第三話 冤罪
男は静かすぎた。
取調室で向かい合うその男――佐伯は、四十代前半。会社員。被害者と同じ部署。金銭トラブルがあった。証拠は揃い始めている。通話履歴、口論の目撃証言、犯行時刻前後の足取りの曖昧さ。
「私はやっていません」
声は落ち着いている。怯えも、怒りもない。
柴崎は視線を上げる。
視るな、と自分に言い聞かせる。だが逸らせない。
――歪む。
階段。薄暗い非常灯。佐伯が被害者を突き落とす。鈍い音。頭部から血が広がる。佐伯は息を荒くしながら階段を駆け下りる。
そこで映像は終わる。
現実に戻る。
佐伯は椅子に座り、両手を膝の上に置いている。
だが――違和感がある。
さきほどの映像には“迷い”がなかった。衝動ではなく、計算された動きだった。だが現実の佐伯からは、その冷たさが感じられない。
「事件当日の二十一時、あなたはどこに」
「自宅です」
「証明は」
「ありません。妻は実家に帰っていました」
柴崎は黙る。
視えたのは殺した未来。だが、どこか輪郭がぼやけている。村上のときのような、確定に近い感触がない。
署内では、起訴の流れが固まりつつある。被害者は意識不明のまま。世間の関心も高い。
倉田が言う。「状況は揃ってる。ここで外せば、班が叩かれる」
「……違うかもしれない」
倉田が苛立つ。「またそれか」
柴崎は口を閉ざす。
能力の話はできない。できれば終わる。だが、視えた映像と、現実の空気が一致しない。
夜、柴崎は一人で現場のマンションへ向かう。非常階段を上る。映像と同じ位置に立つ。
足を止める。
視界は揺れない。
何も視えない。
あの映像は、ここで起きるはずだった。
だが何かが違う。
階段の踊り場に小さな傷がある。金属製の手すりの根元。塗装がわずかに剥げている。
柴崎はしゃがみ込む。
この高さ、この角度。もしここで突き落とされたなら、被害者はこの位置には落ちない。
映像と物理が一致しない。
署に戻り、鑑識の報告書を読み直す。落下地点の位置、頭部の打撲箇所。
計算する。
映像では“ここ”から落ちた。
だが現実の傷は、“もっと上”から。
つまり――
映像は、この世界の事件ではない。
別の分岐。別の可能性。
だが、可能性が高まった瞬間を視ているなら、なぜ一致しない。
翌朝、被害者の意識が戻る。供述は予想外だった。
「突き落とされていない」
階段で足を滑らせた、と言う。直前に誰かと揉めたが、押されたわけではないと。
班内がざわつく。
「かばっているのか」
「脅された可能性は」
柴崎は黙って聞いている。佐伯を見る。
――揺れる。
今度は、何も起きない未来。
佐伯が自宅でテレビを見ている。普通の日常。階段事件は起きていない。
映像は短く、静かに消える。
能力が、否定している。
だが、これまで視えた映像のいくつかは現実化した。
何を基準に。
倉田が近づく。「遼、どう思う」
柴崎は低く言う。「佐伯はやってない」
「根拠は」
「物理的に無理だ」
階段の角度、落下地点、手すりの傷。論理で組み立てる。能力には触れない。
班長は渋い顔をする。「だが動機はある」
「動機はある。でも機会が合わない」
議論が続く。最終的に、起訴は見送りになった。
数日後、別の男が浮上する。被害者の部下。金銭の横領を知られ、揉み合いになった可能性。
その男を取り調べる。目が合う。
――視界が裂ける。
階段で、突き落とす。今度は物理が一致する。高さ、角度、落下地点。
男は淡々と否認する。だが映像は強い。迷いがない。
柴崎は冷静に証拠を積み上げる。防犯カメラの死角、時間差、靴底の擦過痕。
やがて男は崩れ、認める。事件は解決した。
だが、柴崎の中に残るものは安堵ではない。
佐伯の取調室で視えた、あの殺害映像。
あれは、この事件ではなかった。
別の世界で、佐伯は本当に突き落としている。
だとすれば――
この世界で無実でも、別の世界では罪人。
それを知ってしまう意味は何だ。
帰り道、倉田が言う。「今回は助かったな」
柴崎は答えない。歩道橋の下、信号待ちの群衆を眺める。
次々と人と目が合う。刃物を振り上げる未来。車を暴走させる未来。誰かを殴る未来。可能性は、街に満ちている。
それらはまだ起きていない。だが、踏み越えれば現実になる。
柴崎は理解し始めていた。自分は、罪を視ているのではない。
“罪になり得る瞬間”を視ている。
そしてその瞬間は、疑い、圧力、追い込みによって、形を変える。
もし、自分が強く疑えば。その疑いが、引き金になるのではないか。
遠くでまたサイレンが鳴る。
柴崎は目を閉じる。視ないという選択は、できない。
だが、信じないという選択は、できるのか。
胸の奥に、鈍い疑念が沈んでいった。




