の懐に入った。
「!」
相手が一瞬ひるむ。
しかし
「!?」
女は一瞬で身を翻し、俺の拳をかわした。
「ち」
「……以前より少しはましですが、貴方のその戦法では私に勝てない」
「!?」
不覚にも背後をとられ、慌てて振り返る。
振り向きざまに拳を放つと、女はその拳を掌で受け止めた。
すると
「ぅ!?」
セキの身体が俺の拳から弾かれた。
「な」
「この手に宿るのは、その亡霊の対の残骸。ぶつかり合えば、弾かれるのは魂あるほうです」
女はそう言って俺の腹部に容赦なく拳を打ち込んだ。
「――ごほッ」
女の拳はどれほど高速なのか、一発どころか数発の衝撃が走った。
ボールのように身体が地に転がる。
頭の中が真っ白になりかけて、喉の奥から錆びた鉄の匂いがした。
――まだ、だ。
「ッ」
怒りと気力だけで立ち上がる。
「……気づいていますか? 無茶な気の使い方で貴方の体内はボロボロですよ」
女が冷たく言い放つ。
そんなことは分かっている。
けど、ここで立たなければ今までやってきたことがすべて無駄なんだ。
「絶対に、守る、んだ……!」
言ったそばから血反吐を吐く俺を見て、女は小さく嘆息した。
「大人しく沈めばいいものを」
同情めいたその言葉を言い終えるやいなや、女は銃弾のような速さで俺の懐に入り込んだ。
「!」
もう一発食らえば、確実に落ちる。
頭で分かっているのに、身体がうまく反応しない。
情けないことに俺は衝撃に耐える準備をしていた。
しかし
「!?」
轟、と横殴りの風が吹く。
暴風のようなそれに、あれだけ強靭だった女の身体がいとも容易く吹き飛んだ。
否、それは風ではなく
「瑞、葉……?」
瑞葉が振るった鬼の腕だった。
「……」
あれだけの剛腕に殴られながらも、女はすぐに立ち上がった。
打たれ強いとか、そういうレベルじゃない。女の左腕は明らかにさっきの衝撃で折れて、本来の方向を違えている。
だっていうのに、表情からは痛みをまるで感じさせないのだ。
「……化け物かよ」
瑞葉が小さく嗤った。
その右頬は、既に鬼の外皮に覆われている。
「この期に及んで皮肉ですか」
「事実だろうが」
瑞葉は俺をかばうように前に出る。
まるでその顔を隠すような動作にも思えた。
「みずは!」
思わず彼女の手を掴む。
瞬間、デジャヴを感じた。
得体の知れないものに挑む彼女を引き留める俺。
そして振り返らない彼女。
彼女は俺の手をふりほどいて、行ってしまって、そして――
「久城」
彼女の声で意識が引き戻される。
「……返事、素直に出来なくてごめん」
一瞬、なんのことか分からなかった。
けど、すぐに思い至る。
「なんで今、そんなこと、」
少しだけ、彼女が振り返る。
その表情に、俺は息を呑んだ。
「嬉しかった」
はにかむような笑顔と、そして涙。
その一言だけ俺に告げて、彼女は俺の手を振りほどく。
「瑞葉ッ!」
瑞葉は一直線に女のほうへと駆ける。
対する女は腕一本で応戦する構えを見せた。
鬼の剛腕を、スーツの女は右腕ひとつで受け止める。
が、やはり瑞葉のほうが優勢で、女は押され気味だった。
しかし
「!」
その背後から、例の黒い鬼が現れた。
鬼は二人に覆いかぶさるように、泥のように溶けながらゆっくりと倒れこむ。まるで二人を呑みこもうとしているようだった。
「ち、」
女は咄嗟に身を翻す。
しかし瑞葉は避けない。
「瑞、」
彼女の名を呼ぶことすらできなかった。
声の代わりに血がせり上がって口からこぼれる。
それと同時に膝が勝手に地に崩れた。
「少年、駄目です、動かないで」
セキの声がすぐ傍らで聞こえるが、視界が狭くなっていて、もう瑞葉の背中しか見えない。
彼女の身体が、泥に呑まれていく。
だっていうのに声も出ない。
脚も動かない。
次にどうなるのか、俺には分かっていた。
分かっているのに、止められない。
泥が完全に彼女を呑みこんだ。
そして
「……ダメ、だッ、……瑞葉……!」
泥は彼女ごと、まばゆく四散した。
ご迷惑をおかけしております。なるたけ早い更新を心がけます。いつもありがとうございます。