E7-5:修了ボタニカルガーデン
赤い口が大きく開かれる。
「――ッ」
目視できるのに避けられない。脚に力が入らないのだ。
牙はもうすぐそこに――……
「!?」
刹那、誰かに身体を抱きすくめられた。そのまま風のような速さで後方に退く。
前方で、ガチンと顎を合わせるハエトリグサが見えた。
「……貴方も彼女も詰めが甘い。鉢植えが1つだけ芽吹いていなかったことに気づいていなかったのですか」
そう毒づいたのは、俺を抱えて退避させてくれた奴。
綺麗に切りそろえられた長い髪がふわりと揺れる。
非難じみた色を滲ませながらも透明な眼でじっと見つめてくるのは、大人の、人間の姿になったセキだった。
「……、悪い」
「まあいいでしょう。貴方には、頼もしい僕という精霊が憑いているということをここではっきり認識してもらいます」
いや、それはもう十分に分かっ………
「って!?」
白く細い指が、俺の右手をすくい上げる。
突然だったので必要以上に驚いてしまった。……というか、この姿の彼女は少し苦手なのだ。あまりにもその、普段とのギャップが激しくて、どっちが本来の姿なのかと思うと、いろいろ……。
「うろたえている場合ではありません。消化液に溶かされる前に、早く彼女を助けなければ」
セキの言葉に、頭が一気に冷やされる。
そうだ、早く先生を助けないと。
「貴方にもう一度だけ、拳をふるう力を与えます。一撃で仕留めなさい」
そう言って、セキは俺の拳に口づけを落とした。
「……!」
瞬間、まばゆい光が辺りを覆う。いや、これは光じゃなくて、膨大な気だ。
力強く、けれどあくまでも透明なその力は、セキのもの。それが、俺の拳に流れていく。
彼女は彼女自身を、俺の拳に宿らせたのだ。いつかのときと、同じように。
あの時は拳の骨が粉砕するような錯覚を覚えたが、同じ轍はもう踏まない。
今思えば、このイメージはセキが教えてくれたんだ。
『息吹きの力。力強く生きる力』
その言葉があったから、攻めに不得意な木の属でも出来る攻法を思いついた。
多発はできないが、それゆえに一撃の破壊力は大きい。
セキの力が加わればなおさらだ。
『手鞠ちゃんというものがありながら、美人の守護精霊憑きなんて、なんまいきだおお前ええーー!!』
何に激怒しているのか、ハエトリグサはぐんと頭をこちらに伸ばしてきた。
臆しても、ぎりぎりまでひきつける。
この一発は絶対に外せない。
『んんんんらああああああ!!』
ガパリと大口を開けるハエトリグサ。
その巨大な口腔へと
「とっとと……吐きやがれ!!」
拳を放つ。
『――――!』
「――――ッ」
爆発、という形容が正しいのか。
いや、たとえになっていない。
これは間違いなく、爆発だった。
その爆発は、俺の攻撃によるものじゃなかった。
俺が拳を放ったと同時に、先生も内側から何かしでかしたのだ。
『んんのおおオオオおお!』
ハエトリグサの悲鳴が体育館に響く。
3つある頭のうち、1つは炎上、1つには大穴が開いた。
真ん中の1つ頭が、ばったんばったんとのたうち回っている。
激しく損傷を受けたせいか、ハエトリグサは見る見る縮んでいき、人間の背丈と同じくらいになった。
「――ったくやってくれんじゃないのよ下僕風情が」
煌々と赤く燃える炎を背に、先生が姿を現した。
まるで雨に濡れたようにぐしゃぐしゃ――もっと生々しく言うと粘液でべとべと状態で、眼がかなりイってしまっている。
……天使が悪魔に堕天するとはまさにこれだ。
「死にたいの? ねえ、死にたいの? アンタの球、今すぐ握りつぶしてもいいのよ? え?」
もう極道の妻……にしか見えない顔で、先生はゲシゲシとハエトリグサの根元を蹴る。
『う、うああん! ごめ、ごめんなさッ、お俺が悪かったお! 本気で食べるつもりなんてなかったんだお! だから許してほしいおッ』
「アンタみたいな面倒くさい奴もう知らない! 服が台無しだっつーのよお気に入りだったのに!!」
『ぶああああんごめんなさいいいいい』
結局、ハエトリグサは延々と泣いて謝り続けながら球根に戻っていった。
「……はあ。見苦しいところを見せたわね。現在進行形だけど」
先生はため息をついてから、俺に向き直った。
すると、講壇に貼られていた例の紙がふわりと俺の手元に舞い降りてきた。
「――はい、合格。あいつの頭に穴まで開けられるとは思ってなかったわ。あれでも一応、私の手駒のうちじゃ一番強いんだけど」
先生は少し苦笑いだった。
「あ、あっざす……」
「ほら、瑞葉さんを探しに行くんでしょ? ……まあその前にその顔、どうにかしたほうがいいだろうけど……」
確かに、顔も服も花粉まみれのままだ。でも
「先生のが早くどうにかしたほうがいいと思う……」
なんか、服が微妙に溶けてきてますよ?
「……! 確かにまずい。ごめん、先戻るわ」
先生は肩を抱えて慌ただしく出口へと向かう。冗談抜きで早く着替えないとまずいことになりそうだ。
が、ふと先生は振り返った。
「そうだ。頑張った久城君にサービス」
先生はスカートのポケットから何かを取り出し、それを俺に投げてよこした。
「?」
それは小さく折りたたまれたメモだった。ハエトリグサの消化液のせいで少しばかり溶けかけてはいたが、内側の文字はまだ読めた。
「……神木町新篠155、A3001?」
住所? 誰の?
「彼女の住所。どうせ知らないんでしょー?」
先生はそう叫んで、体育館を出ていった。
「……!?」
意外なものをプレゼントされてたじろぐ俺に、鳥の姿に戻ったセキが言う。
「……個人情報漏えい及び職権濫用ですが、まあ間違いはないでしょうね。この時間であれば自宅に帰っている可能性のほうが高いでしょう」
……ああ、そういうことね。
「わかった。そうしよう」
「夜這いですね」
「ちげーよ! 行くだけだよ! お前ほんと頭古いな!」
「失礼な!!」
セキとピーピー言い合いながら、とりあえず学校を後にした。
新篠といえば、神木町の中では少し特殊な地域だ。
駅から離れているわりに、駅周辺よりも都会的。ただしやかましさなど欠片もなく、上品で閑静。つまるところ、ちょっとしたセレブが集まる場所だ。
たとえばこの、マンションのように。
「……たっけ」
紺色の空に堂々とそびえ立つそれは、神木唯一の30階建て高層マンションだ。
「あいつこんなとこに住んでんのか。しかも親元離れて……なんだよな」
以前、確か彼女は父親と別居していると言っていた。
それでアニヲタ精霊と同居してるとかどうのこうの言ってたな……。
「っていうか3001って最上階じゃん!? すっげ!」
「あーはいはい。バカな人は喜びますよね、最上階」
セキの言葉に多少なりともショックを受けながらも、エレベーターで30階まで上がる。
……ていうか。なんか。
「……」
30階に近づくごとに、疲れ切って落ち着いていたはずの心臓が妙な感じに脈打ってきた。
そして、部屋の前に立った時、その緊張はマックスになってしまった。
……やばい。心臓が痛い。なんでこんなバクバクしてんの!?
つかそもそもなんて言って会えばいいんだ?
「元気?」とか?
いや、そんなヘボなこと言ったら鬼のパンツが……ちがう、パンチが飛んでくるに決まって……
ていうかほんとに親父さんとかいないんだよな!?
これでインターホン鳴らして出てきたのが親御さんだったら俺なんて言ったらいいんだ!?
……いやいや、ないよな。確かに言ってたもんな。
仕方ない、ここはそうだな、瑞葉と会ったら、「先生の試験、終わったよ」って言ってフツーに会話を始めるのはどうだろう。
そうだ、それでいこう。すっげ、俺冴えてるじゃん!
ああでもちょっと待って、もう一呼吸おいてから……
「いつまで突っ立ってんですか。押しますよ」
「ちょま!?」
ピーンポーンと、セキがボタンをプッシュしてしまった。
「〜〜おんまえーー! 男の繊細な心の準備をーー!!」
「は? ぐふ、こら、離しなさい、首が締まりま、」
『はい』
スピーカーから、耳慣れない男の声が聞こえてきた。
つか男!?
「あっ、あの、お、おれ、いやその僕!? ああもう! 瑞葉茨乃さんいらっしゃいますか!?」
無駄に噛みながらも必死になって叫ぶと、
『……どちら様ですか?』
そりゃあそうなるだよ!
「く、クラスメイトです! 久城標と申したてまつる!」
たてまつるってなんだよ俺!?
『お待ちください、すぐ開けます』
「いいの!?」
すると、本当にすぐ、扉が開いた。
出てきたのは、和装の少年。
青みがかった銀髪に、ぱっちりとした金色の眼。
そんなに幼いわけではないのだが、愛嬌のある顔つきとその格好のせいか、どこかの寺にいそうな小僧さん、といった印象だ。
彼は俺の顔を見るなり、目を細めて笑った。
「お初にお目にかかります、久城さん。お会いできて、とても光栄です」
俺の思い過ごしだろうか。彼は万感の想いを込めるように、そう口にした。
「……え、と」
戸惑っていると
「あ、申し遅れました。僕は茨乃姫様にお仕えする蛇の精、闇里と申します」
彼はそう言って行儀正しく一礼した。
「あ、ども……」
こちらもつられてぺこりと頭を下げる。
「あの、でも申し訳ないんですが、姫様はまだ帰ってきてないんです。いつもよりさらに帰りが遅いので心配していたところで……」
「え……まじか……」
……こりゃあ、よわった。この時間で帰ってきてないとか。
「もう遅いし、俺探してくるわ」
「あ! 久城さん! ちょっと待って!」
踵を返そうとした俺の腕を、彼はがしりと掴んだ。
「な、なに?」
「いえ、その。行かれる前に、そのお召し物、どうにかしたほうが……」
彼の眼は、花粉まみれで見事に黄色く染まっている俺のシャツとズボンを眺めていた。確かに、普通の人が見たら何事かと思うくらいに黄色い。
顔はとりあえず学校で洗ったのだがこればっかりはすぐにはどうにもできなかったのだ。
「それ、ユリの花粉ですよね? 早く落とさないと完全に染まっちゃいますよ」
「いや、まあシャツくらいはもういいんだけど……」
確かに、ズボンはまずいかもしれん。1年のこの時期でもう制服を買い直すとなると、最近夜勤続きで機嫌の悪いお袋がブチギレそうだ。
「僕、しみ抜き得意なんです。ユリの花粉はちょっと厄介ですが、すぐ落としてみせますから」
彼はそう言って、ささ、どうぞとばかりに俺を誘った。
「え、いやでも……」
それはちょっとまずくないか? 家の主がいない間に勝手に上がり込むってのもちょっと……
「いいんですいいんです。もしかしたらもうすぐ、帰ってこられるかもしれませんし。それに僕は、お客様をもてなすぐらいしか出来ませんから」
彼はそう言って半ば強引に、俺を家の中へと引きずり込んだ。
もうちょっと早く更新できると思ってたのに……
今度こそ!