E5-4:悔恨と解放
――土鬼。
木村先生がいつぞや教えてくれた土の属性の鬼のことだ。
とても凶暴で、素人が相手に出来るものじゃないと言っていたそれが、まさにそこに佇んでいる。
よりにもよって、セキを取り込んで。
「……ッ」
「瑞葉?」
傍らにいる瑞葉の顔色が悪い。
右腕が痛むのか、左手が白くなるほどかたく押さえつけていた。
「やはり疼きますか」
黒スーツの女が瑞葉に言う。
その声色は先ほどまでより少しだけ明るい。
「……お前、一体……」
「こちらとしてはその身体を早く明け渡してくれればありがたかったのですが。……良いサンプルも出来たことですし、今日はこの辺りで失礼します」
女はそう言って、どこからともなく古びた縄を取り出した。
そして、それを鬼に投げつける。
「!?」
宙に浮いた途端、その縄はまるで生きた蛇のように鬼の身体に巻きついた。
鬼が悲鳴を上げる。
「ちょ、ちょっと待てよ! それどうするつもりだよ!!」
「持ち帰ります。……そもそも、うちから逃げ出した失敗作ですし」
女がそう言うと、鬼を縛っている縄が怪しげな光を発し始めた。
「待て! セキが中にいるんだぞ!!」
「既に悪霊でしょう」
「ッ……!」
なんなんだよこの女!
「……渡すかよちくしょう!!」
俺は鬼を縛る縄に手をかけた。
「ッ」
途端、拒絶されるように静電気のようなものが走ったが、耐えられないほどのものじゃない。
どうやら人間に対しては拘束の意味を持たないものらしい。
縄自体は幸い古いものだし、噛み切ればなんとか解けるかも……
「そこの少年。邪魔立てするようならこちらも相応の手段をとりますよ」
女の冷たい声が聞こえた。
「――ぐっほ!?」
刹那、景色が吹っ飛んだ。
いや、吹っ飛んでいるのは俺の身体だ。
なんだ、これ。
さらに
「ごふッ」
頬を鈍器で殴られた――ような衝撃。
俺の身体はその勢いで地面に落ちた。
錆びくさい臭い。
視界が赤黒く点滅。
脳震盪なんて柔なもんじゃない。
何が起こったのかすら分からないまま、俺は血の臭いにまみれていた。
「久城!」
瑞葉の悲鳴じみた声も遠くで聞こえる。
「まだ子供とはいえ立ちはだかる者に容赦はしません。――では失礼」
ザッと、女が踵を返す音がした。
反射的に、手を伸ばす。
「!」
視界が霞んでよく見えないが、俺が掴んだのは間違いなく女の足首。
「……行かせるかよ……」
女は一瞬、動きを止めたが。
「――がアあッ」
今度こそ、錯覚なんかじゃなく手が砕けた。
たった1度、踏みつけられただけで。
「少しは身をわきまえなさい。貴方は無力だ」
女が背を向け、遠ざかっていく。
「……ふ、ぐッ」
何とか止めようとして、腕だけで前進を試みる。
そこではじめて気付いた。
身体が、全く動かない。
そりゃ、そうだ。
空中まで蹴り上げられて、顔面思いっきり殴られて、コンクリートの上に落とされて、手まで砕かれた。
内臓だってイカれて
「……っげふッ」
胃液とも血ともいえない何かを吐き出した。
「馬鹿! 何やってんだよお前!」
いつの間に側に来たのか、瑞葉の罵声が振ってくる。
その声はいつものそれと全然違って、泣きそうな声だった。
『貴方は無力だ』
「…………ぅ、う」
砕かれた手を、それでも握り締める。
遠ざかっていく女の背中を、眼は離さない。
「……ぃや、だ」
「久城?」
「…………や、だよ……」
視界が滲む。
『私に恩返しをしたいなら、他の誰かに手を差し伸べなさい。あんたのそれ、きっとそのためにあるから』
決めたのに。
春になって、気持ち入れ替えて、きっと誰かの力になろうって。
あの時から、何も変わってないじゃないか、俺。
何も出来てないじゃないか、俺。
俺……
「……こんな、弱い自分は、嫌だ……ぁッ」
泣いてる場合じゃないのに、悔しいぐらい涙が止まらない。
「……久城……」
血と涙でぐしゃぐしゃの俺を、瑞葉はどんな顔をして見てるんだろう。
情けない奴だと思ってるだろうか。
「…………ごめん」
けど、彼女はなぜかそう言った。
意味が、分からない。
ここでどうして、謝罪されるのか?
「止めて、ごめん。お前なら動ける」
いまだ謝罪する瑞葉の手が、俺の手に触れた。
途端――
「…………っ!?」
浮遊する感覚。
いや、飛翔する感覚?
血の巡りが速くなっていくのが分かる。
活力が湧き上がってくる。
まるで枯れかけた樹が水を与えられて吸い上げるように。
一方で、もう1つ別の流れも感じた。
体内にある異物を吸い上げられる感覚。
蓋。そう、蓋だ。
栓が、抜ける。
* * *
背後に、妙な気の流れを感じて彼女は振り返った。
(交換? いや、逆流?)
滅多にはないその不自然な流れに足を止めた彼女は、次の瞬間鬼の腕が伸びてくるのを視界に捉えた。
「!」
瑞葉茨乃の鬼の腕だ。
瑞葉茨乃の動向に関しては、彼女の主人に代わってよく調べてあった。
ここのところ、妙に弱体化していること。
併せて、今の彼女の最大の武器であろう鬼の腕の行使を、日に1〜2回と制限していること。
なぜ弱体化しているのか、そこまでの調べは及んでいないが、腕の使用制限の理由は明白だった。
あまり使えば『喰われる』のだろう。
茨乃の腕を軽いステップでかわして、彼女は思わず呟いた。
「よいのですか」
近くに土鬼がいる状態で、あの鬼の腕を振るうのは危険なことだ。
同属のものは互いに共鳴する。
気を抜けば、彼女の中にいる鬼が力を増して破り出てくる可能性もある。
が
「……いいんだよ、もう」
諦観、だろうか。
いや、それにしてはあまりに清々しい表情で彼女はそう言った。
「!」
そのことに気をとられたせいか、彼女は一瞬気付くのが遅れた。
茨乃の鬼の腕が、土鬼を縛る呪縛に伸びたことを。
「ま」
制止するのも虚しく、鬼の腕は拘束の縄を易々と解く。
「ガアアアアアアアアアアアアアッ」
鬼の咆哮が轟く。
不本意な拘束をされたことに気が立っているのだろう。
しかし。
「!?」
その咆哮がピタリと止んだのだ。
血まみれでボロボロの少年が、その鬼に触れただけで。
* * *
頭痛がひどい。
割れそうなほど。
そういえば、こんなにひどい頭痛は久しぶりだ。
分かっている。
頭痛の元凶は目の前にいるあの鬼だ。
「ガアアアアアアアアアアアアアッ」
耳をつんざくような鬼の咆哮も、頭痛がひどすぎるせいかあまり気にならない。
腕が動く。足も動く。
俺はただ、取り戻したいだけ。
小生意気で、自己中で、そのくせ危険を顧みない、妹想いの小さな鳥を。
「セキ……!」
両手を伸ばして、鬼の身体に触れる。
途端、鬼は動きを止めた。
触れたところから何かが鬼に流れていくのが分かる。
これが気、なんだろうか。
「ア、アアア、ア」
じわじわとしみ込むように、それは鬼の身体に流れていく。
そして。
「……ああ」
光と共にセキの身体が浮き出たかと思うと、あとの部分は泥のようにずしゃりと地面に崩れ落ちた。
すうと、セキが瞼を開く。
そこには変わらない透明な眼があった。
「……そう、その力です」
セキは言った。
「息吹きの力。力強く生きる力。……その力で、僕は記憶の断片からこの身体を得た」
光の中で、彼女は微笑む。
「……ありがとう、こんな得体の知れない者の願いを聞き届けてくれて」
「セキ……」
「妹には会えなかったけど、本当は、喜ぶべきことなのかもしれませんね。だってあの子は僕みたいに、迷子になっていないんでしょう?」
ああ、そうだ。
きっとそうだ。
俺はただただ頷いた。
「……あまり無理に首を動かすと身体に障りますよ」
俺のボロボロさ加減を見てか、セキは苦笑する。
その笑みが段々と透明になっていって
「セ……」
ふと消えてしまいそうな彼女に手を伸ばそうとすると、逆に彼女に手を握られた。
もう、ほとんど感触のない手。
「貴方は寝坊で、怖がりで、女性の後ろに隠れるような情けない男児ですが」
けど、その手は温かかった。
「とても真っ直ぐで、好ましい」
「セキっ」
次に手を握り返そうとしたときには、もうそこに彼女はいなかった。
まるで青い空に溶けてしまったみたいに。
「……なんだよ、それ」
飛んでいってしまった小鳥を、掴める腕なんて俺にはなくて。
「……褒め言葉なんて残していくなよ。らしくねえ……」