第四話 崩壊
署内の空気が変わり始めたのは、佐伯の件が報告書にまとまってからだった。
「柴崎は勘が良すぎる」
「外すときは強く外す」
そんな声が、直接ではなく、廊下の向こう側から聞こえる。
内部監察は表向き静まったが、監視は続いている。取調室の録音は細かくチェックされ、発言一つが精査される。倉田でさえ、どこか距離を置き始めた。
「最近、目つきが変わった」
帰り際、倉田が言った。
「どう変わった」
「決めつける目だ」
柴崎は答えなかった。
決めつけているのは自分か、それとも視えた映像か。
その夜、通報が入る。住宅街での連続傷害。帰宅途中の女性が背後から殴られ、バッグを奪われる事件が三件続いている。防犯カメラは曖昧。目撃証言も不鮮明。
班は広域で張り込みを開始する。
公園のベンチ。柴崎は夜気の中で立っている。通行人と目が合うたび、視界が揺れる。
ナイフを握る未来。誰かを突き飛ばす未来。
どれも断片的で、現実には起きていない。
やがて、一人の男が視界に入る。フードを深く被り、足早に歩く。
目が合う。
――裂ける。
路地裏。女性を背後から殴る。バッグを奪い、走り去る。三度繰り返される映像。迷いがない。現実に戻る。
男はまだ何もしていない。
柴崎は無線で位置を伝える。「対象、北側へ移動」
張り込みの刑事たちが包囲する。
男は振り返り、走り出す。路地へ逃げ込む。
追う。角を曲がった瞬間、視界が揺れた。
今度は別の映像。
路地裏で、男が振り返り、ナイフを振るう。警官が腹を押さえ、崩れる。
現実では、男の手は空だ。だが、映像は鮮明だ。
柴崎の足が止まる。
倉田が横を抜ける。「遼、行け!」
追い詰められた男は、フェンスにぶつかり、転ぶ。制服警官が取り押さえる。
抵抗はあるが、刃物は出ない。
確保。呼吸が荒い。
「凶器は?」
「所持なし」
柴崎は男を見る。視えない。
さきほどのナイフの映像は、もうない。
署に戻り、男を取り調べる。過去の前科、生活状況、周辺の足取り。
証拠は積み上がり、連続傷害の犯人である可能性は高い。
だが柴崎の頭に残っているのは、別の映像だ。
警官が刺される未来。あれは何だったのか。
取調室を出ると、倉田が壁にもたれている。
「さっき止まったな」
「……何が」
「路地。いつもなら突っ込んでる」
柴崎は答えない。
「遼、お前、最近おかしい」
倉田の目が真っ直ぐに向けられる。
その瞬間、視界が裂けた。
暗い路地。倉田が拳銃を構えている。向こうに立つのは、柴崎。銃声。柴崎が倒れる。
映像は一瞬で消える。現実では、倉田はただ立っている。
柴崎は喉の奥に冷たいものを感じた。
「……何でもない」
その夜、報告書を作成しながら、柴崎は能力について整理する。
視えるのは、今この瞬間に“最も踏み越えやすい犯罪の分岐”。
確定した未来ではない。
そして、その分岐は、状況と心理で変動する。
追い詰めれば、濃くなる。疑えば、鋭くなる。
つまり――
自分の視線や言葉が、分岐の確率を押し上げている可能性。
能力は観測ではない。干渉だ。
その仮説に行き着いたとき、背筋が冷えた。
もしそうなら、村上の刺傷も。
自分が“やる目だ”と断じた瞬間、分岐が固まったのではないか。
数日後、連続傷害の男が起訴された。証拠は揃っている。社会面の小さな記事で終わる。
だが、署内で小さな事故が起きる。
別件で取り調べ中の容疑者が、突然暴れ、制服警官が軽傷を負う。
柴崎は廊下の向こうからその様子を見た。
目が合う。一瞬、視える。
容疑者が警官の首を締める未来。
現実では、すでに警官は押さえ込んでいる。
だが、柴崎ははっきりと感じる。
疑念を強めれば、あの未来は濃くなる。
彼は目を逸らした。初めて、意図的に視線を外した。
すると、映像は薄れる。能力は、視線に反応している。
観測しなければ、分岐は揺らぐ。
だが、刑事として、視ないという選択は致命的だ。
夜、署を出る。
階段を下りるとき、ふと足を止める。
上から誰かが押す映像が一瞬よぎる。
振り返る。誰もいない。
だが、胸の奥で理解する。視える対象に、自分も含まれ始めている。
別の世界で、俺は撃たれている。別の世界で、俺は引き金を引いている。
能力は外側だけを向いていない。内側にも向き始めている。
柴崎は夜空を見上げる。雲の隙間から、わずかな星が見える。
可能性は無数にある。だが、自分がどれを押し上げているのか、もう分からない。
足元が、少しずつ崩れ始めていた。




