第六話 選択(第一部・完)
証拠は、揃わなかった。
ライターの男――真鍋は、犯行時刻に自宅で原稿を送信していた。通信ログも一致。凶器からは指紋が出ない。動機はあるが、決定打がない。
班内の空気は冷えている。
「勘違いだったんじゃないか」
誰かが言う。
柴崎は何も答えない。勘ではない。
あの取調室で視えた映像は、明確だった。
だがそれは“これから起こるかもしれない犯罪”であって、今回の刺殺とは限らない。
もし真鍋が犯人でないなら。
彼は、まだ踏み越えていない。
数日後、第二の刺殺事件が起きた。
被害者は無関係の通行人。動機は不明。凶器は同型のナイフ。手口は酷似。
署内が騒然とする。
「模倣犯か」
「同一犯の可能性もある」
柴崎は現場に立つ。
血の匂い。
視界は、揺れない。犯人が近くにいないからか。
それとも――
数時間後、防犯カメラの断片映像が見つかる。フードを被った男。歩き方、体格。
真鍋に似ている。
柴崎は単独で動く。真鍋の自宅近くの路地。
夜。
街灯の光は弱い。
真鍋が現れる。静かに歩く。目が合う。
――裂ける。
今度は鮮明だ。
真鍋が路地で誰かを刺す。顔は見えない。だが刃は迷いなく急所に入る。
映像は一度ではない。何度も繰り返される。
連続。確定に近い濃度。
現実では、真鍋は立っている。
「あなたは来ると思っていました」
真鍋は落ち着いている。
「今回も、何か見えましたか?」
柴崎は拳銃を抜かない。
「お前がやったのか」
「どの世界の話ですか?」
真鍋は小さく笑う。
「あなたは見ている。でも理解していない」
柴崎の喉が締まる。
「お前も見えるのか」
「見えるというより、分かる」
一歩、真鍋が近づく。
「人は、追い詰められたときに踏み越える。その瞬間が濃くなる。あなたは、それを覗いている」
「だから殺したのか」
「いいえ」
真鍋は首を振る。
「僕は、あなたが濃くした分岐を、拾っただけです」
時間が止まる。
村上。
あの刺傷。
「あなたが強く疑い、強く断じたとき、分岐は固まる。僕は、それを選んだ」
柴崎の視界が揺れる。
自分が取調室で机を叩く映像。疑いの目。
容疑者の表情が変わる瞬間。
「観測は干渉です」
真鍋が静かに言う。
「あなたは、可能性を押し上げる。僕は、それを実行する」
柴崎は拳銃を抜く。
真鍋の目がわずかに細まる。
その瞬間、視界が裂ける。
撃つ未来。
真鍋が倒れる。血が広がる。
次の映像。
撃たない未来。
真鍋が闇に消える。数日後、別の刺殺。
さらに映像。
撃たない未来。真鍋が逮捕される。証拠が偶然見つかる。だが別の誰かが踏み越える。
分岐が無数に重なる。どれも、完全な救いはない。
柴崎の指が引き金にかかる。真鍋は動かない。
「あなたは撃てない」
「なぜだ」
「あなたは“確定”を恐れている」
夜風が吹く。視界がさらに揺れる。
今度は、自分。取調室で容疑者を追い詰める。
視えた未来に怯え、疑いを強める。
分岐が濃くなる。
連鎖。
能力は、止まらない。
柴崎は理解する。これは未来予知ではない。
“確率の増幅”。
疑念が、圧力が、分岐を押し上げる。
撃てば、この瞬間は確定する。
撃たなければ、別の分岐が動く。
どちらも、自分の干渉。
柴崎はゆっくりと息を吐く。引き金から指を外す。銃口を下ろす。
視界が、一瞬だけ白くなる。
――何も視えない。
初めて。分岐が消える。
真鍋の目がわずかに揺れる。
「……なるほど」
遠くでサイレンの音。
倉田の声が無線から聞こえる。
真鍋は動かない。
柴崎は言う。
「俺は、押さない」
「それで止まると?」
「分からない」
真鍋は微笑む。
「あなたが押さなくても、誰かが押す」
パトカーの光が路地に差し込む。
制服警官が駆け寄る。真鍋は抵抗しない。連行される背中。
柴崎は立ち尽くす。
視えない。誰を見ても、何も視えない。
能力が消えたのか。
それとも、自分が“観測を拒んだ”からか。
倉田が近づく。「遼、大丈夫か」
目が合う。何も視えない。だが、安心はできない。
能力が消えた証拠はない。
もしかすると。観測者は一人ではない。
真鍋はパトカーに乗せられる前、振り返る。
「三人目がいますよ」
その言葉だけを残して。パトカーが走り去る。
夜空は静かだ。柴崎は深く息を吸う。
可能性は、まだ街に満ちている。
だが今は、何も視えない。それが救いか、嵐の前かは分からない。
ただ一つ分かったのは。
観測をやめるという選択だけが、干渉を弱めるということ。
だが刑事として、それを続けられるのか。
遠くでまたサイレンが鳴る。
柴崎は歩き出す。何も視えないまま。
それでも、事件は続く。




