第五話 対峙
連続傷害事件の公判準備が進む中、新たな事件が発生した。
深夜の路上で男性が刺殺された。凶器は現場近くに放置。防犯カメラは死角。目撃者なし。犯行は冷静で、無駄がない。
第一報を聞いた瞬間、柴崎の胸の奥が静かに沈んだ。
現場は住宅街の裏路地。血は乾き始めている。被害者は四十代男性。争った形跡はほとんどない。急所を一突き。
「プロか?」
誰かが呟く。
柴崎は何も言わず、周囲を見る。
視界は、揺れない。
誰と目が合っても、何も視えない。
それが逆に、不気味だった。
数日後、参考人が浮上する。被害者と金銭トラブルがあった男。三十代前半、フリーのライター。冷静で、言葉を選ぶタイプ。
取調室。
男は柴崎をじっと見返す。目が合う。
――何も視えない。
一瞬の歪みすらない。
初めてだった。
「あなたは、彼と最後に会ったのは?」
「一週間前です」
声は安定している。視線も逸らさない。
柴崎は集中する。視えろ。
いつもなら、最も踏み越えやすい瞬間が裂けるはずだ。
だが、無音。まるで、可能性が存在しないかのように。
「どうしました?」
男が微かに笑う。その瞬間、柴崎の背中に冷たいものが走る。
この男は、揺れない。
通常、人は誰でも何かしらの犯罪可能性を抱えている。衝動、怒り、事故、過失。
だがこの男には“濃い分岐”が見えない。
取調室を出ると、倉田が聞く。「どうだ」
「……何も」
「何も?」
柴崎は頷く。
倉田は眉をひそめる。「珍しいな」
珍しいどころではない。
夜、捜査資料を読み直す。被害者の交友関係、金銭履歴、通話ログ。
ライターの男は確かに動機を持つ。だが決定打がない。
そのとき、ふと思い出す。
村上のとき、佐伯のとき、連続傷害犯のとき。すべて、“踏み越える瞬間”が視えた。
だが今回は、空白。
もしかして。柴崎は思考を整理する。
能力は“最も高まった犯罪分岐”を視る。
ならば。もし相手が、すでに分岐を超えていたら?
踏み越えたあとなら?
再び取調室へ向かう。ドアを開ける。
男が静かに座っている。目が合う。
――裂ける。
だが映像は、これまでと違った。
暗い部屋。机の上にノートパソコン。男が画面を見つめている。
そこに映るのは、新聞記事。柴崎の名前。事件解決の経緯。
男は小さく笑う。
そして別の映像。
路地裏で誰かを刺す。だが顔は見えない。被害者はランダム。動機は薄い。
映像が途切れる。現実に戻る。
柴崎の心拍が上がる。
これは、“踏み越える直前”ではない。
“観測している未来”。
男は低く言う。「刑事さん、あなた、最近眠れてますか」
「……なぜ」
「目が、疲れている」
言葉の奥に、微かな含み。
「あなた、人を見るとき、何かを探している」
柴崎は黙る。男は視線を逸らさない。
「僕は、可能性が嫌いなんです」
その言葉に、血が引く。
「可能性?」
「人は誰でも、やろうと思えばやれる。でも、やらない。それが社会でしょう?」
男は微笑む。
「でも、もし“やれる未来”がはっきり見えたら、どうします?」
柴崎の喉が乾く。
この男は、知っている。いや、感づいている。
「僕は、やれることを、やっただけです」
静かな声。
「あなたも、そうじゃないですか?」
映像が重なる。
村上が刃を振るう未来。
倉田が銃を構える未来。
自分が撃たれる未来。
男は続ける。
「僕は二人目ですよ」
時間が止まる。
「……何の話だ」
「最初の人は、もっと分かりやすかった。あなたの“目”で、壊れた」
村上の顔が脳裏をよぎる。
男は立ち上がらない。ただ座ったまま、穏やかに言う。
「あなたは、見ている。だから、押している」
柴崎の視界が揺れる。
今度は自分。
取調室で、机を叩く。強い言葉。容疑者の目が変わる。
分岐が濃くなる。男の声が遠くで響く。
「観測は、干渉ですよ」
現実に戻る。取調室の空気は変わらない。
だが柴崎は理解する。この男は、偶然ではない。
能力の存在に近い。
あるいは――
同じ側にいる。
取調室を出ると、倉田が聞く。「どうだった」
柴崎は静かに言う。「こいつは、危ない」
「証拠は」
「……まだない」
廊下の先で、男が連行される。その背中を見る。
視界は、今度は静かだ。何も視えない。
まるで、分岐が確定しているかのように。
柴崎は思う。能力は未来を見ているのではない。
“可能性を濃くする者”と、“濃くされた者”を区別している。
もし、この男が同じ能力を持っているなら。これは事件ではない。
観測者同士の、静かな実験だ。
夜風が冷たい。
柴崎は初めて、自分が狩る側ではなく、観測される側にいるかもしれないと感じた。




