E3.5:帰路
重い身体を引きずるように、少女はゆっくりと帰路を歩いていく。
先刻、同業者である養護教諭に言われた言葉を思い起こしながら。
『記憶を消すって言っても、きっとそのうち綻びが出てくるわよ? それに久城君は自分の体質を受け入れてる。その彼にそこまでする必要があるの?』
(……そんなことは、分かってる)
心の中で、茨乃はそうこぼした。
彼と夜に会ったのは、もう3度目。
まるで運命のように。
まるで、彼女が望んだみたいに。
しかし。
「…………ッ、またか」
前方にゆらりと浮かんだ影を見て、茨乃は憎らしげに悪態づいた。
心鬼――それも3匹。
「……なんでこんなときに……!」
茨乃は右腕を抑える。
今日はもう、それを使う余裕などなかった。
けれど鬼はゆるゆると彼女に近づいてくる。
その緩慢な動きですら、今の彼女には恐ろしく見えた。
「っ」
彼女は逆の方向へと駆け出す。
完全な敵前逃亡だった。
* * *
目を覚ますと、そこは学校の保健室だった。
「…………れ?」
窓の外は暗い。まだ夜のようだ。
状況が掴めず、重たい瞼をこすっていると。
「おはよう、久城君」
覗きこむように、木村先生の笑顔が降ってきた。
「!?」
驚いて飛び起きると
「ぁたッ!?」
体中が悲鳴を上げるように軋んで、硬直してしまった。
「無理しちゃ駄目よ。貴方、鬼に身体を乗っ取られたとき相当人間離れした動きしてたから」
「え……乗っ取られた?」
先生の言葉に目を丸くする。すると先生は丸椅子に座って苦笑した。
「やっぱり覚えてないか」
「……え、いや、俺……」
「ああいいのよ、気にしないで。精霊の御技だもの、人智を超えた暗示くらい出来るんでしょうねえ」
先生はひとりなにやら感心したように頷いている。
「あの、先生」
「ん?」
「瑞葉のやつはどこ行ったんすか?」
俺がそう尋ねた途端、先生は目を丸くして固まってしまった。
「あの、せんせ?」
「……ってちょっとまてーーい! 何なの、君全部覚えてるの!?」
俺に掴みかかる勢いで先生は尋ねてきた。
「え、いやだって、昨日逃がした鬼を捕まえるために2人が俺をぐるぐるに……」
俺がそこまで言うと、先生は浮かしていた腰をどかりと椅子に降ろし
「はめられたッ!」
それだけ悔しげにこぼして脚を組んだ。
「なんなの、記憶消せるってのは嘘だったの? まったく大人をからかうなんていい度胸してるわね、あの精霊」
ぶつぶつと愚痴をこぼしている木村先生。
「あのー、先生」
「ん? ああ、瑞葉さんなら先に帰らせたわよ」
帰らせた?
「それってどういう……」
「あーほら、質問はまた今度。君ももう帰りなさい。身体ガタガタでしょ?」
先生はそう言うと俺をぱっぱと保健室から追い出した。
校舎の裏口から外へ出ると、いつの間にか雨がぽつぽつと降り始めていた。
天気予報なんて見るたちじゃないので、当然傘なんて持ってきていない。
俺は鞄を頭の上に抱えて歩き出す。
ふと校庭にある時計を見ると時刻は既に9時を回っていた。
よろりよろりと神木の夜道を歩いて帰る。
……それにしても脚が痛い。
筋肉が痛いのか骨が痛いのか、準備なしにマラソンを全力で走った後みたいな感じ。
この調子だと明日も響いているだろう。
ぐるぐる巻きにされたと思ったらいつの間にかことは全部終わってるし。
「……また瑞葉のやつ、なんの説明もなしに帰るんだもんなー」
これじゃあ巻き込まれた側としては納得できないというかしっくりこないというか。
「…………」
ふと、脚が止まる。
『ほんとに久城君は瑞葉さんのことが気になるのね』
先生に言われて、からかわれた言葉。
確かに自分でも、何かおかしいくらいに気になってる。
なんで?
そりゃあ確かに顔は好みだけど、中身は想像してたのと大分かけ離れてるわけだし。
いや、別に気の強い女が嫌いってわけじゃないけどあれは気が強いというより口の利き方が乱暴なわけで。
昨日初めてまともに喋ったってのにいきなりあれだし。
まるで。
そう、まるで。
「……初めてじゃないみたいだ」
思わず口に出してそうこぼしたとき。
――バシャリ、と。
前方で大きく水が撥ねる音がした。
「?」
思わず顔を上げると、そこに見えたのは水溜りにうずくまる人影。
状況からして、その背後にある金網のフェンスを飛び越えたのだろう。
そして。
「!」
そのフェンスの向こう側に見えるのは、鬼。
よろよろと、しかし確実に、複数の鬼たちはそのフェンスをよじ登ろうとしていた。
「っ」
後ろを一瞬振り返り、うずくまっていたそいつは逃げるようにこちらに走ってくる。
しかし疲労しているのかその動きにもキレがない。
よく見ると……
「瑞葉!?」
逃げているのは間違いなく、彼女だった。
俺の声に驚いたのか、彼女はぱたりと立ち止まる。
長いこと雨に当たっていたのだろう、髪も制服も、全部ずぶ濡れだった。
「また説明もなしに消えたと思ったら何やってんだよお前!?」
俺がそう言うと彼女は見開いていた目をさらに丸くした。
が、すぐ悔しげに目を細める。
「小夜のやつ……わざと消さなかったな」
そうこうしていたら後ろのフェンスをとうとう鬼が乗り越えてきた。
「っ」
瑞葉は戦おうとはせず、そのままこちらに逃げてくる。
が、3匹のうち最も身軽そうな小柄の鬼がフェンスを蹴って彼女に飛びかかろうとした。
「瑞葉、伏せろ!」
俺が叫ぶと、彼女は反射的にその身をかがめていた。
鬼はそのまま彼女の頭上を通過して俺の方へと飛んでくる。
「こっちくんなッ!!」
とっさにかざした拳で殴り飛ばすと、鬼は傍らの電柱にぶつかって伸びた。
が、瑞葉はそれを見て苦い表情を見せる。
「……やっぱり消えない」
残りの鬼2匹もわらわらとこちらに寄ってくる。
瑞葉は右腕をかばうように抑えた状態で、全くと言っていいほど戦意が感じられない。
「お前、今腕使えないのか?」
「……見て分かんねえかよ」
……ですよねー。
「なあ、じゃああの鬼はどうやったら倒せるんだ? 今日の鬼とはまた別物に見えるけど」
「あれは心鬼だ。人の心に棲む鬼。何かがきっかけで外に出てきたんだろうが存在自体があやふやだから殴れば消えるはずだったんだ」
……はずだった?
ふとさっき電柱で伸びていた鬼を見ると、そいつは既に立ち上がって再びこちらへ来ようとしている。
「殴っても消えてなくない!?」
「だからさっきから逃げてんだろこの馬鹿!」
「お前俺のこと馬鹿馬鹿言いすぎじゃね!?」
「何度も言わすなこの馬鹿! 今はそれどころじゃ……」
俺たちが喚き合っていると、ゾンビみたいに鬼が迫ってきた。
「あああもおおお!?」
情けない叫び声を上げてしまった、その時。
スパっと風が吹いたかと思うと、鬼達の身体に亀裂が入った。
「――――え?」
入ったかと思うと、あれだけ不気味だった鬼は跡形もなく消滅した。
「お前ら雑魚相手に何やってんだー?」
宙から幼い声が聞こえる。
見ると、そこには
「お前、木村先生が連れてきてた…………カマキリ?」
「か・な・き・りだっ! 名前くらい覚えとけッ」
金髪の妖精みたいなガキんちょは、ぷかぷかと浮いたままふんと鼻を鳴らした。
「悪い、助かったよ」
こっちが頭を下げるとやつはすぐ機嫌を直したようだった。
「にしてもお前ら、心鬼相手に何やってんだよ? このド素人っぽい兄ちゃんならともかく瑞葉の姉ちゃんなら余裕だろ?」
金髪のガキは心底不思議そうに瑞葉に尋ねた。
「…………」
瑞葉は渋い顔をして黙ったままだ。
というより、顔色が悪い。
もともと色白な奴だけど、今はなんというか、血の気がないというか。
このまま放っておいたらそのうち倒れそうだ。
「おい瑞葉、大丈夫か?」
俺が尋ねると、答えたのはなぜか金髪のガキで。
「兄ちゃん、そこは『大丈夫か』って訊く前に『俺の部屋に来いよ。温めてやるから』、だろ?」
「…………」
「…………」
瑞葉と俺は思わず沈黙した。
「ちょッ!? なんだよお前ら白い目でこっち見んなよ! 俺なんか間違ったこと言ったか!?」
顔を真っ赤にするガキんちょは確かにガキんちょなんだが、なんつーか、発想が古い。
古いっつーか今時ねえよそんなキザな台詞。
まあ、キザ台詞とか下心とかはこの際置いておいて。
「俺ん家近いから寄ってけよ、瑞葉」
俺が声をかけると、瑞葉は視線を足元にやってじっと考え込み始めた。
…………その間が、長いのなんの。
ちょっと待て!
俺ってそんなに信用ないのかッ!?
「別に変な意味で言ったわけじゃないぞ!? お前服びしょ濡れだしせめて服乾かして傘持って帰れよ的な意味であって特段あーだこーだなんてなんにも、これっぽっちも考えてないからなッ!?」
ってなんか余計なこと口走ってないか俺!?
しかし。
「んな心配誰もしてねえよ」
ぽつりと、瑞葉は言った。
嫌味とか、そんな余分な感情はその声音からは全く感じられず、本音だということがよく分かった。
よく分かったから、むしろ。
「お、兄ちゃん顔赤くなってね?」
ガキの冷やかしに余計に顔が赤くなった。
「るせっ!」
俺が吼えると奴はけらけらと楽しそうに笑ってあさっての方向へと飛んでいった。
どうやら本当の主人の元へと帰るらしい。
「……で、どうすんだ?」
照れを隠してわざと視線を合わせず尋ねると、瑞葉はふいと俺の脇を横切った。
「え、あ、ちょ、帰るのか?」
慌てて彼女の背中に声をかける。
すると。
「お前ん家にな」
彼女ははっきりと、そう言った。
お久しぶりです。
サイマガ改訂も終わったのでこちらの連載に集中したいと思います。
どうぞよろしくお願いします。